第27話 「ない」ものを嘆くな。「ある」もので戦え!

「さて、志桜里さん、自分で書いてみて、読んでみて、どう思った?」


 まめじぃは、片山志桜里の目をじっと見つめて、質問した。志桜里は日ごろから姿勢はよい方であるが、更に背筋を伸ばして答えた。


「はい。最初は『ターミナルケア』という、わからない言葉に遭遇して、かなり焦りました。言葉じたいは聞いたことがありました。でも、何のことか知らなかったし、何を書けばいいか、無理かも、と思っちゃいました」


「え?しおりんも?」


 七海は思わず声を上げた。


「しおりんも『ターミナルケア』知らなかったの?んで、あんなにも書けたの?」


 志桜里はちょっと照れたような、緊張したような、そんな面持ちで、ゆっくり頷いた。


「で、そんな知らない言葉に出会って、志桜里さんは、どうした?」


 まめじぃは嬉しそうに尋ねた。


「はい。問題文の中から『手がかり』を探しました。そうしたら『ターミナルケア』という言葉の前に、『末期がんの患者をケアする』という言葉を見つけて、ああ、ターミナルケアがどういうものか、示してくれているんだ、ヒントをくれているんだ、と気づきました」


 七海の目が大きく見開かれた。ええ!まじで!と驚きを隠せない、そんな表情だった。


 志桜里は続けた。


「わたしには、末期がんの患者さんについての知識もありませんし、当然、看護の知識はもっとありません。経験もありません。だから結局は、与えられた材料をもとに、自分なりに考えたことを書くしかないと思いました。これが『小論文』なら、きっと最後まで書けなかっただろうけれど、『作文』だから、主観的に書いて大丈夫、と気づいて、そこからは一気に書き進めることができました。もし、自分が看護師なら、こうする、という考えを書けばいいわけだから」


「しおりんの頭脳をちょっと分けてぇぇぇ」


 七海は脱力しながら、肩を落とし、小さい声で力なく言った。


「うむ。それでいい。出題者も、正しい看護理論の答えを要求しているわけではなくて、あくまでも、どこまでも『適性』を見たいんじゃな。だから、『作文』の問題では、志桜里さんの言う通り『主観的』でぜんぜん構わないわけだ」


 志桜里が少し安心したような笑顔を見せた。


「ただ、志桜里さん、今回気になったのは、句読点の打ち方かな。内容としては良いが、また今度、句読点の打ち方を練習しよう」


「はい。わかりました。すごく興味があります。新聞部員としても。あるんですね?正しい打ち方」


「あるある。学校ではちゃんと習わないと思うけれど、プロの編集者たちが大事にしていることをまとめたやつがあるんで、今度それやろう」


「わかりました。ありがとうございます」


「ああー!ああー!まめじぃー!40分無駄にしたあああーああーん!」


 急に七海が大きな声を出した。32歳になっても、こうやって人前で大きな声を出すというのは、周囲に甘えている証拠である。


 だいたい、人前で大きな声を出す大人たちは、「人間として成熟していない」というアピールをしているのと同じだ。なぜなら、それによって周囲の人たちをコントロールできると思っているからだ。


 どういうことか。


 大きな声を出すということは、周囲を自分中心の空気に変えようとしていることである。そして他人はそれを受け入れてくれると、信じ込んでいるのだ。


 小さな子どもが、自分の思い通りにいかず、例えば飲食店などで親の気を引くために、騒ぐことが、しばしば見受けられる。


 親が食べるのに夢中になるあまり、子どもに関心を向けない事を、幼い子は嫌がる。自分に目が向いていない、関心が向いていないと気づくと、子どもはあえて、親に叱られるようなことをする。


