第9話 計算問題を素早く解くコツは

 看護学校の受験に向けて日々の課題に取り組む、片山志桜里・18歳・高校三年生、そして海野七海・32歳・シングルマザー。


 語彙力の特訓とは別に、毎日の課題が二人には課されていた。それは「5分間計算」である。


 それは、まめじぃが準備した計算問題のプリントを、5分間、時間を測って解いて、何問正解できるか、という特訓だった。


 最初の問題は、7+8=というようなカンタンなものから始まり、最後の50問目は、二次方程式の解の公式を用いた問題になっている。当然、七海は50問目までたどり着ける実力は無いから、二次方程式の解の公式を忘れていても、いまのところは問題ない。それでいいのか。


 とにかく5分間で、解ける計算問題の量を増やしていく。スピード強化のための短距離ダッシュ、と捉えていい。もちろん、正解していないと意味が無い。

 七海は最初、方程式の解き方さえ忘れていて「移項」とはどういうことをするのか、両辺を同じ数で掛けたり割ったりすることで解ける、ということも、完全に忘れていた。


 3x+2=8


「これのエックスに入る数字を考えればいいんでしょ」


 そうして七海は、x=1から順番に、2、3、と数字を当てはめる方式で解いた。ペンを机に置き、指折り数え、ぶつぶつとつぶやきながら解いている。


「ほら、xに2を入れたら、8になるでしょ。楽勝」


 そんな解き方をしているものだから、分数がいくつも混じった方程式等は、まったく解ける気配さえなかった。当然、計算は進まず、時間だけが過ぎていく。


 何せ「通分」がわからなくて、2分の1+3分の1は、5分の2だと信じて疑わず、これがどうして間違いなのかを理解するのに、相当な時間を要した。間に合うのか。


 志桜里は、さすが現役生という強みもあり、若さというアドバンテージもあり、最初から良いペースで40問近く解けていた。ただ、どうしても50問目までは届かない。後半は文字を含んだ式の計算や、一次方程式、連立方程式、二次方程式が続く。 

 どれも今はまだ中学レベルの問題ばかりであるが、やはり時間内にすべて終わらせることは難しい。


 七海も、のびしろしかない分、めきめきと解ける数を伸ばしてきているが、文字を含んだ式あたりから一気にペースダウンして、誤答も増えくる。


 計算練習を続けていると、必ず壁にぶちあたる。やってもやっても、成果が出なくなる。それは上達している証拠でもあるのだが、ここで心が折れる人は多い。


 これは語彙の学習でも触れた。どれだけ練習しても、うまくいかない、成果につながらない、という段階が必ずある。そういう段階を乗り越えてようやくその先の段階へ進めるのであるが、それを知っている人がそばにいて、励ましてくれるか、エサで釣って導いてくれるか、何かしらのサポートが無いと、なかなか一人で乗り越えるのは難しい。

 

 計算問題は、数学の試験において、必ず全問正解しておきたい、決して落とせない部分だ。数学の入試問題のほとんどは、計算問題で始まる。この部分をできるだけ素早くといて、他の問題を解く時間を確保したい。

 また角度や面積・体積を求め、座標の位置を割り出すのにも、計算は必須だ。ここで時間がかかってしまったり、計算ミスが多かったりすると、点数につながらない。


 計算力は語彙力と肩を並べる位、重要である。「読み書きそろばん」と昔からいわれるように、読解力・語彙力・計算力の3つが、入試の結果を左右する。受験テクニックは多々あれど、この3つが不足していると、そのテクニックさえ無駄になってしまうこともある。どんなすごい魔法を覚えても、MPがゼロでは発動できない。


 とにかく、毎日やるしかないのである。ピアノの練習と同じで、1日練習しないと、その感覚を取り戻すのに何日もかかることもある。


 そう、計算は、ある意味「技能」である。


 「技能」とは、日々の鍛錬によって身につくものであり、意味が理解できたからすぐにできる、というものではない。「テニス入門」というタイトルの本を読んで全部暗記しても、試合に勝てるかどうかは別の話であるのと同じだ。

