第18話 海野七海~海野のフルスイング

  しょうらいのゆめ


 わたしのしょうらいのゆめは しゅふです。


 ママ友とランチに行って、昼ドラを見て、ゴロゴロしたいです。


  3年2組 黒田七海


 この子にとっては大真面目に考えて、書いたつもりだった。学級文集の1ページ。


 小さな頃から、「ふつうの家庭」に憧れていた。


 つまり、ふつうの家庭に育った子では、無かった。


 黒田七海の父親は、妻に毎日暴力を繰り返した。妻は、ただ泣きながら謝り続ける日々を送っていた。


 例えば、味噌汁の味が薄い、という理由で激昂し、味噌汁の椀をひっくり返し、テーブルを叩き割った。妻が心を込めて作った手料理たちは、すべてダメになった。

 それらの後片付けをしている妻を、彼は後ろから蹴飛ばし、髪をつかんだと思ったら、そのまま引きずり始めた。彼女は、泣きながら小さな悲鳴を上げていた。


 その女性は、ただひたすら、自分が愛した男に尽くしていた。じぶんがお腹を痛めた娘に対して、ほとんど関心を持たなかった。いや、持てなかった。


 ネグレスト、とまではいかなくても、それは、立派な精神疾患である。


 女性ホルモンのバランスの関係で、生まれつき「プロラクチン」という、母性を司るホルモン分泌が不足している母親からは、母乳が出にくいのは事実である。しかしだからといって、母性が欠落している、と見るのは間違っている。間違ってはいるが、やはり「プロラクチン」の分泌が乱れると、母親がもつ「母性」は、バランスを崩してしまうらしい。


 七海の母親の場合は、夫の日々の暴力によって、心身を病んでいたことが、直接の原因であると断言せざるを得ない。


 七海の母親は、児童養護施設で育った。血のつながった家族の存在を、知らずに育った。そんな彼女が、施設を出てひとり暮らしを始めたのは18歳。高校を卒業し、就職先も決まり、会社近くのアパートを借りて、希望と可能性に溢れた社会人生活をスタートさせた。


 就職先は神都市内でもあまり有名ではない、社員が30人ほどの、小さな食品製造会社だった。その会社の和菓子部門に配属され、日々、ベルトコンベアーで流れてくるおまんじゅうを箱に詰めるという作業を繰り返していた。


 そんな彼女に転機が訪れたのは、入社した年の7月だった。会社のイベントで夏祭りが開催されるという事で、その夏祭りの実行委員に選ばれた。

 とはいえ小さな会社なので、実行委員といっても、社長の婦人と、ベテラン事務員の男性1名、若い社員から男性1名。新人の彼女も選ばれて、計4名の小さな集まりである。

 その若い社員というのが、七海の父になる男、黒田大作だった。


 そのとき、黒田大作は25歳。営業課で、将来を嘱望されていた、幹部候補だった。


 社長夫人と、ベテラン事務員は、夏祭りの企画は、若い二人で好きなようにやるといい、と言ってくれた。年寄りは頭が固いから、毎年同じようなことしか思い浮かばないので、若い力で会社を盛り上げて欲しいという。


 大作が選ばれたのは、わかる。小さな会社ではあるが、彼はその中では「エリート社員」という枠に入るからだ。頭の回転が速く、人あたりのよい、そして「熱血」という言葉が似あう、エネルギッシュな人物だった。


 なぜ新人の彼女が選ばれたのか。それは、彼女の身の上を心配して、少しでも会社内で彼女の味方を増やしたいという、社長と社長夫人の親心だった。

 

 児童養護施設での暮らしぶりも聞いていた。小さな頃から引っ込み思案で、石橋を叩いて叩いて、叩き壊してから渡るような、慎重でおとなしい子らしかった。


 製造ラインで黙々と仕事をこなす日々は、そんな子にとっては、向いているのかも知れない。でも、せっかく施設から出て自立するのだから、社会に出ていくのだから、いろんな人たちと交流する機会を設けたい。社会人として、立派に成長していってほしい。この会社を、じぶんの家、社員のみんなを、じぶんの家族、そう思えるようになってほしい。


 これは、日ごろ意見が対立してばかりいる、社長と社長夫人も、珍しく意見が一致したことだった。


 当然、入社したての彼女、海野花は、会社の夏祭りなど、経験したこともなく、具体的なイメージがさっぱり描けなかった。もうすぐ19歳になる女の子が、会社を盛り上げる企画を考えるというのは、とても荷が重いことだった。


