第26話 作文課題がバカバカしくてやってられない件

 「これは無理!無理無理!」


 海野七海は、提示された作文課題に拒絶反応を起こした。


 次のテーマで書けという。看護学校入試あるあるで、過去に色々な学校で出題されたことがある問題らしい。


―――近年、末期がんの患者をケアする「ターミナルケア」の重要性が増している。この「ターミナルケア」において看護師が心がけることは何か。800字以内で答えなさい。


「さすがにこれ、無理じゃん。何?『ターミナルケア』っていきなり言われても、何のことかさっぱり」


 片山志桜里も激しく同意したらしく、首をタテにぶんぶん振っていた。


「『ターミナルケア』っちゅうんは、そこに書いてあるじゃろう。末期がんの患者をケアするの。英語では『End-of-life care』というのに、日本では『ターミナルケア』という用語が定着しておる。しかし、『知らない』から『書けない』なんて言っていたら、点数取れないぞ」


「それはそうだけど」


 ほっぺたをぷっくり膨らませ不平不満を顔全体でアピールするのは、七海の得意技だ。自分では結構かわいいと思っている。


「七海さん、言いたいことはわかる。わかるけれども、もしこれが入試本番だったら『終わった』と思うじゃろ」


「そりゃそうですよ」


「だから、今日、練習でよかったじゃろ」


「よくない!こんな難しいのをいきなりぶつけられて、正解できる人なら、受験勉強しなくていいでしょ!」


「さあ、書くぞ。制限時間は40分。はじめ」


 そう言って、まめじぃはストップウォッチを手に取り、スイッチを押した。


「ちょちょちょちょ!」


 七海は慌てふためき軽いパニック状態になったが、志桜里はすぐさまシャープペンシルを手に取り、カリカリカリと原稿用紙に書き始めた。


「うわわ!しおりん!やばっ!」


 そう言いながら、鉛筆を手にする七海。しかし、書けない。それはそうだ。「ターミナルケア」という言葉じたい、初めて知った。「ターミナル」って、駅の?でも、そもそもターミナルって何て意味?そういえば「ターミネーター」って映画あった気がするけれど、ああ、今そんなの関係ないか。ええ?まって!?何?ターミナルケア?わからない!


 頭の中でクエスチョンマークだけが増えていく。


 一方、志桜里は「はじめ」の合図でいきなり書き出した。何を書いたかといえば、まめじぃの教え通り「結論」を書いた。


 志桜里自身も「ターミナルケア」について、よく知っているわけではなかった。そもそも、彼女は看護師に憧れて看護学校を目指しているわけではない。看護師という仕事に、特別な思い入れも無い。


 知らない男がいきなり父親ヅラして家にやってきて、欲しいと望んでいないのに弟ができて、弟を溺愛する家族にじぶんの居場所を見出せずに、家庭内で孤立。はやく家を出たいと願っている。


 しかし家出したところで、待っている未来は、不安しかない。どうやって暮らしていけばよいのか。飢え死になんてしたくないし、貧乏な暮らしはいやだ。


 だったら、ちゃんと「じぶんひとりで生きていける」ための基盤を築いてから、家を出ていこう。そう考えた。


 それが「看護師になる」ということだった。


 実は、志桜里は、寮のある学校に入れるなら、県内でなくても、どこの学校でもいいと思っている。別に神都市にこだわっているわけではない。もちろん愛着は、ある。七海や、麗子や、まめじぃはもちろん、新聞部の活動を通じて、地元の人たちとたくさん知り合えたし、このふるさとを心から愛することができるようになった。


 でも、親元を離れて自立するためなら、別に神都市にこだわらない。県外には、寮が完備された学校もある。そこで寮生活を送りながら、看護師の資格を取得して、じぶんでちゃんと稼げるようになってから、大好きな神都市に帰って来て、ひとり暮らしをするのもいいと考えている。まだ誰にも相談していないけれど。


