第13話 「参拝」は手間だが役に立つ
看護学校を受験すると決めた海野七海と片山志桜里。いま直面しているのは「モチベーション」の問題である。
やるぞと思って勉強を始めても、難しい問題に直面して、先に進めなくなったり、単純作業の繰り返しに飽きてきて眠気に勝てなかったり、努力しても成果を感じられずに心折れたり、様々な要因で「やる気」は削がれる。
「やる気」の正体とは、脳内物質の分泌である。
・セロトニン
・ノルアドレナリン
・ドーパミン
この3つが「やる気」の原料である。
その脳内物質(脳内ホルモンとも。以下便宜上、下品ではあるが「
動機付けには「外発的動機付け」と「内発的動機付け」がある。
「外発的動機付け」とは、馬にニンジンをぶらさげる、アレである。昭和のお母さんは、わが子によくこんな「ニンジン」を提供していた。
「今度のテストで100点取ったら、おこづかい50円アップね」
たった50円と侮るなかれ。昭和の小学生のお小遣いといったら、筆者の場合、学年×100円(/月)だった。つまり、小学4年生のころだと、100点を2回取るだけで、500円になるのだ。
駄菓子屋は、昭和の小学生の社交場だった。そこで100円余分に買い物できるというのは、そこに集う人たちからも賞賛され、店のおばちゃんには笑顔で感謝され、自己肯定感も満たされ、物欲も満たされ、食欲も満たされる・・・「プラス100円」の価値は大きかった。1個5円のゼリーも売っていた時代である。チロルチョコは10円だった。
ところが、この「外発的動機付け」には、毒がある。
長続きしない。
筆者の母親(故人)は、全く勉強しない(できない)わが子を焚きつけるために「100点取ったら50円制度」をいちどは採択した。しかし、100点を取るのが当たり前になってくると、なかなかバカにできない家計負担になり始める。母親はまずいと思ったのだろう。「あれは無し」というたった5文字で、この家庭内法律は、抹消された。半年もたなかった。当然、成績も落ち始める。
他にも「今度の試合に勝ったら焼肉おごってやる」的な焚き付け方は昔からある。しかし、勝ちに勝ち続け、焼肉をおごられまくっていると、今度はお寿司がいいな、焼肉飽きてきたな、なんて思い始める。
人間は贅沢にできている。だんだん、おごってもらうのが当たり前になってきて、感謝の気持ちや、次もがんばろうという気持ちも、薄まってくる。
「学年で1位を取ったら、ディズニーランドに連れてってあげる」
こういった「どこそこへ連れていってあげるニンジン」も、念願叶ってそこに行ってしまえば、終了である。「また行きたい」というリピート効果は望めるものの、毎年恒例の当たり前の行事になってしまうと、効果半減である。
ということは、次から次へと、手を変え品を変え、どんどん新しい「刺激」を提供し続けなければならなくなる。
だから「外発的動機付け」のみに依存してしまうのは、相当無理がある。
やはり「内発的動機付け」こそが、「脳汁」を適切に分泌させるためには大切となる。ではその「内発的動機付け」とは、どんなもので、どうすれば手に入れられるのだろうか。
よく言われるのは「成功率50%」。成功するか、失敗するか、どちらかわからない、成功率が50パーセントのチャレンジは、最も「脳汁」がドバドバ溢れだすという。
だから昔はサイコロを2つ転がして、その合計が「半か丁か(奇数か偶数か)」どちらかを予想するという、非常にシンプルな賭博が流行していた。
―――昔って、筆者が子どもの頃じゃないですよ?江戸時代からの伝統です。「
三重県神都市。毎年多くの観光客が訪れるのは「大神宮」のおかげである。ここは、すべての神社の総本山と呼ばれる。「パワースポット」として、全国から参拝客が殺到する。
さて、神宮に参拝することで、本当に幸運は訪れるのだろうか。「パワースポット」を訪れると、本当にパワーがもらえるのだろうか。科学的根拠はどこにあるのだろうか。「大神宮」が本当にパワースポットなら、神都市民はもれなくパワー全開のはずだが、そうでもない。
専門的研究があるかどうかさえ、知らない。しかし筆者は断言する。
「参拝することで、内発的動機付けに大きな効果が得られる」
これは、間違いのない事実である。
ただ、条件がある。
それは「素直な心」、ここでは「
「素心」で参拝することが条件である。それは、嘘いつわりなく、じぶんと向き合う心のことである。
