Vendetta




   左のまなこは漆黒に浮かぶ赤き月

          なげなかれ。なげなか

   慟哭どうこくは血の彼方に泡と成る

          神は其方そなたを選びたもふた

   まこと癒せぬ辛苦しんくであらば

          りて汚穢おわいの友となれ


    (歌劇 ヴェンデッタ 第1幕より)







スルグレア当主の職務は多忙を極める。

まだほんの幼い頃、珍しくいとまの出来たリア姉さんとピアナ姉さんに手を引かれ、おつかえの父様とうさまと一緒に皇立こうりつ歌劇場へ連れていってもらったことがある。

3階テラス席にある貴賓きひん個室に入れたことが嬉しくて、憧れのリア姉さんの隣に座って胸踊らせながら舞台を見おろした。




演目は『ヴェンデッタ』。


村娘のヴェンデッタは、他人の清き心をみ取りいつくしむことにけた、村でも評判の強く美しい娘だった。彼女に触れ合う者はしき心を改め、みな善行に尽くしたという。


外れにひっそりと暮らす魔女は、反して他人をねたさげすむことしか出来ずに、村人から身をへだてて誰と関わろうともしなかった。


ある日、ヴェンデッタは嫉妬しっとした魔女に呪いをかけられてしまう。魔女は神からばつを受けた後、遠く辺境へんきょうの地へとばされた。


呪いを受けたヴェンデッタのひだりは赤黒い光をまとい、憎悪や怠惰たいだ猜疑さいぎ傲慢ごうまんなど、人々のしき心しか見えぬものとなってしまった。

なげき悲しんだ彼女は左眼を取り戻そうと、神の忠告を聞かずに復讐の旅に出る。


旅の途中、数々のしき心と様々な困難に逢着ほうちゃくしたヴェンデッタは、旅の目的を果たすため手段を選ばず、みずからも深い闇に身を投じてゆく。

時にはだまし、時にはうばい、時には人を傷つけた。


長い旅路の果てにようやく魔女の元へ辿り着いたものの、すでに神からの罰で声を取り上げられていた魔女は呪いをくことも叶わず、さらにはあれだけ憎んでいた魔女は、みずからの行いをい改め周りからしたわれるその地の賢母けんぼとなっていた。


『申し訳なかった。わりに私の左眼を差し上げる』

身振り手振りでヴェンデッタに謝意を示し、涙を流しながらひざまずく魔女。

『そんなことでは済むものか!』

怒りのナイフを振りかざすヴェンデッタ。


そこで彼女は初めて気付く。

ふと左のまなこで見やった魔女からは、しき心は微塵みじんせていて、気付けばそれは自身の周りにのみ蔓延はびこる黒い霧であった。


『我が身には右のまなこが残っていたというのに、かくも私はあさましくおろかなものか……』

ヴェンデッタはこの旅路をいて涙を流し、かざしたナイフで自らの左眼を切り付けると、そっと魔女を抱き締める。


2人の姿を見届けた神は、各々それぞれに声と左眼をそっと返して差し上げて、物語は終幕を告げる。





───ヴェンデッタ……。うう……、ヴェンデッタ。


初めて目にした歌劇の迫力もあいまって、幼かった私は得体の知れない感動に包まれて涙が止まらなかった。


厳格な父様とうさまに「行儀ぎょうぎよくしてなさい」とくぎを刺されていたので声が出るのを必死に我慢していたけれど、まさか観客の拍手をき消す程の大声が隣から上がるなんて思ってもみなかった。


「ぶぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇんっ!ヴェェェンデェェェッタァァァッ!」


隣でリア姉さんが目に両手を押しあてて、噴水のように涙をき散らしていた。


「ヴェェンデェェッタァァァッ!がんばっだねぇぇぇっ!魔女ざんもぉぉぉっ!感動でずぅぅぅっ!うづぐじいよぉぉぉっ!ずんばらじいよぉぉぉっ!」


観客達は今日の来賓らいひんがスルグレア当主だと噂を聞き付けていたようで、丁度ちょうど役者への賞賛の拍手からこちらへの挨拶、敬愛の拍手にあおごうとした矢先のことだった。