 そうなると、花は、大作に頼るしかない。当然大作も、会社の先輩として、自他ともに認めるエリート社員として、そして何とも愛くるしい、まだ少女といっていい、つぶらな瞳の花の魅力に目をハートにしながら、オレに任せろと胸を張るのは、自然なことだった。

 

 夏祭りは結果、成功し、大作はますます株を上げただけでなく、花も皆から「はなちゃん、はなちゃん」と声をかけてもらえるようになった。大人しく引っ込み思案だった花は、浴衣姿で夏祭りの総合司会をするという大役を押し付けられて―――大作は単に、花の浴衣姿を見たかった、それだけが理由だったらしい―――おどおどしながらも、何とかこなすことができて、社内で一躍有名人となったのだった。


 この夏祭りをきっかけとして、2人は相思相愛となった。実際には大作の一目ぼれからの猛アタックの末だったのだが、石橋を叩いて叩いて中々渡ろうとしない花も、このときだけは、夏の魔法にかかったのか、すぐに恋愛関係を受け入れることができた。


 2年後、花は身籠った。それを知った大作は、急に不機嫌になり、花への態度も厳しくなった。何度も中絶を迫ってきた。しかし花は、大好きな人の子を産みたいと、頑なに中絶を拒否した。そのやりとりは、社長夫妻の耳にまで入るようになった。


 大作は社長夫妻に呼び出され、叱責を受けた。責任を取れと。社長夫妻にとって、花は、従業員であると共に、大切な娘であった。そして社長夫妻にとっては、大作もまた、かわいい息子だった。

 二人が結ばれれば、こんなよいことは無い。しかし、大作の態度はどうだ。まだまだ遊びたい気持ちはわかるが、新しい命を授かった以上、もう父親なのだ。その責任を全うできないヤツを、一人前の社会人としては認めない、と夫妻は大作を諭した。


 結局、ふたりは社長夫妻を仲人として、結婚した。しかし、ふたりで一緒に暮らすようになってから、大作のもうひとつの顔が明らかになった。


 会社では、あるいは恋人としては、熱意ある有能な男だった。しかし一緒に暮らすことになって、初めてわかることがある。フランスでは、同棲してから結婚するかどうか決めるのが通例だという。


 結婚生活が始まって、初めてわかったこと。


 何か気に入らないことがあると、すぐに暴力に走る。


 お腹の大きな花を、何度も蹴り飛ばした。髪の毛をつかんで、ひきずりまわした。理由はいつも、些細なことである。自分の思い通りにならないことが、気に入らないから。それでも、花は、大作のそういう一面を受け入れた。

 私がガマンすれば、大作は救われる。私がいい妻になれば、大作は苦しみから解放される。


 大作自身も、子どものころから、父親にDVを受けて育った。そのことは花も、聞かされていた。だから、大作はかわいそうなんだ、だから、私にだけ、こんなことするんだ。花は、大作のために、と思って、暴力を受け入れた。


 女の子が生まれた。社長が「七海」と名付けてくれた。いい名前だと、花は思った。


 ところが、花は、どうがんばっても、母乳が出なかった。そして、どうがんばっても、七海はいつも泣いていて、何故泣いているのかを、理解することができなかった。


 そして、どういうわけか、愛おしいと思う感情が、まったく湧いてこなかった。


 母親なのに、どうして自分の娘のことを、愛おしいと思えないのか、花は困惑した。花は、おかあさんを、知らない。社長夫妻はよく面倒を見てくれるが、しかし、子どものいない夫婦に、子育てのことを聞くわけにはいかない。


 どういうことをがんばれば、お母さんになるのか、花はわからなかった。かといって、本で調べる、産婦人科の教室に通うといった事も、積極的には行わなかった。


 実際には、大作からの日常的な暴力で、心身ともにヘトヘトになっていたことを、花は自分自身で、気づいていなかった。


 暴力とは、常に理不尽であり、どんな理由があったとしても正当化されることは決して、ない。だから「暴力」と表記する。


 ところが暴力を行使する側は、常に自らを正当化する。大作からすれば、年下の花を教育してやっているのであり、言うことを聞かない、大作の思った通りにできない、花が悪い、と考えている。


