第6話 この蝶の名は……
乱れた前髪から現れたジムの目をよく見ようと、私は彼の頬を両手で挟んだ。
よく見れば彼の目は黒い瞳が大きいけれど全体の色はこげ茶というか、光の加減では金色っぽくも見える。それでも白目の部分はほとんど見えなくて、吊り上がり気味の目はどこか狼を
私が食い入るように見つめると、ジムがふっと目をそらした。
「見ないでください」
気だるそうに私の手をほどいたジムが、あきらめたように息をつく。
「いい加減、
「えっ?」
ここは図書室で、脚立に乗って上にあった本を取ろうとした私がバランスを崩し、助けに来てくれたジムを下敷きにしてしまった――ということらしい。今更ながら彼に覆いかぶさるような体勢だったことに気づいて、かあっと頬が熱くなった。
「ご、ごめんなさい。重かったわよね」
慌てて飛びのくと彼がゆっくりと立ち上がり、「そうですね」と抑揚のない声で呟く。
(うっうっうっ。そりゃあ勢いよく倒れこんだもの。そうよね、重かったでしょうね、わかる。わかるわ。でもでも!)
「そこは紳士らしく否定して! 本当のことでも泣くわよ」
バクバクする胸を押さえながら涙目でジムを見上げると、彼は髪をかき上げて自嘲するように口の端をかすかに上げた。
「おや、泣きますか? ――そうですね。……なかせてみたいかも、しれませんね」
表情も言葉も意地悪なのに、どこか艶めいた響きを感じるジムの声に私の心臓が大きく跳ねる。初めて見た彼の素顔といつもと違う空気に、私の頭は混乱状態だ。
「それよりヴィアンカ様、他に言いたいことがあるのでは?」
素顔を晒したままのジムが貸してくれた手を取り、私も立ち上がる。
声は冷たいのに守られてるような温かさを感じ、無意識にこくっと喉を鳴らしてしまう。動揺を隠しつつ顔をあげてジムを見ると、彼の唇の端が答えを催促するかのようにまた少し上がる。それは些細な変化なのに妙に色っぽくて、私の心臓が大きく胸を叩いた。
(こ、この人、表情だけで私を殺す気かしら)
「ジムって、実はハンサムだったのね」
「はいっ?」
(あ、つい思ったことが口から出ちゃった)
「違うの。ううん、違わないんだけど、ジムがハンサムだって思ったのは本当なんだけど」
「あー、それはどうも……」
どこか呆れたような、それでいて不思議そうに目をしばたたかせたジムに、私は一生懸命脳内をさらってようやく自分の中に浮かぶ一番の疑問を絞り出した。
「その目……」
「はい」
「ジムって子供だったの? 地味にショックなんだけど……」
いや、かなりショックかも。
妖精の子どもの目は、十二歳くらいから徐々に白目の面積が大きくなると教えてくれたのはおじい様だ。私の記憶違いでなければ、実際に目がの大きさが変わるわけではなく、目の幅が広くなるんだったかな? それで十五歳までには人と変わらない感じの目になるらしい。
でもジムの目は白目の部分がほとんど見えない。ということは、どんなに大人っぽく見えてても私よりは年下ってことじゃない。嘘でしょ?
ああでも、ここには家憑き妖精がたくさん働いてるんだもの。家令のジムが妖精でもおかしくはないのよね。むしろ自然ともいえるかも? でもでも、いくらなんでも十歳程度ってことはないでしょう。もしかしたら十二歳くらい? いや、それでも十分子どもだし。ええぇ……。
「ショックって……。あなたが言いたいことはそれなんですか?」
「他に何かあるの?」
なんで呆気にとられてるみたいな顔をするのよ?
少しだけ口を尖らせつつ首をかしげて見返すと、我に返ったようにコホンと軽く咳払いをしたジムが困ったような笑いを浮かべる。つり気味の目なのに、そんな表情をされるとやっぱり可愛く見えて、私は少しだけ視線をそらした。
「ヴィアンカ様。一応訂正しておきますが、私は二十六歳です」
(大人だった!)
「ジュリアン様と同い年なのね?」
確認の意味も込めてそう聞くと、ジムが片方の眉を軽く上げる。
「左様でございますね」
どこか面白そうなのはなぜかしらん?