 それが大人になると、急に大きな声を出したり、たちが悪いと、怒鳴ったり、威嚇したりするようになる。机をバン!と叩くのもそう。


 教室内で特定の生徒に向かって大声で怒鳴る教師も同じだ。生徒たちに甘えているのだ。怒鳴れば、相手をコントロールできる、という甘えがあるから、そうなる。大人としては、未熟で、幼い。不機嫌を押し付けられた相手が、どんな気持ちでどんな感情になるのか、正しく想像ができない。


 七海はもう、立派な大人だ。だからどんなに感情が高ぶっても、大きな声を出して、周囲の気を引こうなんて、恥ずかしいと感じるのが「相応しいふるまい」だ。


 しかし、まめじぃと、片山志桜里、という「身内」の前ではやはり、甘えてしまう。まめじぃが志桜里ばかりほめて、ぜんぜん書けなかった自分にあまり目を向けてくれない、という状況に、思わず大きな声が出てしまった。


 しかし、志桜里も、まめじぃも、七海のことを「身内」と見ているからこそ、彼女が急に大きな声を出しても、びっくりはするけれど、軽蔑したり、不愉快な気持ちになることは、ない。


 ふたりは七海をじっと見つめ、七海の言い分を認めた。


「そうじゃな。七海さん、しんどかったな。だって初めてだもんな。こんな課題。できなくて当然。でもあえて、その経験をしてもらいたくて、こういう課題にしたんじゃ」


 やっと、やっとまめじぃから、優しい言葉をかけてもらえて、七海はちょっと安心した。完全にやる気がゼロだった状態は、脱しつつあった。32歳になっても、結局人は、こうなのだ。関心を向けて欲しいし、相手して欲しい。それが「まっとうな」メンタルであるともいえる。


「今回みたいに、なんじゃこりゃ!みたいな、ちょっとこれは手が出ないぞ、というような課題が出ることだってある。本番で何が出題されるかなんて、誰もわからない。毎年こうだったから、今年もこうだ、という保証なんてどこにもないし」


 七海も志桜里も、姿勢を正して、まめじぃの話をじっと聞いている。


「もしも、予備知識がまったくない事態に出くわしたら、どうするか。志桜里さんは、正しかった。問題文からヒントを拾い上げ、自分に無いものを嘆くより先に、自分にあるものだけを集めて、まとめ上げた」


 まめじぃは、少し力を込めて言った。


「ええか。『ない』ものを嘆くな。本番で『ない』ものは、どうしようもない。それを嘆いたところで、時間だけは過ぎていく。サバイバル生活をイメージしてみよう。急に身ひとつで無人島に放り込まれたらどうする?道具も何も無かったら、どうする?嘆くより先に、葉っぱや流木を拾い集め、寝床を確保し、飲料水を探す。やるべきことをやるしかない。実際には『何もない』ことはない。自分の五感と、手と足がある。考えるアタマがある。『ある』もので何とかするしかない」


 七海がスッと手を挙げて、言った。


「『ない』ものを嘆くな。『ある』もので戦え」


 ちょっとドヤ顔だった。


「そう!七海さん、それ!ほんとそれ!受験準備なんてやってもやっても終わりなんて無いから。だったら『ある』もので戦うしかない。うまくまとめてくれてありがとう!」


 まめじぃは気合いを込めて、七海を褒めた。書けなかったあなたを、わたしは決して軽蔑しません。見放しません。そんな想いを、声に込めた。


 承認欲求がちょっと満たされて、七海はやっと、嬉しそうな顔をした。


「それで、七海さんは、今回の課題をちゃんと家で仕上げてくること。ええな」


「あーあーあー宿題増えたああー!いやあー!」


 また七海は大きな声を出したが、笑顔だった。まめじぃも、志桜里も、笑顔だった。


 帰宅後、ひとり息子の晴斗とちょっと遅めの夕食を共にした。授業のある日は、9歳の晴斗は母のために夕食を作って待っていてくれる。


 本当は、こんな幼い子が、親のいない時間帯に台所で調理をしているなんて、非常識にもほどがあるし、そもそも夜の時間帯に子どもを一人残して、親が出かけているという事実じたい、周囲の良識ある大人が聞けば、眉を顰めることではある。


