聖典投げ



当主は口元を抑えて思案しあんがおを見せると、しばらく考えてから口を開いた。


「そんな話聞いたことがない。にわかには信じ難いが、それについて理解を及ぼしていくのは時間のかかる事だ。私達がすべきは、まず第一に彼の傷を治し日常生活を取り戻してやること。その点において今一番の問題は彼の心、意思の方だ」


「ピアナ様、まさかあの子を送り出すおつもりですか?」


固まっていたカッコはハッと我に返って身を乗り出した。


「まさか。私もノヴォと同感だよ。ただまず第一にすべきことは一つ一つ彼等のことを理解して心を支えてあげることだ。カッコ、とりあえずあのリヒトという子の血液採取を頼む」


「はい」と凛々りりしく返事をしてカッコはグラスに口をつけた。


「そんなことがあり得るのか……」


当主は首を捻って続けた。


「しかしそれは困ったね。驚きの連続だよ。話を聞く限り直情的というか……。真っ直ぐすぎる子だねぇ。それが一番心配だな」


当主の人を見る目は確かなものだ。ルワカナの処置に追われる前のわずかな問診の際にもリヒトのことはよく見ていただろう。


「はい。大人しい子ですが胸の内には激しいものを持っています。カッコ、今日の彼はどうしていた?」


私の問いかけにカッコは「あー、わかるぅ」、と遠くを見上げ


「あの、今日は寝てます……」


後ろめたそうにモジモジしながら言った。


「経過は順調なのだろう?薬などが効きすぎたのか?まだ疲れているのだろうか?」


当主が心配そうにすると、そちらをチラチラ見てからうつむく。


「すこぶる順調でしたわ。痛みがあるでしょうし問診以外の話はまだまともにしてなかったんですけど、『ルワカナの所へ行かなくちゃー!』とか『ラズリ様に懺悔ざんげしてきます!』とかワケわかんないことばっか叫んで飛び出して行こうとしたので、あのぉ、思わず……。うるさい!寝てろ!って聖典投げつけちゃって……」


カッコはうつむいたまま指をいじった。


「今は医療院のベッドで失神して寝てると思います」


「聖典投げつけたぁ?」


ラズリ聖典はラズリの教えとクラウディア法整備をまとめたとてもとても分厚い本だ。


思わぬ話に私達は揃って目を丸くしたが、思わず一斉に吹き出した。

当主ですら普段の沈着冷静なたたずまいが嘘のように声を上げて笑った。


「アッハッハッ!さすがカッコだよ。それは今日一番の仕事だな」


「オメェ、マジあり得ねぇ。皇国最強看護師だわ」


ホセも吹き出した笑いを必死にこらえるように肩を震わせた。

私も思わず笑ってしまい、カッコは「うー!」とうなりながら真っ赤になった顔を手で隠す。

その肩を当主はさも愉快そうにポンポンと叩いた。


「看護の激務はわかっているよ。カッコみたいなのがいるから医療院は成り立っているんだ。聞き分けのない子どもは大変だからね。でもケガだけはさせちゃいけないよ。あと聖典は投げないように」


カッコは恥ずかしがって顔を隠したまま「ピアナ様ぁ」と甘い声を出してから


「はい。今度は医療大全にします」


と、元気な声で答えた。

本を替えればいい問題でもないと思うが。しかも医療大全は聖典よりも分厚かった気がする。

ホセはビールを持ちながら、「え?」と顔に出し固まっていた。


当主はさとしながらも楽し気に笑う。

カッコはそこにいるだけでいつも周りを巻き込んで笑顔の輪を作る。

真っ直ぐで飾り気のない言葉を遠慮なくぶつけながらそばにいてくれるカッコに、皆いつも救われていた。






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