筆者は特定の宗教を信仰していない。すべての宗教団体と距離を置いている。しかし、宗教が「脳汁」の分泌に大きく関与していることだけは、祖母と元妻という、ふたりの身内の度重なる騒動をこの身をもって経験し、知っている。そこに怖さを感じるからこそ、筆者は本能的に宗教そのものと距離を置いているのだと自己分析している。
そんな非・神秘主義、非・スピリチュアルの筆者でさえも、「参拝」が「内発的動機付けを高める」ことを、断言してしまう。
それは別に、神都市の大神宮でなくてもいい。近所の小さな
お願い事をするのではない。
「誓い」を立てるのだ。
「どこそこの学校へ合格できますように」
「誰それ君と結ばれますように」
そうじゃない。
「わたしは、この学校へ通います・必ず合格してみせます」
「わたしは誰それ君と結ばれます」
誰それ君の迷惑は一切考慮せず、誓えばいい。誓うだけはタダである。
特に神都市の大神宮では、願いごとをしてはならない、という掟がある。「誓いを立てる場所である」という。考えてみれば当然である。木や石に願いごとをして、木や石が叶えてくれる、そんなしくみは、現実世界には存在しないのである。
そして「神様」とは実在する物体ではなく、我々人類が編み出した想像上の存在であり、幻想であり、比喩なのだ。
名曲「トイレの神様」によると、「トイレには、それはそれはキレイな《《女神様が住んでいる》》んやで」というのだが。
いや、ちょっと待ってほしい。男子トイレを利用する筆者をはじめとする男性陣は、緊張するではないか。トイレを利用する度に我々男性陣は「公然わいせつ罪」になってしまうのか。少なくともセクハラ確定である。女神さまが好んで見たいとせがまれるのも、それはそれで逆セクハラなのだ。残酷すぎるだろう。
そうではない。あくまでも「神様」とは、幻想であり、比喩なのだ。
ではどうして、「神様」が祀られている場所を参拝することが「脳汁の分泌」つまり「内発的動機付け」にプラスになるのか。
それは「場の空気」である。
人は「場の空気」に支配されやすい。それをプラスに利用するのにオススメなのが「参拝」なのである。
まだ一度も神宮参拝を経験されていないなら、筆者も休みが合えば案内させて頂くし、昼食くらいはご馳走する(からといって大きな団体様でいらっしゃるのは除外)ので、ぜひ足を運んでもらいたいと考えている。100の説明より、1の体験である。
数百年もそこに命の根を張る大木の数々に、圧倒される。数百年も前から、我々を見つめ続けている「生きものたち」なのだ。清流は、2000年以上前からこの場所をずっと流れている。その歴史と、せせらぎに、心を洗われる。
ザッザッザッと、石畳を踏みしめる心地よい音色を聞きながら、本殿を目指す。もう、それだけで、心が正される想いがする。誰それ君と結ばれたいと思う心さえ溶かされて、いま自分が生かされていることだけでも感謝の想いがあふれ出すかも知れない。
そんな気にさせてくれる「場の空気」が、存在するのだ。
え?行ったことあるけれど、別に何とも思わなかったよ?だって?それは「条件」がクリアできていないからだ。それについてはまた後で述べる。
いよいよ本殿を前に石づくりの階段を上る。筆者からすれば、ヨチヨチ歩きのころから、1000回以上、踏みしめている階段であるが、何度訪れても、この瞬間は心引き締まる。信仰心からではない。神様は人類の想像上の産物で、幻想であり、比喩である。しかし「場の空気」が心を引き締めるのだ。
本殿の中へは入れない。本殿の入り口前にある、賽銭箱の手前で、半強制的に足止めを食らい、課金を強いられる。よく考えればすごいシステムだ。何も購入していないのに、半強制的に課金のターンへと進むのだから。
もちろん課金しなくてもいい。してもいい。課金しなくても、警備員のおじさんも内心はどうあれ、変な顔はしない。どうせ課金した行き先は、職員の胃袋の中なのだから。アルバイトしていた子が言っていた。もちろん、この物語がハーフフィクションなのは忘れてはいけない。くわばらくわばら。
本殿に向かって、二礼・二拍手・一礼。この儀式も意味がある。「型」を大切にする人は、それだけ心を整えるのがうまい。第何話だったか忘れたが「ルーティン」の話とつながる。所作の美しい人は、心を整えるのもうまいのだ。