 しかし、母ひとり、子ひとりの暮らしの中で、お互いがそれぞれの目標を持って、夢を追いかけて生きていくためには、


「常識」


 これがどれだけジャマになるか、わからない。


 晴斗は、ちゃんと自分で食材を買いに行くことができる。大人がいないひとりの時間で、包丁を使わないで、極力、火も最小限にして、調理ができる。


 「手抜き味噌汁」という、母子の共通の好物がある。忙しい日は、だいたい、ごはんと、「手抜き味噌汁」で済ませる。ごはんは「卵かけごはん」に、味付けのりを巻いて食べるのが鉄板だ。


 「手抜き味噌汁」は、名前はチープだが、実はけっこうおいしい。フリーズドライの味噌汁用具材がある。わかめ、キャベツ、チンゲン菜、ニンジン、ネギなどがミックスされ、乾燥して小さくなっている。それを、お椀に大きめのスプーン一杯程度、入れておく。


 次に、いわしの水煮缶を、煮汁ごと、お椀に入れる。この煮汁が、いい「だし」になる。


 そこに、ケトルで沸かしたお湯をかける。


 すこし時間をおいて、お湯の温度が下がってから、味噌汁用に開発された液体味噌を入れる。温度が少し下がってからの方が、味噌の風味が引き立つことを、この9歳児は経験的におぼえた。


 あとは、すりごまを少しふりかけて、完成。野菜も魚も入っていて、栄養価は高い。しかし光熱費も、材料費も、とても安く済む。


 包丁も使わない。ガスも使わない。母親が帰宅してから、母の目の届くところで、ケトルにお湯を沸かして、入れる。味噌をといたら、完成。炊きあがった白米をお椀によそって、生卵と、味付け海苔。つつましい食卓ではあるが、日々がんばっている母のために、自分にできることがある、というのは、晴斗にとっても誇らしいことだった。


 少し親子の団らんをしたら、晴斗とふたりで勉強する時間。食卓で向かい合って、それぞれの勉強をする。この時間が、二人にとってはとても大切なひとときだった。


 七海は課題のプリントを広げた。


 ―――近年、末期がんの患者をケアする「ターミナルケア」の重要性が増している。この「ターミナルケア」において看護師が心がけることは何か。800字以内で答えなさい。


 あのとき「はじめ」と言われて、必要以上に緊張してしまい、「末期がんの患者をケアする」という、重要な言葉を見逃していた。いや、目には入っていたんだろうけれど、意味のある言葉として認識していなかった。


 末期、ということは、もう、助からないということ。あとは死ぬのを待つだけ。問題は、どう人生を終えるのか、という点にある。それは、できる限り、安らかなものであって欲しいし、穏やかであってほしいと願う。そのために、看護師として何ができるのか、考える。


 志桜里が言っていたことは、正しい、と思った。まめじぃも褒めていたけれど、ほんとにそうだな、と思った。


「少しでも苦痛を和らげる」


 苦痛とは、肉体的苦痛と、精神的苦痛があって、その両面で看護師は、ケアを行わなければならない。


 わたしは何が書けるんだろう。知識も経験も頭脳も何にも無いけれど・・・「ある」ものって何だろう・・・


 次の日の朝。まめじぃは七海からのLINEメッセージを見た。


 彼女が出勤前に、「まめじゅく」の郵便受けに、課題のプリントを入れておいたと。


 まめじぃはちょうど、「まめじゅく」の玄関先にいた。郵便受けから、新聞と、封筒を取り出した。その場で、封筒の中身を見た。


 七海の作文。


 脇に挟んでいた新聞を落とし、まめじぃはボロボロ泣き始めた。


「七海さん・・・アンタやっぱり・・・看護師になるべき人や・・・」


 彼女にとって、そのための、いままでだった。すべての経験は、いまと、これからにつながっていく。


―――近年、末期がんの患者をケアする「ターミナルケア」の重要性が増している。この「ターミナルケア」において看護師が心がけることは何か。800字以内で答えなさい。


 【解答】


 私は、十代で人工妊娠中絶を経験しました。お腹の中のわが子を、せっかく授かったいのちを、奪ってしまいました。

 お腹の中で、一生懸命に、生きよう、生きようとしていた生命を、ペンチで潰してねじり殺すという、残酷な「医療行為」と名の付く殺人で、私は、血のつながったわが子を、ひどい目に合わせてしまいました。