 

 まずは、大きな紙に、大きな文字で、計算する。A3のスケッチブックなどでもいい。大きく書いて、ゆっくりと解く。これを人によっては、3回ほど繰り返す。1回で理解できれば、1回でもいい。


 計算の意味が理解できたら、普通のノートに練習をする。その時かならず「途中式」を残しておくこと。答えも大事だが、なぜその解答に至ったのか、プロセスを記録しておくことは、同じくらい重要である。

 慣れてきたら、その途中式も最初4行だったのが、2行で済むようになってくる。繰り返し繰り返し類題を解くことで、途中式が暗算でやれるようになってくる。そうなると当然、計算スピードも上がってくる。


 中国拳法の修行でも、まずは大きな動作でゆっくり「型」を覚える。本来の動作よりも大きく身振り手振りを行い、ゆっくり呼吸をしながら、ゆったり行う。私たちが目にする機会があるとすれば「太極拳」だ。


 ゆるやかな音楽に合わせて、踊るようにのびやかに、ゆっくり動く。


 しかしあれは、あくまで初心者用の動き。


 陳氏太極拳という、太極拳の一派がある。やはり初心者には、私たちが知っているような、ゆったりした大きな動きで教える。

 ところが師範クラスの稽古となると、様相が一変する。


 目で追えない程、速くて激しくて、空気の震える音が聞こえる。そして動きはとてもコンパクトで、必要最小限しか動かない。


 最初は大きくゆっくりと反復する。その動作の意味が理解できて、身体が慣れてきたなら、次はスピードを上げて、力強く素早く反復する。


 この中国拳法の稽古の方法論は、すべての「技能の習得」に応用できる。

 

 テニスだって、まずは大きくゆっくりラケットを振ることで、身体とラケットの使い方を覚える。しかし、上級者の試合を見ればわかるが、最小限の動きで、コンパクトに打ったのに、そのボールは時速200kmに達することもある。


 はじめゆっくり。だんだんはやく。


 はじめおおきく。だんだんちいさく。


 これは、あらゆることに通じる「上達の重要なコツ」である。

 

 間違えた問題は、決して消しゴムで消してはいけない。なぜなら「間違えた原因」まで消去してしまい、同じミスを繰り返すもとになってしまうからだ。


 フランスの学生は、小学生のころから青色のインクペンを用いる。消しゴムは使えない。ミスしたら、そのミスしたところまで、確実に記録に残していく。これは、計算力の向上にも、非常に重要なポイントである。また青色は、記憶力が上がるという研究もあり、フランスではどの科目も、青色のペンを用いるのが当たり前となっている。


 それをまめじぃから教えてもらって、七海は、真似た。青色のゲルインクボールペンで、計算問題を解いた。間違った問題は、そのままにしておいて、別に一冊、ノートを作った。


 タイトルは「間違いノート」。


 計算ミスした問題は「間違いノート」に記録する。どういう箇所でつまずいたのか、どんなミスだったのか、すべて記録した。

 記録に残すということの威力を、七海はここで痛感した。医療の世界のカルテと同じく、記録に残しておくことで、次やるべきことが明確に見えてくる。七海はじぶんがどんなエラーをしているのか、パターンを容易に突き止めることができた。


 1、書き間違いによるもの。問題には3z(さんゼット)とあったのに、計算途中で32(さんじゅうに)になる。こういった書き間違いで不正解になることが多い。


 2、足し算なのに掛けてしまう。3x+2xを、6xとしてしまう。もちろん5xだとわかってはいるのだが、無意識に間違いをしてしまっていたことがわかった。


 3、分数。やはり「通分」という感覚がどうも苦手で、分母と分母をそろえるということをせず、分母同士を足してしまうことが多々あった。


 しかしこういった「エラーのクセ」=「思考のクセ」を、記録から発見できたのだから、あとは日々の練習でその点を意識するだけである。


 ひたすら繰り返した。問題を解く時間は、5分間しかないから、とにかく集中する。毎日、毎日、繰り返した。


 はじめはスケッチブックに大きく計算していたが、毎日練習しているうちに、まめじぃお手製のプリントの、小さな余白に小さく計算するだけで、答えが出せるようにもなってきた。