目を閉じて一礼をしていると、やわらかな風が頬をなでる。「マイナスイオン効果」などは似非科学だが、しかし「マイナスイオンっぽい何か」で癒されているような、そんな感覚は、確かに、ある。神宮の木々に囲まれて、空気が澄んでいるからだろう。
誓いを立てる。
しかし、実は誓いさえ、どうでもよくなってくる場合もある。ここ20年程、筆者は誓いすら立てていない。立てられないのだ。本殿を前にして、素心でいると、無心になってしまっている。ただただ無心で、頭を下げている。
本殿を前に、頭を下げることで、いま自分といういのちが生かされていることへの感謝、目標に向かって努力できる環境にあるという、そこに感謝の念を抱けるようになる。
誰それ君と結ばれたいのは山々だけど、もうそんなことどうでもよくなってくるくらいに、心がきれいになる。いや待て。合格なんてどうでもいいという気持ちになったら、この物語は終了するのでそれは困る。
しつこいが、筆者は神様を信用していない。なぜなら、神様とは、人間が脳内で生み出した「幻想」だからだ。批判や反論は受け付ける。筆者は「神を信じる人々」を批判はしないし、否定しない。でも、やはり「神様は信用していない」。「あの世」だって、人間が作り出した創造物である。想像上の創造物だから、いくらでも自分たちの都合に合わせて改変でき、独自解釈ができるから、信用していないのだ。だがしかし。
しかし「参拝」の効果は、「信頼」している。
そして「参拝」は、特に「神宮参拝」というものは、「内発的動機付け」だけでなく、「外発的動機付け」も同時に高めることができる、一石二鳥の行為なのである。二兎を追うものが二兎ともゲットできるのだ。
なぜなら、一度訪れて、その何かわからない「場の空気」に圧倒された体験を持つ人は、また訪れたくなるからだ。今度は合格したときに、お礼参りに来よう。それだけでも、「お礼参りの予定」が、「外発的動機付け」になるのだ。脳汁のもととなる。
もちろんお金も時間もかかることなので、簡単ではないし、手間である。手間ではあるが、その手間をかけることが、役に立つのだ。
―――いや、参拝なんてしても、効果なかったよ。
そんな意見も受け付ける。そうなのだ。「素心」でいなければ、参拝の効果は得られることは無い。ただの散歩になってしまう。
「素心」とは、書いて字の如く「素朴な心」であり、「素直な心」である。それは何かというと「じぶんとちゃんと向き合えている」ということでもある。
それができていないと、たとえ神宮の森を歩いていても、
―――木が生えているな
それくらいの感想しか抱くことはできないかも知れないのだ。
では「じぶんとちゃんと向き合えている」とはどういうことか。
受験生でいえば「勉強したくないじぶん」をちゃんと認めているかどうか、である。
受験生だから、勉強しなければいけないのは、頭では理解をしている。でも、実際は、難しかったり、退屈だったり、眠かったり、いろいろな理由で勉強を続けることがきつい状態にある。そして、勉強しなきゃいけないのはわかっているのに、スマホで音ゲーを始めてしまったり、SNSを見始めたり、カクヨムに逃げ込んだりする(筆者もだけど)。
そんな弱い自分も、ちゃんと認めてあげる。それも含めて、人間らしいじぶんなのだから。
そのうえで、それでも合格したい、勉強がちゃんとできるようになりたい、その気持ちを、神前へ持ち込む。誓う。約束をする。想像上の産物でもいい。幻想でもいいのだ。
じぶんの中にいる神様と、約束するのだ。
「実現してみせる」と。
たったその作業(でも大切な儀式)だけをするために、それだけのために、衣服もちゃんと選んで、予定を組んで、交通費や食費や宿泊費なども用意して、時間とお金と手間暇をかけて、参拝する意義が、大いにあるのだ。
だから神宮へおいで、と誘っているわけではない。来られる人はぜひ来てもらいたい、体験してもらいたいし、都合が合えば食事もご馳走するし旅のサポートもさせて頂きたいけれども、別に、近所の神社やお寺でもいいのだ。
大切なことは、「わざわざ手間暇をかけて、それだけをしに行く」ことにある。
―――そんな暇があるなら、その時間に単語のひとつでも憶えるべきだろう。
その意見も正論である。しかし、モチベーションが不足しているのに、どうやって戦えるというのか。
いま思い出したのだが、これは、小説である。
