海と双月と漁火と


空と海は境界がわからないほど真っ暗だ。

その境界を私達に示して見せるように、煌々こうこうと燃える幾つもの漁火いさりびが舟の上で光輝いて海面に反射している。

広大なダコタの湾の出口を守護するかのように点在する炎は本当に美しい眺めだった。


「わぁ、綺麗。久しぶりに見たわ」


「本当だね」


手前ではいくつもの漁船がイカを追っている。何回も見たカラマーロ漁の炎だとわかっていながら、そのあまりに神々こうごうしい光景に私は見とれ、そして思わず心の中で祈った。


主よ。どれだけ信念を貫いても、どれだけ手を伸ばそうとも、世界は未だ悲劇に見舞われながら、私の手は汚れるばかりで誰の救いにも届かぬ。


私は漁火の光を目にともすカッコの横顔を眺めた。


こんなにもいとおしいのに、こんなにも近くにいるのに、例えその目が涙に濡れても私の手はそれをぬぐうことはおろか抱き締めることも出来ない。


私の手は、愛する人にれることすら出来ない……。


ならばいっそ、この手汚れようとも全ての罪は私が持っていきますから、どうかいとしき彼女とこの国の未来に絶えることない御加護を……。


───いつか貴女あなたの涙に、この手が届きますように……。


炎は幻想的で、静かに闇の中で揺らめいていた。

じっと眺めている私に気ついて目が合うと、カッコは茶目っ気たっぷりにニカッと笑ってみせる。


「ダー、愛してるぞ」


「えっ?」


「もう、何見てんだよう。そんなに私が可愛いかしら」


「んふふぅ」と笑って彼女は大きく息を吸い、伸びをした。海の香りと漁火の光を全て吸い込んで自分の体に染み込ませるように。


そして今度は静かな声でつぶやいた。


「ダー……、愛してるよ」


私が今、何を思っているのかを全てさっしているかのように、静かな静かな声で……。

彼女はじっと海を眺めていた。


「ありがとう」


そう言うと目を合わさずに悲しそうな顔をする。


「また『愛してる』って言ってくれないんだ」


「恥ずかしいよ……」


それはまぎれもなく本音だったが、私は愛していると口に出すことが怖かった。

触れることすら出来ない自分、手を汚し世界の闇に身を投げる自分に後ろめたさを抱いて。


私は臆病者だ。彼女を悲しませないよう努めながら結局いつも素直になれずに空回りしてしまう。

少し焦って、ふざけて言葉をつむいだ。


「男子たるもの、易々やすやすと口に出す言葉じゃありません」


言いながら余計に恥ずかしくなった。


「うわ、古っ。どこのオッサンだよ」


カッコは少し吹き出した。


「言わずともわかるだろう?」


「言わなきゃ伝わらないこともあるわ」


カッコに口で勝てることなど、まず無い。

また少し悲しい顔をさせてしまう。

私は自分の弱さも何もかもを見透みすかされている気がして、少し情けなくなる。


カッコはこの後訪れるであろう沈黙を嫌うかのように、少し笑って自分から口を開いた。


「ねえ、私達ピアナ様にお世話になってて、今アリア修道院にいるでしょう?」


「ああ」


「アリア・クロウハートって、ダー知ってる?」


クラウディアに来てからもう幾年いくねんっているが、聞いたことはなかった。


「初めて聞いたよ」


「もう何年も大昔に皇国の歌姫と呼ばれた有名な歌劇歌手なのよ?」


自分の大好きな人で尊敬する人だと前置きしてカッコは続けた。


「スルグレアのね、端の端に今はもうないけどモンテフィオラって田舎の村があったの。そこで生まれ育ったアリアはとても歌が上手で、皇都にあるクラウディアで一番の音楽学習院に入学することになったの」


カッコは嬉しそうに身振り手振り話し始めた。

笑いながら好きな話をたくさん話してくれる彼女を見るのは、私にとって一番のいこいの瞬間でもあって、うなずきながらじっと耳をかたむけた。


「田舎者だってたくさん嫌がらせを受けても、持ち前の明るさと歌の実力で周りを黙らせて主席卒業してデビューを飾ったの」


イジメへのこの仕返しのエピソードが面白いだとか、友達想いなこのエピソードが素敵だとか、カッコは面白可笑しく織り混ぜて話してくれた。


「当時ではラズリの教えはあれど、皇国で今以上に貧富格差や差別がすごかったのね。歌劇も上層階級の娯楽でしかなかったの。でもどんな人にも変わらず接して愛されて、歌劇を万民の娯楽に広めて人々の意識までも変えちゃったのが彼女なのよ」


カッコは興奮しながら続けた。そんな楽しそうな彼女がたまらなく愛らしかった。


「うん。それでそれで?」


「彼女がすごいのはここから。この国で流行はややまい蔓延まんえんしちゃってね。最初は歌を通して皆に立ち向かう勇気をくれた彼女なんだけど、富も名声も全て捨てて歌手を辞めて幼馴染おさななじみのお医者さんと結婚して、私財を全部使って建てたのがあの礼拝堂や、医療院、孤児院なのよ。そこで勉強して自らも看護資格まで取って、ずっと報われない人のために働き続けたの」


知らなかった。私達がいる修道院にそんなエピソードがあったことを。

私にとってそれは新鮮で、とても心癒される話だった。


「でも過労がたたって自身も流行はややまいにかかってしまって。そんなアリアは亡くなる直前に旦那さんにこう言ったの。『愛してるよ』って。ホントは話すことも辛い程の全身の痛みをこらえて、人生の最後の一瞬まで、愛する人を想って旅立れたの……」


興奮していたカッコは、最後は涙声になって鼻をすすっていた。


尊敬するわけだ。とても素敵じゃないか。

カッコに限らずとも、誰でもそれは素晴らしい人生だと思うはずだ。

私達が今いる場所の成り立ちに詰まった先人の想いに、思わず背筋が伸びた気がした。


「私は落ち込むことばかりだけど、そんな場所で看護師として働くことを誇りに思ってる。そしてダーに出会えて感謝してる。私もアリアのように、死ぬ間際まぎわまで貴方あなたの側にいて命に尽くすわ」


強く強く言い放つと、一呼吸置いてカッコは目をこすってから笑った。


「例え手は繋げなくても、私の気持ちはいつも繋がってるよ?」


一瞬、時間が止まったように思えた。

カッコには敵わない。私の気持ちなど本当に何もかもお見通しだ。


どうしていつもそんなに強くいられるのか。

その小さな体から、どうやってそれだけの強さが溢れてくるのか。


───いつも君は私の心を照らしてくれる。


私もそうでありたいと、アリアの話以上に目の前にいるカッコに気持ちを引き締められた。


「ありがとうカッコ。私もずっと繋がっているよ」


がらにもなく少し泣きそうになってしまった。


───君に出会えて本当に良かった。

───いつも側にいてくれてありがとう。


「今度も無事に帰ってきてね」


「約束だもの。必ず」


───ずっとずっと側にいるよ。

───どれだけくじけそうになっても、どれだけ罪を背負ったとしても。

───必ず無事に帰ってくるよ。


私達2人は互いに笑って海を眺めた。

ふと気がついて空を見上げると、リエラ青白い月の姿はもう見えなくなっている。


煌々こうこうと光を放つ大きな漁火いさりびに照らされて、ダコタの海の波は少しずつその呼吸を取り戻し始めていた。





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