独り



此所が俺にとって唯一の癒しだ。

少しウトウトしかけた頃、俺はズリズリと聞こえる衣擦れの音に気付いて目を開けた。


───なんだ?


音の方に目をやると、ここまで登ってきた壁の方からその音は聞こえるようだった。


───おいおい……。この音……。人が登ってきてる音じゃねえか?


俺はパンをくわえたまま顔をしかめた。

途中ズザァッとすべるような音が聞こえると小さくなるが、その音は着実に大きくなってくる。


───これ、ぜってぇ人登ってきてるだろ。おい……、まさか……。


固まってそっちを眺めていると、やがて屋根の端っこをつかむ手と共に顔が現れる。


……リヒトだった。


───クソガキィ!ってかホラーかよ!何なんだよこいつ!ホンットに!


強く歯を食いしばると、くわえていたパンはコロコロと下へ落ちてしまう。

頭の中を駆け巡る怒りに、俺は震え、ひきつった。


「ノシロン!ご飯するなら言ってよ!もう、手ぇ痛かったよ。登ってくるの大変だったんだから。わぁ!いい眺めだね!」


───主よ。珍しいかもしれねぇが久しぶりに語りかける……。われ再び人をあやめる。今さら文句ねぇよな?


「っざけんなよっ!いい加減まとうな!ぶっ殺すぞ!」


「だってピアナ様が寝食を共にしなさいって言うんだもん。キチンと一緒に守ろうよ。あ!ねぇ、あそこの高い建物なぁに?ここすごい素敵な場所だね。これからずっとここでご飯食べようよ」


こいつは絶対に友達などいなかったはずだと思う。

こんなに人の話聞かねぇマイペース野郎は見たことがねぇ。

これからずっとここでご飯食べようよ?

ついに俺の聖域までおかされた……。

ああ……。災いだ災いだ……。


「ヒンメルとシエロの野郎かぁぁぁっ」


「何?あ、ヒンメルとシエロ可愛くて料理上手だねぇ。このキッシュって食べ物すごく美味しいよ。一緒に食べよ。部屋の窓からノシロンの服っぽいのが動くのがチラッと見えたから、ここかなぁ?って思ったんだ」


リヒトは布でるんで腰に結び付けたバスケットを満面の笑顔で取り出した。

あいつらがチクった訳ではないようだ。

そういえば俺の部屋(今ではこいつに占領されてるが……)は3階の端だ。どうやら登るところを見られてしまったらしい。


「やかましい!今度ここに登ってきたら間違いなくお前を殺す!てか、その面見せたら殺す。てか、もう殺す!」


「そんな言葉使ったら駄目だよ。はい、キッシュ」


戦いに行きたがってる奴が何ぬかしてやがるんだと、俺は最早もはや青ざめた。

駄目だ。こいつと関わること自体が駄目だ。これは別の生き物だ。相手するだけ無駄なのだ。


この瞬間、俺は無視を決め込んだ。


「あ、どこ行くのー?」


俺は黙って壁を掴むと、屋上から素早く下へ降りた。


───当主が来るまで走ろう。とりあえず風を浴びよう。今日は天耀じゃねえよな?マジ厄日だぜ。


俺は行き先も決めずに駆け出した。




それから人のいねぇ所を適当な時間だけ走ってから孤児院へ戻る。

いつも当主が授業をする広めの部屋に入ると、すでに数人のガキ共が椅子に座って机に紙を置いている。

リヒトの野郎もガキ共と一緒になって話をしながら待っていやがった。


無視、無視。

俺は避けるようにはしの机に腰かけて足を組んだ。

間もなく当主も入って来て少し雑談すると授業が始まった。


クラウディアでは皆、あちこちの学術院に通う。

7歳から初等科。それから3年置きに10歳で中等科、13歳で高等科。16歳からは成人で、仕事する奴もいれば、専門資格が取りたくてそれぞれの研究院で勉強を続ける奴もいる。


医療研究院がクッソ難しい最高峰らしいけど、俺には関係ねぇ話だった。

俺は15の歳だが、学術院自体通ったことがない。

勉強なんてクソくらえだと思ってたけど、ここへ来てから暇潰ひまつぶしに当主の授業を受けたら意外に心地良かったんだ。


俺の中には何もなくて空っぽだったから、わかんねぇことがわかったり新しいことが頭に入ってくるのが新鮮だった。

最近になってようやく中等科レベルの話がわかり始めたくらいだが、俺は俺なりに、特に数学が好きになってボチボチやっている。


言っては何だが当主は授業が上手い。

そうじゃなければ俺がこれだけ続かないだろう。無駄なとこが無ぇし1人1人置いてけぼりもせずトントン進む。話し方が上手いのか、退屈な感じが一切しない。


「少し時間が余ったな。今日の残った時間は歴史の話をしようか」


聞き入ってるうちに結構時間が経っていた。

当主はおもむろに部屋をグルッと見渡して本を替えた。


───チッ……。数学の最後の話少しわかんねぇ。もうちょっと考えたかったけどな。


でも歴史だけは絶対に御免だ。

俺は舌打ちして紙をクシャッと握ると席を立つ。そんな俺を見てガキ共がいつもと同じように振り向いたのがわかった。でも皆慣れっこで何も言わねぇ。


当主もこの時だけはお得意の当主命令は使わない。

気ぃつかってんだろう。


───すまねぇが俺はおいとまさせてもらうぜ。


「ノシロンどこ行くの?まだ途中だよ」


───クソガキ……。お前はホンットに空気を読む力がねぇな。何でもいちいち関わってくるんじゃねぇよ。


決め込んだ無視を衝動的に我慢出来ず、俺はリヒトをにらみつけ怒鳴りかけた。


「リヒト、構わないよ。続ける」


当主はすぐさまリヒトを制して授業を再開した。

気を遣われているのがわかって少し苛立ってしまう。

眉が一瞬ゆがむ。俺はもう一度舌打ちして部屋を出ていった。

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