 ずっと死にたいと思っていました。自分だけのうのうと生きているなんて、申し訳なさすぎる。ほんとうは生きたかっただろう。どんな顔をしているの?どんな声で笑うの?どんな夢を持って、どんな人を好きになって、どんな人生を歩みたかったの?

 私は全部奪ってしまいました。その罪の意識は、一生消えません。はやく楽になりたい、はやく私も、赤ちゃんのいるところへ行きたい。

 でもこうして生きていられるのはなぜかというと、私の話を聞いてくれる人、私のことを、ちゃんと見てくれている人が、いるからです。

 ターミナルケアという言葉は、初めて知りました。末期がんの患者さんを、どうやって看護すればよいか。私には専門知識がありません。ただ自分自身の経験から思うことは、患者さんや、そのご家族のお話を、ちゃんと聞くこと。そして、ちゃんと見ていますよ、という安心感を得てもらうことだと考えます。

 もちろん、医療行為は大切です。医療従事者である以上は当然のことです。しかしもっと大切なことは、看護師にできることは、話をきちんと聞いて、あなたのことをちゃんと見ていますよ、ちゃんと看ていきますからね。大丈夫ですよ。と伝え続けることです。

 「看護」とは、「看て」・「護る」と書きます。「看」という字は、「目」と「手」で、できています。ちゃんと見て、手当をする。だから「看」というのだと思います。「護」は、見守ること、支えること、そこに、ちゃんと聞くこと、も入ると思います。

 医療の専門知識を持って、ちゃんと聞き、ちゃんと見ることを心掛けなければいけません。


 799文字。800字以内にギリギリ収まっている。もちろん、文法的にも、表現的にも、赤ペンで修正したい箇所はたくさんある。拙い作文である。構成だって、教えた通りにやっていない。でもこれはこれで、「作文」になっているのだ。


 採用する側は「高度な作文技術」などというものを評価したくて、試験を課しているわけではない。受験生の「想い」を知りたい。「適性」を知りたい。


 そういう意味では、これは、彼女にしか書けない作文だった。


 七海は、産婦人科での勤務を希望していた。理由は、人工妊娠中絶を経験した自分だからこそ、同じ経験をする女性たちを支えられるという自負があるから。そして自分自身も、晴斗との出会いがあったからこそ、出産がどれだけ尊く素晴らしい事なのかを、新しくお母さんになる人たちに伝えたいから。


 そう思っていたが、まだこの時点ではきちんと言語化できていなかった。できていなかったが、まめじぃには、この作文で、伝わった。


 七海さんは、看護師になるべくしてなる人だ。看護師にならなければならない人だ。晴斗くんの夢や、経済的な理由もあるだろう。それはそれでそうなんだけれど、彼女が経験してきたことは、全部、看護師になるために必要な道程だった。


 人を平気で傷つけた。金属バットで人を殴ったことがある看護師なんて、きっといないだろう。中絶という、壮絶な経験をした。出産も、経験した。いのちの大切さを、血肉に、その魂に、刻み込んだ。


 勉強が苦手なことくらい、どうってことない。毎日コツコツ努力すれば、必ずできるようになるのが、勉強のいいところだ。


 大丈夫。七海さん。アンタなら大丈夫。大丈夫やでな。


 まめじぃは、郵便受けの前で、ボロボロ泣いていた。泣いていた。


(つづく)

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