 オレがこんなに愛してやっているのに、アイツは何もわかっていない。頭の弱いやつだ。だからオレがわざわざ教育してやっているんだ。


 そんな風にしか、思っていない。


 しかし暴力を受け続けている方は、心身へのダメージは、はかり知れないものがある。髪の毛をわしづかみにされ、引きずり回される。抜けた髪の毛は、きっとまた、生えてくる。しかし、そのとき受けた心の傷は、生涯消えない。そんな深刻なダメージを、毎日、日常的に受け続けるのである。


 その末に授かったわが子を、七海を、愛さなきゃと思いつつ、どうしても愛おしいと思えない、何なら嫌悪感まで抱いてしまう、そんな自分を、花はどうすることもできなかった。とにかく夫のために、大作のために、生きていくことが精いっぱいだった。


 家計が苦しいので、結婚後も花は、和菓子部門の製造ラインで働いた。娘の七海は、運よく保育所に預かってもらえることになった。花は仕事もしながら、家事もこなし、育児もそれなりにがんばっていた。しかし、わが子もこれっぽっちも可愛いと思えないじぶんを、振り返る余裕はなかった。


 七海が「しょうらいのゆめ」と題した作文を書いたその日、事件は起こった。


 大作が、逮捕された。


 理由は、交際女性への傷害罪。


 花は、最初、いったい何のことか理解できなかった。


 大作は、花と結婚後も、それ以外にも複数の女性と関係を持っていた。不倫である。


 そのうちの一人の女性が、大作の暴力を受け、骨折したという。


 確かに会社が休みの土日祝日は、家に帰らない日もあったが、花にとってはむしろ「安息日」であり、ありがたかった。趣味のソロキャンプに行っていると言われ、それを信じていた。

 

 その帰らない日は、別の女に会いに行っていたのか。

 

 そしてその女たちにも暴力を振るっていたのか。


 わたしだけの大作だと思っていたのに。


 裏切られた。


 騙された。


 花の中で、何かが壊れた。


 結局、示談金で事件は解決し、大作は釈放された。


 その後ふたりは離婚し、ふたりとも会社も退職した。七海は花が引き取るしかなかった。大作に七海を育てる資格も能力も無かった。慰謝料も養育費も、届かなかった。


 海野花。彼女は、つねに自問自答を繰り返すようになっていた。


「わたしって、何のために生まれてきたんだろう」


 七海に暴言を吐いたり、暴力を振るったり、とことは無かった。


 ふたりだけの生活から「暴力」と「暴言」が無くなったことだけでも、それだけでも大きな変化だったが、しかし、そこに「家族の愛情」とか「あたたかさ」といったものは、全く無かった。


 花は、生きていくために、夜の仕事を始めた。高卒で、無資格で、雇ってもらえる仕事のうち、子どもを養っていくことのできる仕事は、限られていた。


 海野七海は、心身共に疲れ切った母親の姿しか知らない。もっといえば、朝方帰って来て、昼間はずっと寝ている母しか、知らない。


 もっといえば、愛情というものを、知らない。父親から愛された記憶はない。母親から愛された記憶もない。ただ、父親がひたすら母親に暴力を振るう日常以外に、経験していないのである。


 そんな子の心はすさむに決まっている。


 この子のグレ方は、ちょっと変わっていた。


 この子の育った地域と時代も、大きな影響がある。


 不良・ヤンキーと呼ばれる人たちが、とにかく多かった。


 中学2年生の頃には「海野七海」といえば、その辺の不良グループたちの中で、名の知れた存在になっていた。「海野のフルスイング」といえば、地元のヤンキーたちの畏怖と憧れの対象だった。


 七海は決して身体能力に恵まれているわけではなかったが、売られた喧嘩は全部買う。たとえ相手が男子だろうが、高校生だろうが、大人だろうが、関係なかった。


 ある不良グループから援助交際を強要された同級生がいると知り、野球部から借りてきた金属バットを片手に、単身乗り込んだこともある。グループのリーダー格の男のところへ迷いなく飛び込み、渾身のフルスイングで頭を打ちぬくものだから、たとえ相手が大柄な男でも、ひとたまりもない。他の連中は驚きと恐怖で身動きも取れない。


 このときは近所の住民の通報で、すぐに警察が駆け付けたが、不良グループの連中も、ふつうの女子中学生ひとりにやられたとは恥ずかしくて言えずに、七海は事なきを得た。


 そんな七海も、学校では決して不良グループに入ることなく、おとなしく、控えめ目な中学生だった。髪の毛を染めたり、派手な化粧をしたり、タバコを吸ってみたり、という、そういった不良じみたことは決してしない。だからといって、熱心に勉強をしている様子もなく、優等生というわけでもなかった。校則は、熱心に守っていた。