 とにかく、親から離れたくて「看護師になる」と決めたのはいいが、特段、看護に関する興味や知識があるわけではなかった。あくまでも「年収」にこだわった。年収4~500万位なら、看護師なら、稼げる。それだけあれば、ひもじい想いをすることもなく、じぶんひとりで生きていける。大好きな小説を読んだり書いたりしながら、生きていける。


 それだけが、彼女のモチベーションだった。


 「ターミナルケア」という用語は、実は、テレビのニュースだったかで、ちらっと聞いた事があった。「終末期医療」とも呼ぶらしい。しかし、言葉を聞いたことがあるからといって、それについて800字の文章を書くというのは、決して容易な作業ではない。正直、焦った。


 しかし、新聞部で過ごした3年間は、無駄ではなかった。彼女はまず、問題文の「ある点」に着目した。


―――末期がんの患者のケア


 ここに重要なヒントがあると気づいた。


 出題者は、もちろん「ターミナルケア」という用語くらいは、新聞等で読んで知っていて当然である、そうあって欲しい、という意図をもって、この問題を作ったのだろう。


 しかし万が一、もし知らない、という受験者がいても「末期がんの患者のケア」というヒントを挿入することで、何とか書けるように、という思いやりの心を読み取った。さすが看護師を育てる先生、気配り力が違うなとも感じた。


 「出題者の意図」を読み取る。それは言葉でいうほど簡単ではない。そんなことがカンタンにできるなら、世界はもっと平和だったろう。


 しかし100%完全に読み取ることができないから、読み取ることをあきらめるのか。そうじゃない。完全に相手とわかり合えないかも知れない。いや、完全にわかり合うなんて、もともと幻想なのかもしれない。しかしそれでも、わかり合おうとすることを、あきらめちゃいけない。なぜなら私たちには「日本語」という美しい共通言語があるのだから。


 志桜里の、新聞部での経験は、彼女を大きく成長させていた。記事は誰のために書くか。それは読者のためである。読み手が誤解なく、正しく事実を理解できるように、情報を伝える順番や、一字一句の表現にこだわり、そして必ず〆切に間に合うように書き上げる。


 その経験は、作文試験においても、生きた。


 出題者は、「看護学的に完璧な正解」なんて求めてはいない。そもそも「ターミナルケア」の重要性や、そこでの看護師の心構えというのは、看護学校に入学してから学ぶものだ。それをあえて、まだ入学してもいない素人にぶつけるというのは、そこに大切な意図があるんだ。そう考えた。


 「結論から書く」というまめじぃの教えに従って、志桜里はじぶんの「直感」を信じた。


 患者さんは、もう助からない。あとは「死」を待つだけの人。そんな人を看護する意義とは何か。


 それは「少しでも苦痛をやわらげる」ことだ。


 志桜里は、目の前に「死」が迫っている人の苦悩を想った。どれほど辛いことなのか。


 ひとつは「身体的な苦痛」が考えられた。末期がん患者にとって、正常だった細胞の多くが、がん細胞に侵されて死滅していくというのは、猛烈な痛みが伴うということを、容易に想像することができた。


 次に「精神的な苦痛」もあるだろうと考えた。当然である。じぶんがもう助からない、そう頭で理解できても、こころは、追い付かない。もちろん中には、はやく死にたい、楽になりたい、という人もいるだろうが、それほどに、精神が痛めつけられているのだ。日々増していく痛みの中で、日々衰弱していくじぶん。どれほどの苦しみなのだろう。


 志桜里は思った。看護師にできることは、医療行為を通じて「苦痛」を少しでも和らげること。もちろんそれは、医師の仕事でもあるのだが、医師は「キュア(治療)」が仕事。看護師は「ケア」こそが仕事。「ケア」とは、気配り・目配りしながら、メンテナンスすること。


 そういった事を瞬時にひらめき、まめじぃの「はじめ」の合図とともに、じぶんなりの結論を書き始めたのであった。


―――「ターミナルケア」において看護師が心がけることは「肉体的苦痛」と「精神的苦痛」の両面において、適切なケアを行うことである。


 志桜里は、この一文を冒頭に持って来た。


 次に「理由」を書く。なぜそういえるのか。


 今回の課題は「小論文」ではなく「作文」である。だから、理由は客観的事実に基づくものでなければいけない、という縛りはない。「作文」である以上は、自分の主観を述べても一向にかまわないのだ。


