出逢い


しばらくの間ぼんやりと眺めているうちに、この変わり果てた風景が頭の中の思い出まで消し去ってしまうような怖さを感じて、僕は目をつむってもう一度深く息を吸い込んだ。


眠りにつこうとする空をって吹く風は、胸に刺さる様な冷たさで少しき込んでしまう。


───そろそろ戻ろう。ルワカナはせっかちだから怒られちゃう。


そう思い立ってきびすを返した僕は、突如背の高い男性を目の前に捉えて驚きのあまり声を上げた。


「うわぁっ!」


冷たい空気と相まって、僕は心臓が止まってしまいそうになった。


───ひ、人?……僕らの他に人がいる。


丸めた頭に深目に被ったニットの帽子も、ピシッと着こなした服と手袋も、上から下まで真っ黒だ。その中で右腕に着けた金属の腕当てらしき物がいびつに光を反射している。


その彼の精悍せいかんで真っ白な顔立ちについた猫のように鋭くて真っ赤な眼に、僕は吸い込まれそうで身構える。


心の中までも見透かしそうなその眼は、僕と同じように驚いた様をしていた。


「ここで何をしているのです?」


男性は静かに尋ねる。

物音も立てずにどこから来たのか、盗っ人か、何よりも僕達の他に人がいる事実に、色々なことが頭の中をぐるぐるとよぎった。


しばらく思案して、男性の言葉からにじみ出る柔らかさに、僕は少し身構えを解いて素直に答えた。


「ここで、暮らして……ますけど」


「暮らしている?」


男性はキョトンとさせた目をさらに驚かせて眉をひそめる。


「いつから?君1人でですか?」


「えと、生まれてから……、ずっとです。今は2人で……」


「なんということだ……」


「ああ……主よ」と小さく呟いて、男性は右手で胸を押さえた。


ふと目をやった男性の服に、微かに見覚えがあることに気がついた。

よく見れば到底とうてい盗っ人には見えないキチンとした身なり。ロングコートに似た刺繍ししゅう入りの真っ黒なそれは、小さな頃に見た教会の正装に似ている。男性の佇まいも身なりに負けない知的さと上品さを帯びていた。


そして彼の右手に光る腕当ての中に、ネモフィラの花の印が入っているのを見つけてもう一度驚いた。


──きっとこの人、皇室教会の人だ……。


僕は少し胸が踊った。

何よりもルワカナ以外の人に出会ったのは本当に久しぶりだった。


「君は……」


また何かを話しかけた男性の口を遮って

「教会の人ですか!?」

と、僕は少し興奮気味に尋ねた。


「あの!……リヒトと言います。僕は……」


「お待ちなさい」


そう言いかけた僕の言葉を、今度は男性が人差し指を自らの口に立てて突如さえぎった。


柔らかい空気をまとっていた声を刺々とげとげしく変えて、彼は僕の後ろをじっとにらみ付ける。


服を揺らしていた風は、いつの間にか止んでいた。


「リヒト君と言いましたね。じっとしていなさい」


さっきまでとは豹変ひょうへんした男性の目付きと語気に、僕はパタリと声が出ない。


気持ちがざわついた。

背後に感じた肌寒さのような嫌悪感が僕を圧迫する。

それは一番奥底に閉じ込めておきたい記憶を、否応なしに鷲掴わしづかみにして引きずり出す。


血の匂い……。


身体が本能的に、手足まで震わせた。

僕は身体中に走る悪寒おかんの矛先を確かめるように、男性から視線をゆっくりと反対に向けて、殺伐さつばつとした景色が広がるはずの後ろを振り向いた。


───ああ……赤い霧だ……。


赤黒くてどこまでも深く暗い、どんよりとして全てを飲み込んでしまいそうなあの赤い霧が拡がっていた。


その霧を背に、この屋上の寂れた手摺てすりつかんで急に現れた影を見て僕は固唾かたずを飲む。


真っ白な髪。真っ白な肌。それは汚れてボロボロになった衣服をまとった人間だった。

どす黒い目の中に真っ赤に光る2つの瞳が、怒りを撒き散らすようにこちらを見て歯軋はぎしりをたてていた。


獣が獲物を狙うかのように低い体勢でうなり声を上げて、周りに赤い霧を纏ってそれはこちらを威嚇いかくしながらジリジリ近づいてくる。

その声に連れられる様に、2人3人と彼らはここへ登ってきた。


「ば……、化け物」


僕は恐ろしくて尻餅しりもちをついた。

恐怖で力が出ない。膝も肩も身体中の間接が震えて動けない。

赤い霧がすぐそこにあるせいか、辺りが急に熱を帯び始めた。


「じっとしているんだよ」


尻餅をついて震える僕の側に、男性は静かに歩み寄って言う。


───そうだ、僕はこの人達を知っている。


それは、決して思い出したくなかった記憶。

遠く遠く……、心の中に閉じ込めていた、あの記憶。




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