五訓の記憶


──何だろう?何かあったのかな?


帰ってからずっと右手のことで頭がいっぱいだったからわからなかった。

僕は気になって、近寄って2人の腰の間からひょっこり窓の外へ顔を覗かせに行った。


通りを挟むように建物が連なっているいつもの軒先はいつもと違い、お向かいの2階3階のご近所さんも窓から外の通りを険しい顔で眺めている。


通りの両端にも、建物沿いに人がたくさんいて、皆同じように険しい顔を見せたり不安そうに眉をひん曲げてヒソヒソ話をしているのが見えた。


その人達が一様に同じ方向に向ける視線につられて、僕も窓に頬っぺをくっつけてそっちを眺めてみる。


通りの端から、ちょうど我が家の手前に差し掛かる長い長い行列が見えた。

真っ白な石畳いしだたみに溶け込むように、真っ白な髪、真っ白な肌、真っ白な服を着た人達が、綺麗な列を作ってゆっくりと歩いてくる。


よく見るとその人達は皆同じように、手には木の枷を着けて、足には鎖を繋いで下を向いていた。

男の人、女の人、おじいさん、おばあさん。僕と同じくらいの子どももいる。


「あんまりだ。何がガリヤの誠意か。これでは奴隷そのものじゃないか。これが世界に誇る皇国のすることか」


「あなた、あんな小さな子まで」


「あんな小さな子にまで自ら手枷てかせを着けさせて民衆のさらし者にするのか。ラズリの教えは、この国はどこへ向かうのだ」


お父さんが怒っている声を聞いたのは久しぶりだった。

お父さんは怒鳴り付けることなんてしない。イタズラをした時も、勉強が進んでない時も注意こそしても必ずその声は柔らかくて優しさを帯びていた。


本当に怒っていると感じた時は必ずラズリ様の教えに関わる時で、低く静かな声で、だけどそこらの怒声どせいなんかよりもずっと迫力をまとっていた。

そんなお父さんの声を聞いたのが久しぶりで、僕は少し肩がすくんだ。


「通りという通り全てに列がやって来ている。全て合わせると数は容易たやすく万を超えるそうだ。本当にこんなことを当主がお認めになられたのだろうか」


2人の間で息を殺して外を眺めていると、行列の横にちらほらと立派な服を着て馬に乗る教会の護衛兵隊さんが並んで闊歩かっぽしているのが見えた。


白い列の中にいる僕よりも遥かに小さな女の子が、その脇で手枷てかせを揺らしておびえたように震えながらあちこちを見ていて、僕は一瞬その子と目が合った。


「リヒト、見てはいけません」


お母さんは僕の肩に手をやって窓から視線を自分に向けさせると、またいつもの優しい微笑みに戻って目の前にしゃがんだ。


「ねぇ、リヒト。ラズリ様の五訓ごくんを言ってみて」


いきなり言われて一瞬戸惑ったけれど、飽きるくらい暗唱あんしょうさせられた僕は、五訓を少し自慢気に言った。


「え?えーっと。

 命かろんじることなかれ

 強欲ごうよく働くことなかれ

 言葉いつわることなかれ

 淫欲いんよくおぼるることなかれ

 相違そういへだてることなかれ」


棒読みだったけれど、キチンと言えた僕を見てお母さんは頭をでてくれた。


「そうよ。誰もが正しく強くあれるわけじゃあないの。でもどんなに辛いことがあっても、この教えだけは忘れちゃダメよ?」


続けて、表情を戻したお父さんが

「じゃあ意味はちゃんとわかってるかな?」

と意地悪っぽく聞いた。


「んーと、ちょこっとしかわかんない」


そう答えると、2人はまた笑った。


「人を傷つけたり、物を盗んだり、嘘をついたりしてはいけません。人を分け隔てなく慈愛じあいもって接し、共に喜びを分かち合いましょうということ。これがラズリの基本の教えだよ」


「うん。その辺はわかってるんだけど」


僕はお父さんに尋ねた。


「いんよくって、なぁに?」


「それは今度母さんに教えてもらいなさい」


「あなた!」


「さぁご飯にしよう。お腹空いたね」


お父さんはそこだけ言葉をにごして、家の中の雰囲気を戻すかのように今日一番の笑い声をあげると逃げるように食卓へと向かった。


僕は笑い顔を見せてくれたお父さんに少し肩の力が抜けたけど、今度はお母さんが少し機嫌を悪くしたように、慌ててブツブツ言いながらお鍋の元へ戻っていくのを見て首をひねった。


僕はまた外の人達が気になって、もう一度窓の外を覗く。

女の子はもう見えなくなっていたけれど、うなだれた人達の行列はまだまだゆっくり長く続いていた。


「リヒト、早くご飯にしよう。今日は誕生日なんだから」


中々窓から離れない僕に手招きしながら、お父さんは椅子に腰かける。


その時……。

返事をしようとしたその瞬間、外の行列の中の人達が、両手を手枷てかせごとふところもぐらせて一斉いっせいに何かを叫ぶのが見えたんだ。


ものすごい大きな音と一緒に目の前が真っ暗になって、もう何もかもが見えなくなった。

僕の意識は、そこで遠く途絶とだえた。





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