 志桜里は、じぶんの主観を述べた。


―――なぜなら、医療現場において、医師の役割は「キュア(治療)」であり、看護師の役割は「ケア(援助)」であるからだ。


 「ケア」を「援助」としたのは、彼女の閃きだった。本来「ケア」とは、メンテナンスだったり、お世話だったり、いろいろな意味を持つ。ただ、末期がん患者に、看護師は何ができるのかを考えたとき、「ケア(care)」の日本語訳は「援助」であるべきだ、と彼女は直感でそう閃いたのだった。


 こういった閃きは、豊かな語彙力が無いと出てこない。


 「お世話」と訳してしまうと、おむつを替えたり、身体を拭いたり、そういった行為が中心であるかのように感じてしまう。そうなると「看護」と「介護」の境目があいまいになる、と彼女は感じた。


 「メンテナンス」と訳してしまうと、それこそ機械を扱うような感じになってしまう。


 だから「援助」だ、という結論にたどり着くのに1秒もかからなかった。この「直感」・「閃き」は、小説が大好きで、たくさんの文章に触れ、自らも趣味で小説を書き、新聞部員としてたくさんの記事を書いてきた彼女だからこそ、発揮できるものだった。


 七海は、まだ鉛筆を握りしめたまま、氏名しか書いていない。


 志桜里は続けた。


―――「末期がん患者へのケア(援助)は、ふたつに分けることができる。ひとつは肉体的苦痛を緩和すること。もうひとつは精神的苦痛を緩和することである。


 彼女は忠実に、まめじぃから教わった「構成」に従って文章を綴っていく。800字なら「ケツリレーハンハンケツ」、結論→理由→事例→反例→反論→結論という構成に持っていける、という見積りもしていた。


―――まず、肉体的苦痛を緩和するためにできるケアとは何かを考える。それは医師と患者双方と綿密なコミュニケーションを図りながら、医師の指示のもと、適切な処置を行うことである。

 患者の話をよく聞いて、患者をしっかりと観察する。痛みはどこに、どんな程度であるのか。食欲はどうか。排便は適切に行われているか。体温・血圧・脈拍などにどんな変化があるか。正確かつ最新の情報を医師と共有し、患者の苦痛の緩和を目指す。


 ここで志桜里は「援助」という言葉の言い換えとして「苦痛の緩和を目指す」という言葉をあえて使用した。同じ言葉の繰り返しを避けるためだ。


 「言い換え」は、現代文読解のテクニックでも必ず出てくる。同じ言葉の繰り返しを避けるため、言い表したい事はひとつなのだが、それを言葉を変えて表現する。その「言い換え」の表現を読み解くのが「読解力」のひとつ。そして「言い換え」を適切に書き分けるのが「記述力」のひとつ。そう、「読解」と「記述」は表裏一体の技能なのだ。


 志桜里は他にも、思いつく限りの事例を記した。


―――「精神的苦痛」を和らげるために、患者の話をよく聞くことは大切である。なぜなら「この人はちゃんと話を聞いてくれる人だ」という安心感、いつもそばにいてくれる、そう思えるだけでも精神的苦痛は和らぐからだ。


 そうやって「事例」を思いつく限り書き記しているうちに、ある事に気づいた。あっという間に、700字を超えて、もうすぐ800字に達しようとしていたのだ。


 しかし、ここで焦る志桜里ではなかった。まめじぃの教え「ケツリレーハンハンケツ」の構成が無理だったら、「ハンハン」を削ればいい。


 ケツリレーケツ


 つまり、結論→理由→事例→結び、という構成にする。志桜里はこれを勝手に「丸だし」と名付けていたが、下品な言い回しゆえに、おのれの心の内に留めてあった。


 とにかく、残りおよそ100字程度。そこに「結び」を入れる。


 ここまでで、書きたい事が記せていない。それは「看護師の適性」をアピールすることである。


 当然、作文の最期を飾る「結び」こそ、そこをアピールする絶好の機会であることは、志桜里も気づいていた。


―――看護は、決してひとりで成せるものではなく、患者や医師、技師、他の看護師との関係性によって成り立つものである。綿密なコミュニケーションを図りながら、ひとつのチームとして終末期の患者を支えることこそが、医療の役割である。その中で、看護の果たす役割は「肉体的・精神的苦痛を和らげるための援助」であることを常に忘れてはならない。


