第7話 語彙力はマジほんとガチ大事だから

 32歳という年齢からでも、看護師は目指すことができる。これは間違いのない事実である。人にもよるが、月収40万円を超えるなんてことは、ザラだという。

 

 ところが、看護師になろうと思ったら、まずは看護学校の「入学試験」というものを、どうしても突破しなければいけない。


 正看護師の国家資格を受験できる三年制(レギュラーコース)の学校は、社会人推薦入試を受ける事にした。面接と作文だけで戦える。

 しかし二年制の准看護学校では、国語・数学・理科という三科目の学科試験がある。高校受験レベルだからカンタンだというが、それは勉強がある程度できる人の言葉である。

 七海には、できない。なぜできないか。


―――これまで勉強が大きらいで、ずっと逃げてきたからだ。


そのように自己分析していた。


 致命的だったのは、語彙力だった。


 語彙力は、すべての学力の土台といわれる。


 例えばスポーツであれば、筋力や柔軟性、瞬発力やスタミナ、そういった「基礎体力」が無ければ、試合どころか練習にさえついていけない。


 例えば家を建てるとしたら、豆腐のように柔らかい土地の上では、どれだけ良い木材を使っても、家は傾いてしまう。地盤の柔らかい土地に家を建てるときは、コンクリートなどを用いて、まずは土地をしっかり固めるところから始める。


 勉強もそうだ。まめじぃは、過去問題を解くことから始めるように指示をした。これはあくまでも「受験」のための勉強法であり、本来勉強とは、語彙の勉強から始まる。


 ところで、七海は「語彙」という言葉を聞いたことはあったが、その意味をよくわかっていなかった。「ごい」と読むことは、テレビで観て知っていた。なんとなく、漢字の知識、くらいにしか捉えていなかった。


 しかし語彙というのは「単語の総体」の事である。つまり語彙力とは、使いこなせる単語の総体のことである。

 そういうと、七海は「総体って何?」と返してくる。漢字の意味を見ればわかる、とまめじぃが説明しても、ぽかんとしている。これは何とかせねば、と危機感を持ったのは、まめじぃだけだった。


 世間でもよく誤解されているのが「語彙力」というと、国語や英語といった、語学の話だと思われている。しかしそうではない。


 「中点連結定理」という言葉を知っているとして、これが国語の試験で役に立つ確率は少ない。ところが、高校入試の数学では、この言葉はとても重要である。


 つまり科目によって、それぞれに必要な「語彙力」というものがある。


 「酢酸カーミン液」を知らない事には、七海が受験したい准看護学校の入試問題は解けない。准看護学校の入試には珍しく、理科の試験もあるからだ。


 過去問を全くといってよいほど解けなかった七海の、解けない一番の原因は、まさに「語彙力不足」からくるものだった。「総体」の意味がわからないのに「酢酸カーミン液」や「中点連結定理」について理解するのは困難だろう。


 受験日までの残り期間で、どこまでやれるのか。習得しなければいけない語彙の総数はまったく見えない。


 しかし、海野七海には、強い武器があった。それは「あきらめない」という、最強の武器であった。


 だいたい、世の中の多くの人は、うまくいかないと、自分には向いていなかった等の理由をつけて、あきらめることが多い。そうやってあきらめて、次を探す。


 それは決して悪いことではない。中学では三年間、バドミントン部でがんばったけれど、一度もレギュラーに入れずに引退。バドミントンはあきらめ、高校では剣道部に入部。ところが、三年間まったく一勝もできずに引退。剣道はあきらめ、大学では幼い頃から習い事として通っていた空手をサークル活動でもやることにした。

 結果、空手道競技において、県の強化選手に選ばれ、その後、20歳で指導員資格(三段)を取得。大学に通いながら空手道場を経営。38歳のときには、地元の空手道団体の会長に選出された。あ、すいませんこれ、わたしの事です。


 ところが、何かの分野で活躍している、いわゆる「成功者」と人から呼ばれるような人たちの大半は、一度じぶんが始めたことを、決してあきらめなかった人たちであるのも、事実だ。