 ところで、計算が「できる人」は、音がいい。音とは、ペンが紙の上で奏でる音である。


 カカカカッ、と素早くリズミカルだ。


 志桜里は練習を初めて2週間目で、もうすでに、その域には来ていた。5分間で何問解けるか、というタイムレースで、スピードを意識している分、少しでも早く解かなきゃと、手が自然に早くなる。


 七海は、相変わらず、音が弱い。サラ・サラ・サラ、と、ペンが紙をこする音がする。これでは50問すべてを解ききることはできない。


 それでも、毎日続けることが大切なのだ。できるかできないか、ではなく、やり続けられたかどうか、なのだ。


 もちろん、練習していると、イヤになってくることもある。そのイヤな気持ちも、練習のうちだ。苦しくて辛くてやめたくなることもある。それも練習のうちなのだ。そういった事を乗り越えてはじめて得られる、喜びの種類がある。


 途中くじけそうなときは、それも練習のうちなんだ、という事を思い出す。


 七海にとって幸いだったのは、志桜里という、ともに同じ道を目指す仲間がいた。まめじぃという、受験のプロがそばにいてくれた。くじけそうなときには、2人に相談して、励ましてもらい、力をもらった。

 もちろんひとり息子の晴斗も、大きな支えだった。この子のために、と思うと、百倍力が湧いてくる。母親であることの強みだと七海自身も感じていた。

 

 反復練習は、着実に力となる。どんなに計算が苦手な人でも、毎日毎日、5分間集中力マックスで計算練習を続けていると、最初は、たどたどしくても、数カ月もすれば、


 カカカカッ!


 と計算できるようになってくる。


 これは30年間、数えきれない生徒を合格に導いてきた、まめじぃの実体験からくるものであるが、計算練習は必ず毎日やるべきで、毎日続ければ、必ず上達できる。それはたとえ、1日5分でもいい。毎日反復するのだ。


 反復は、力。


 入試本番、試験でまずやることは、開始の合図とともに、問題全体を見渡すこと。どんな問題がどんな順番で出題されているのか確かめる。そこから問題を解く順番を決めて、計画的に解いていく。いきなり問題を解き始めるのは、タブー視されている。


 しかし、七海と志桜里は、そんなことはしなかった。開始の合図とともに、瞬く間に計算問題に取り掛かる。


 志桜里は、リズミカルにカカカカッと机を鳴らす。


 七海は、半年前はサラ・サラ・サラと書いていたのだが、入試当日は別人だった。受験会場でうしろの席に座っていた片山志桜里曰く、


 「七海さんの机だけ地震が起きてた」


 ドカカカカッ!ドカカカッツ!カカッ!


 他の受験生たちに対する、大きなプレッシャーである。本人はふつうに真剣に計算をしているだけである。


 ―――何?この人?めっちゃうるさいんだけど?ちょっとすごいスピードで解いてるよ。ふつうは最初、問題を見渡すよね?いきなり解いてるの?え?めっちゃ速くない?やばい。私も解かなきゃ。えっ、ちょっと、うるさくて集中できない。何そのドカカカッて、工事中なの?何なの?あれ?問題が頭に入ってこない。何なのあの人!めっっちゃうるさい!ああもう!イライラするぅ~!


 同じ日、同じ会場で試験を受けていた、小林瑠香さんは、運悪く七海の席の真横だった。七海のドカカカ!にやられて、まったく集中できなかった。どんまい。

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