 だた、いったん、自分や友人に火の粉が降りかかると、自分の身の安全などまったく気にも留めず、どんな相手だろうと全力で飛びかかっていく。

 自慢の金属バットは、いつも野球部の部室から持ち出すので、野球部の部室には厳重に鍵がかけられたが、星野くんがいつも鍵を貸してくれるので、部室のバットは使い放題だった。

 でも時々、赤黒く染まって凹んでいるから、それだけはやめて欲しいと、星野くんも困っていた。当然、野球部のみんなも、顧問の先生も、困り果てていた。七海が犯人だと知っているのは、星野くんだけである。

 

 レディース同士の抗争時には、仲介を頼まれたのに、両方ぶっつぶしてしまう、という伝説も残している。


 とにかく不良たちが、七海の周辺で何かやらかす度、七海は金属バットを持って襲い掛かる。


 その結果、行き場のないヤンキーたちは、七海をリーダーとして崇めるしか無かった。

 不良と呼ばれる人たちは、仲間で群れたい。寂しいから。満たされたいから。群れるためには、どうしてもリーダーがいる。そうでないと、集団が保てない。

 ところが、そのリーダーを、ことごとく、海野七海という、謎の少女が金属バットで襲い続けるものだから、リーダーが安定しない。

 

 だったらもう、リーダーは、七海だろうと。誰かがリーダーになっても、何かトラブルがあると、金属バットを握りしめフルスイングで襲い掛かってくる少女がいる以上、もう、その少女、七海をリーダーにするしかないだろうと。誰が言い始めたわけでもなく、そういう流れになっていった。


 七海本人は全力で嫌がったが、しかし、本人の意思とは全く無関係に、多くの不良たちは、七海をリーダーと認識し、崇め奉るようになった。


 七海は自分をヤンキーや不良だと思ったことはない。ただ曲がったことが許せない。つまらないことで平気で相手を傷つける、あのヤンキーとか不良とかいう奴らが、本当にキライだ。だからそんな連中から、リーダーだと言われても、本当に迷惑。だって私、普通の女の子だもん。


 そんなわけはないのだが、七海はあくまで、自分は普通の女の子と信じて疑わなかった。


 「ふつうの家庭」に憧れていた少女、黒田七海ちゃんは、


 街を歩くと、どこにでも不良がいる、そんな荒れた学区で、


 「海野のフルスイング」で知られた、海野七海に成長していた。


 繰り返すが、暴力は、どんな場合でも、正当化できない。


 暴力は、どんな理由があっても、決して、行使するべきではない。


 しかし、あの当時の七海にとって、あのエネルギーは、愛情が不足した家庭に育ったからこその、衝動だったのかも知れないし、彼女なりの、じぶんがちゃんと生きているということを確認するための、作業だったのかも知れない。


 ある人は、ただ日々のルーティンとして仕事をこなし、抜け殻のような日々を送っている。


 ある人は、リストカットをして、自分の血を見て安心する。


 ある人は、練炭に火をつけて、自ら命を絶ってしまう。ほんとうは生きていたいのに。


 あの頃の七海は、金属バットを振り回していた。


 現在、星野くんは実家の商売を継いで、神都市内のある理容室でハサミを握っている。髪の毛を切る仕事なのに、じぶんの髪の毛はずいぶん抜け落ちてしまって、まめじぃと同じで、子どもの頃から気苦労が絶えない性分なのだと推測される。


 そんな星野くんは、あまりにも人がいいので、お店には常連客も多い。


 そんな彼に「海野のフルスイング」の話をすると、遠い目でこう語る。


「金属バットが次々にダメになるから、みんなでお金持ち寄って、バット買ってたな。部費じゃぜんぜん足りないから」


 どうして部室のカギを七海に渡してしまっていたのか聞くと、こう答える。


「せんせー、やっぱね、惚れたやつの負けですよ」


 好きやったんかい!


 もし、星野くんが、勇気を出して、何かしら行動を起こしていたら、もしかしたら、「星野」七海という、理容室の陽気な奥さんが神都市にいたかも知れない。なぜなら、中学生の海野七海がいつも星野くんから鍵を借りに行っていたのは、星野くんのことが好きだったからである。いや、だからといってゴールインするとも限らないのだが。


 人生は選択肢の連続である。ひとつ選択肢が違うだけで、その後の未来はまったく別のものになる。


つづく


※本作品はハーフフィクションです。

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