 七海には「あきらめる」という選択肢は無かった。


 七海にとって、看護師になるという目標は、じぶん一人のためではないのである。


 人は、じぶんのため、よりも「誰かのため」の方がむしろ頑張れることがある。いまの七海はまさにそうだった。


 いちど、わが子を、殺している。それは「中絶」という名の、合法的な医療行為であるが、七海は、じぶんの子どもを、殺した、と思っている。


 その負い目をこれまで誰にも見せたことは無いし、明るく元気に振る舞うことこそ、相手に対する最大の礼儀であるという、そんな信念を無意識に実践している彼女は、じぶんの心の影を決して表には出さない。


 しかし、その負い目こそが、彼女のパワーになっていた。新たに授かったいのち。晴斗(はると)という、この子は、あの子の生まれ変わりなんだと、七海は信じていた。だから命を懸けてこの子を幸せにしてみせる、そういう強い想いがあった。

 お金があるから幸せになれるなんて、思わない。でも、息子が通いたいという大学に通わせてあげたい。学費の面で苦労させたくない。そのためには、稼ぐ。看護師になって、稼ぐ。そして私も、晴斗みたいに、勉強を好きと言えるようになりたい。


 だから、絶対に、あきらめない。


 七海はまめじぃの教えを忠実に実践した。


 まず、大手新聞社の「コラム」をノートに書き写すという日課を持った。七海には月4000円も払って新聞を購読する余裕なんてないから、スマホから毎日新聞社のwebサイトにアクセスし、「余録」といわれるコラム欄をせっせとノートに書き写した。


 書き写す理由は、じぶんの手でプロの文章を書写するということが、最も効率的に語彙力が身につくと教えてもらったからだ。

 ほんとうかどうかは、やってみないとわからないと思った。Aさんにとって効果的な方法かも知れないけれど、もしかしたらBさんには向かないかも知れない。私はBさんかもしれない。それでも、やってみないと、それがわからない。


 だから七海は、ノートに「余録」というコラムの文章を書き写し続けた。


 ただ書き写すだけではない。ノートを三つに区切り、いちばん大きなスペースに本文を書く。その上段に小さなスペースを設け、そこにじぶんが知らない単語だけを抽出し、書き写す。そして左端にもスペースを作り、そこを語彙の練習スペースとして活用する。


 これはまめじぃから教えてもらった「コーネルノート」の国語バージョンである。


 コーネルノートとは、アメリカのコーネル大学で1989年に開発されたとされる、ノートの使い方である。

 といっても「ノートの1ページを3つに区切って活用する」という、シンプルなもので「コーネルノート」という名前を知らなくても、じぶんなりに工夫して似たようなノートの作り方をしている人も多いと推察される。

 しかし何がすごいかというと、コーネル大学という、アメリカの有名な大学の名前がつけられたことにより、「権威」が付け足された。


 この「権威付け」と「ラベリング」(コーネルノートという名前をつけること)により、コーネルノートを利用する者は、次のように思いこみがちになる。


―――なんだか知らないけれど、アメリカのすごい大学の、すごい教授が開発した、すごいノートの活用法なんだから、すごい効果があるんだろう。


 実は、その思いこみこそが、コーネルノートの、最大の効果であるといえる。


 そう思い込むからこそ、毎日コツコツ続けられる。毎日コツコツ続ければ、当然、その分、実力は向上していく。よほどひどい方法でない限り、毎日練習したことは、ほとんどの場合、成果となって現れる。

 「余録」では、時事問題に直結した話題で語られることが多いため、いま世の中で何が起こっているのか、どんなことが話題となり、どんなことが問題とされているのか、わかるようになってくるし、興味・関心も出てくる。


 これが自然と「面接対策」にもつながってくる。入試の面接あるある「最近気になったニュースは何ですか」に、七海は面接試験本番で、他の受験生たちを圧倒し、面接官たちを感動させるアピールに成功するのだが、それはまだ先のお話。