この流れからして当然のことであるが、主人公である海野七海32歳と、そして今後、「もうひとりの主人公」と呼んでいいかも知れない、片山志桜里18歳、そして別の物語の主人公となる、伊賀栗麗子(デリケートなお年頃なので年齢非公表)、麗子は家が神社なのだが、神都神宮から枝分かれした末社である。つまり麗子の家からすれば、神都神宮は「実家」であり、「総本山」ともいえる。その総本山に、連れ立って参拝をした。
彼女たちのアドバンテージ。神都市民であるということ。毎日いつでも1時間以内に参拝して帰って来られるという強み。
神宮に守られて生きているという安心感。これは強い。
参拝するたびに「ようし、やってやるぞ」という気持ちをもらえる。
そう、要するに感受性の問題なのであるが、しかしこれは「脳汁」のコントロールに大きな効果が認められるのである。まめじぃの30年の指導経験においても、年1・2回の参拝でも、大きな効果が得られることが実証されている。
何度も思い出すが、これは小説だった。それを思い出しながらも、主人公はじめ、登場人物の誰一人として、まったく活躍しない回は、今後も、あるかも知れないと、予見する筆者であった。
ともあれ、3人は、三様の目標に向かって、誓いを立てた。
「晴斗の幸せを支えられる母親になります。看護師になって、経済的に余裕を持って、本人が行きたいと思った大学へ通ってもらえるようにサポートします!」と七海。
「自立した大人の女性になります。おしゃれな部屋で一人暮らしをして、大好きな小説を書き続けるためにも、看護師になってお金に苦労しない生き方をします」と志桜里。
そして「まめじゅく」講師で、本業は大学院生の伊賀栗麗子にも、学問の道を究めるという誓いがある。
彼女は『萬葉集』の研究を通じて、日本語のすばらしさ、古典文学のおもしろさ、日本文化の美しさを、深く研究し、多くの人に伝えたいという夢を抱いている。一時は適応障害を発症し不登校になり、高校を中退。引きこもり生活の中で自殺も何度も考えた彼女が、ようやく見つけた「生きる意味」なのだ。
たとえ文学の研究は社会で役に立たないと笑われても、バカにされても、それでもいい。じぶんが心から好きと思える事と、いっしょに生きていきたい。
それは壮絶な「生みの親の裏切り」・「いじめ」・「適応障害」・「不登校」・「高校中退」そして「社会復帰」・「高卒認定試験からの大学受験」・「大学院入学」を経験してきた、麗子だからこそ、「これが私の生きる道です」と、胸を張って神前で誓えることだった。
しかし彼女の物語は、七海や志桜里たちの物語とは関係が無いので、改めて機会を設ける。題名は「特攻隊員だった曾祖父が教えてくれた邪馬台国の秘密(仮)」である。いつスタートするかわからないし、いつ完成するかもわからないが、構想は7年前にスタートし、ノートも2冊できている。やはり神都市が舞台のハーフフィクションとなる。
ともかく、神様が実在するかと言われれば、実在する。ニンゲンの心の中に。学術的には「共同幻想」という。それを信じるかどうかは、あくまで自由だ。筆者は、神様のことを「信用していない」。
しかし神前(または仏前)で、誓いを立てるという行為を、いい加減な気持ちではなく、「
一部から猛烈な非難があっても、気にしない。
バチが当たってもへっちゃらである。何せ信用していないのだから。
ウクライナで訳もわからず殺された住民の死にざまをどう説明できる?台風で理不尽に命を奪われた人々に神様はどんな声をかける?東日本大震災で津波に呑まれた人たちは、いったいどんな罪を犯したのか、神様は答えてくれない。なぜなら人によってどのようにでも解釈できる、共同幻想なのだから。
それでも、西行法師が神宮で詠んだ歌には、心から共感し、涙を誘われた。
――― なにごとのおはしますか知らねども かたじけなさに涙こぼるる
『西行法師歌集』より
神宮は、そういう場所である。そういう力を持っている場所なのだ。
だから・・・これは小説だっていうことを、筆者は思い出すべきである。
次回は埋め合わせとして、小説を書く際の必須技能と呼ばれる3大表現技法にも挑む。
つづく。
※この物語は「ハーフ」フィクションです。どこからどこまでアレかはアレなのでアレさせて頂きます。
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