「ちょっ!リア姉!……おい!カーテン!カーテン締めろ!」


「ぶぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇんっ!」


ピアナ姉さんが慌てふためいて、父様と2人で急いでカーテンを締める。

リア姉さんは絹のように透き通った光を放つ、美しく長い長いブロンドを振り乱しながら、一頻ひとしきり涙を流し続けていた。


観客達の温かい笑い声が、カーテン越しに部屋まで届いていた。





「てへっ。失敬失敬」


「『てへっ』じゃねぇよ。場所と立場をわきまえてくれよ」


帰りの馬車内で舌を出して自分の頭を小突こつくリア姉さんの隣で、ピアナ姉さんは不機嫌そうに足を組みながら窓の外へ吐き捨てた。

しばらくの間、散々さんざんお説教の嵐を降らせてリア姉さんをシュンと小さくさせた後に、ピアナ姉さんは私に向き直って微笑ほほえんだ。


「カシミールは偉いな。ちゃんと行儀ぎょうぎよくして。どこかのお子ちゃま当主様とは大違いだ」


ピアナ姉さんに褒められて嬉しかったけれど、さらに小さくなったリア姉さんに何か助け舟を出したくて、私は幼心おさなごころに話題を変えた。


「と、とても楽しかったです!リ、リアトリスお姉様も、かんどおするのは当然…です!……す、すてきなお話でしゅた!あのお話の…しゅ、しゅだいはなんですか!?」


2人は目を丸くした。

それからピアナ姉さんは大笑いをして、リア姉さんは喜びに目を輝かせて小さくした体を元に戻した。


「あっはっはっ!かしこまらなくていいんだよ!テシトラ、教育熱心はいいが、まだ小さなカシミールにちょっと厳しすぎないか?」


「まぁ!カシミールはお利口りこうさんね!それにお姉様だなんてやだわ!ねぇ、カシミール。リアお姉~ちゃんって呼んで?」


私は咳払せきばらいをする父様の顔色をチラチラとうかないながら上目うわめづかいにリア姉さんを見上げた。


「早く早く」


「リ……、リアお姉~ちゃん……?」


「はぁぁぁん……!可愛い可愛いカシミール……。な・あ・に?」


めろ」


ピアナ姉さんににらまれて、リア姉さんは頬をふくらませながらまた1つ小さくなった。


「これから大仕事があるんだから……。休みだからって浮かれるのも程々にしねぇと……」


「むぅ……。それはそうだけど……。久しぶりのお休みなんだもん。たまにはいいじゃない。せっかくカシミールとお出かけ出来たのに」


「ま、それはそうだけど……。節度せつどってモンがあるだろ?」


「ま……!節度せつどだなんて……。貴女あなたに言われたくないわ?」


それからしばらく眺めていた2人の言い合いは、口喧嘩というよりも全てを分かち合った仲良しのじゃれ合いに見えて、思わず「えへへ」と笑みがこぼれた。


私が笑ったことに気づいたリア姉さんは話を止めると、思い出したかのように私に向き直って微笑みながら言った。


「ねぇ、カシミール?……あのお話の主題はね?心は伝わるということなのよ?」


「こころ……?」


リア姉さんがこの時話してくれたことを、私は今でもよく憶えている。


「そう。心……、人の気持ちよ?私達がいだく心は、どんなものでも他の人に伝わりひろがっていくの。そばに悲しい気持ちの人がいれば悲しくなるし、楽しい気持ちの人がいれば楽しくなるでしょう?」


「うん……。あ……、はい!」


「人には必ずやましい…弱い心もあるの。でもそんなものに負けないで、いつも思いやりや優しい心を忘れずに慈愛をもって人と触れ合えば、世界中に笑顔があふれて悲しいことやつらいことなんて消えて無くなると思わない?」


幼い私には目からうろこが落ちた心地だった。

リア姉さんの話を聞いて、歌劇場で自身に降り注いだ得体の知れない感動の正体が少しわかった気がした。

同時に、リア姉さんが誰からもしたわれて周りに笑顔が絶えない理由も。


「理想論だよ」


「あら?私はきっと果たしてみせるわ?」


再び言い合いを始めたピアナ姉さんとリア姉さんの前で「私も2人みたいに素敵な女性になりたい」と、私は頬を赤らめて温かい気持ちに包まれていた。


あの頃は、こんな日々が永遠に続くものだと、信じて止まなかった。





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