 数学にも語彙力は必要である。直線と線分の違いは何なのか。三平方の定理の「三平方」とは何なのか。


 七海は、中学三年間の教科書を捨ててしまって持っていなかったので、まめじぃの教室にある教科書を借りて読んでいた。ほとんどの中学生はやらないであろう、数学の教科書を音読して、意味の分からない言葉や大切だと思う言葉に線を引き、ノートにまとめなおすという「数学教科書の音読練習」を日々繰り返した。


 理科も同様に、学校で使用される教科書を、ひたすら音読した。特に用語に関しては、なじみがなく難しい言葉も多い。しかし七海が受験する神都市医師会准看護学校では、理科の中でも生物と化学関係しか出ないということが過去問からもはっきりわかっているから、ある程度数は絞られていた。

 それでも、お酢の「酢」を「さく」と読むなんて、理科を勉強しなければ永遠に知らなかっただろうと、七海は思うのであった。中学生のころは、それが一体何の役にたつのか、勉強する意味がわからなかった。

 でも、いまは、純粋に、知らなかったことがあって、それを知れたことが、おもしろいと感じる。


 不思議と、勉強がイヤじゃない。


 知識が増えていく、そのこと自体が楽しみ。


 語彙力強化の勉強のよいところは、そこにある。確かに地味で地道な訓練であるが、やったらやっただけ、知識が増えている、という実感を持ちやすい。結果、達成感も得やすい。もちろんそれは、毎日コツコツ続けた人にしか、わからない感覚だろう。


 しかしそれは、ビギナーだから感じられるものでもある。語彙力がある程度向上してくると、かならず「壁」にぶち当たる。


 まず、語彙の練習に飽きてくる。あまりにも地道な作業すぎて。


 次に、訓練の成果を感じにくくなる段階が、必ずやってくる。こんなに練習しても意味あるのかな、と疑問に感じてしまう程に、成果を感じられない段階が、少なからず、やってくる。そこであきらめては勿体ない。


 そこを、何とかふんばって、あきらめず継続できるようになると、得られた語彙力は、受験はもちろんのこと、生きていく上での大きな財産となる。


 語彙力が豊富であるということは、それだけ、考える力が増すということにつながる。

 去年までのじぶんなら、何かよくわからないままモヤモヤ・イライラしていたことがあったが、語彙力が向上した今の自分は、モヤモヤ・イライラの原因をちゃんと言葉で表現できるから、自分の感情に対処がしやすくなる。


 子どもの成長を見ればわかる。語彙力が乏しい幼少期は、同じ言葉を繰り返すしか手段が無い。


「いーやーだー」

 

 いわゆる「イヤイヤ期」である。


 何がイヤなのか、言葉で説明ができない。複雑に育ってくるじぶんの感受性を、単語を用いて表現する術を知らないから。 


 だから、唯一使いこなせる「いーやーだー」という道具と、精一杯のボディーランゲージを用いて、じぶんの思うようにならない感情を、吐き出すしかない。


 しかし成長と共に、使用できる語彙も増え、じぶんの複雑な感受性を、わずかながらでも、様々な単語を用いて、使い分けるようになってくる。


 そうなれば、感情を爆発させなくても、自分なりに処理できるようになってくる。


 中には何を話しかけても「別に」と「ヤバい」しか言わない、そんな二十代になっても絶賛反抗期中のウチの娘も存在するが、それでも父親以外の人たちには、もっと豊富な語彙で接しているらしい。父寂し。


 ともかく、七海にとって語彙力が決定的に不足していたということは、実は逆に良かったことでもあった。


 伸びしろしかないから。


 だから、毎日少しずつでも、新しい言葉を理解し、使えるようになっていくことの喜び、面白さ、充実感を、七海は全身で味わっていた。


 当然、あと数カ月もすると例の「壁」がやってくる。憶えても覚えても、それが点数につながるという実感が持てなくなるタイミングがやってくる。


 しかし七海は大丈夫。「あきらめない」という最強の武器を持っているから。


 数年後、七海は看護の現場で後輩の指導に当たることになる。そんな七海先輩の口癖は、


「語彙力はマジほんとガチ大事だから」


という、語彙力を大切にしている人の発言とは思えないものだった。


 そんな語彙力アップに目覚めた、七海の心を大きくへし折る日々の課題があった。


 つづく 

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