 ここで何をアピールしているかというと、志桜里としては「看護師はチームで働く仕事だと理解しています」という点を、明記したかった。「わたしは協調性を大切にしています」というアピールだった。


 確かに、看護師の適性として「協調性」はとても大切である。しかし面接時に「私は協調性があります」などとアピールしても、面接官には響かない。なぜなら根拠もなければ、基準も無いからだ。


 どこからどこまでが「協調性がある」で、どこからが「協調性がない」のか、客観的かつ明白な線引きは、できない。


 そもそも「協調性」という言葉の定義じたい、人によって曖昧なところもある。


 だから、志桜里はあえて「協調性」という言葉を用いることなく「言い換え」のテクニックを用いて、協調性をアピールしたのだった。


 そんな志桜里に対して、一方の七海は、まだ何も書いていない、どころか、放心して書こうとする姿勢さえ見せてはいなかった。


 当然、その無気力は、まめじぃも感づいていた。プロだから。


 しかしそれでも、あえて、放置した。志桜里が黙々と取り組んでいるのを邪魔したくない、という理由もあるが、もしこれが本番なら、誰も助けてはくれないからだ。


 本番のつもりで練習し、練習のつもりで本番に挑む。


 ある横綱が残した名言は、試験勉強にもあてはまる。


 七海は、内心、あきらめ、投げ出していた。


 こんな難しいテーマを出されて、バカなわたしが、正解できるわけがない。それを知っていて、まめじぃは、わざと、私を馬鹿にするために?何か知らないけれど、いやがらせだ、こんなの。やりたくない、ほんとバカバカしい。書けるわけがないんだから、と自分自身に心の中で語り続けていた。


 認知心理学で「セルフトーク」と呼ぶ。自分でじぶんに話かける。


 よい言葉を話しかけ続けると、脳の血流が活発になり、脳機能が向上、ポジティブな気持ちで満たされることが科学的な実験で明らかになっている。


 ということは、その逆、このときの七海のように、自虐的発言、相手を非難するネガティブな発言を「セルフトーク」として繰り返すとどうなるか。当然、脳機能は向上しないどころか、脳がストレスに苛まれ、心身のパフォーマンスを落とすことにつながる。


 書けるものも、書けなくなる。


 結局、何も書けないまま、40分を迎えた。まめじぃは40分間、七海を放置し続けたことになる。


 七海は、まめじぃを見なかった。見なかったが、まめじぃを非難する空気を身体いっぱいに放出していた。


 しかし、まめじぃは、まったく気にするそぶりもなく、志桜里に話しかけた。


「志桜里さん、音読してみて」


「え」


 志桜里は固まった。これを?ふたりのいる前で読み上げるの?


 緊張のあまり、身体が硬直し、思考が止まった。

 

「面接試験では、面接官の前で話をしなきゃいかん。それに比べたら、音読するなんて、大したことじゃない」


 まめじぃにそう言われて、そうか、と思い、志桜里は自分の書いた原稿を読み始めた。緊張はしていたが、これも必要な練習だと思いながら、背筋をピンと伸ばして、ていねいに音読した。


 七海は、志桜里の声を聴きながら、18歳現役高校生の実力をまざまざと見せつけられた驚きや、悔しさよりも、もう、バカバカしくてやってらんない、という想いでいっぱいになっていた。


(つづく)


※この物語はハーフフィクションです。


参考文献 『勉強が苦手な高校生や社会人が看護専門学校・看護大学に合格する方法』(松山祐己 合同出版)

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