* * *
ジムによると、彼の両親は普通の人であり、彼も卵から生まれたわけではないらしい。妖精特有の羽もほとんどなかったそうだ。
「うちは先祖に何代か妖精と混血がいたそうで、私の目は特殊な先祖返りなんだそうです」
人なのに見た目が妖精とは困ったことも多かっただろう。幸い両親には愛されて育ったそうだが、成長しても目が子どものままだったので、いつも髪で隠していたそうだ。しかもその両親も十年近く前に事故で亡くなったと聞き、私は胸が痛くなった。
ごまかすこともできただろうに、ジムは丁寧に説明してくれた。その気持ちに寄り添うように私は深く頷いた。
「教えてくれてありがとう。そんな秘密を持ってたなんて驚いたけど、教えてくれて嬉しい」
ふんわり微笑んだ私にジムは複雑そうな顔をした後、ぐしゃぐしゃっと乱暴に前髪をおろすので残念な気持ちになる。素顔を出しててもいいのにと思ったけど、隠している方が落ち着くのだろう。
「私の秘密など、メイドをしていた男爵令嬢ほどではありません」
「そうかしら?」
「ええ。今は令嬢ではなく伯爵夫人ですがね」
「そう、ね」
(あくまで名前だけの妻ですけどね)
――この時は本当に、そう信じてたのだ。
* * *
いつからだろう。
気を付けないと、無意識にジムを目で追ってしまうようになったのは。
姿を見れば嬉しくて、見ていないふりで気配を追ってしまう。
彼の素顔をまた見たいと願い、そのたびに、胸の奥に生まれた蝶が羽ばたいて外に出ないよう胸を押さえる。羽ばたくたびに胸がギュッと痛くなるこの蝶の名は……恋、だ。
借金返済を肩代わりしてもらった代わりに、ラファイア伯爵の妻という役割を勤めなくてはいけない私にとって、これはけっして叶うことがない想いだ。絶対にばれるわけにはいかない。
自分の心なのに制御できない想いを抱えてため息をついた私は、今まで聞いた恋の話を思い出していた。
メイドの先輩たちは全員が幸せな恋をしていたわけではない。決して叶わない恋をしていた人もいる。
『—―――でね、アン。私思ったの。心で思うだけなら自由なのよ。消そうとしても消せないんだもの。だったら大事にして、いつか思い出になるのを待てばいいって』
『うーん、私にはよくわからないわ。消そうとしても消せないなんて。そういうものなの?』
『アンはまだ子供だもんね。初恋もまだだっけ? 恋はいいわよ。人生に張り合いがでるもの。苦しいのが難点だけどね』
『――様、かっこいいものね』
『そうなのよ。麗しくて素敵……って、見た目だけじゃなくてね』
高い身分の男性に恋をした、私より三歳年上で先輩メイドのお姉さん。彼女がしてくれた内緒のコイバナは、キラキラ光る星の欠片のようだった。苦しいのは身分違いのせいだけじゃなかったのだと、今ならわかる。
幸せで苦しくて、閉じ込めたいのに閉じ込められない。
それでも誰にも気づかれないよう大事に大事に温めれば、いつか綺麗な思い出になるでしょう。
まだ生まれたばかりの蝶よ。もう少し、――もう少しだけ、私と一緒にいてね。いつかその羽ばたきを止める日まで。
* * *
ジムは基本多忙で、いざ会おうと思っても、ちらりと顔を見るのでさえ意外と簡単ではない。
だから朝夕の報告時以外にも会える地下室での午後は貴重で、忙しくもあり、楽しくもあり、苦しくて幸せで、ずっと続けばいいと思う時間だった。
もちろん子どもたちが元気に健やかに過ごしてくれるのも嬉しいし、徐々に回復していく様子には感動すらしている。
最初の一ヶ月が嘘みたいに充実していた。
そんなある日。珍しくジュリアン様の執事の姿を見つけた。
結婚式の前に連絡係として行き来してくれてた執事は普段、ジュリアン様の事業の為、主人について外に出ていることがほとんどだ。
月に二、三度戻ってきて、ジムと何やら話し込んでいるのを見掛けることがあるくらいで、気づくといなくなっている。
そんな執事が声をかけてきたとき、私はてっきり妖精の子どもたちについてのことだと思い込んでいた。ジュリアン様が新しい子を保護したのではと予想していたのだ。
でも事実は全く違うものだった。
「ヴィアンカ様。今週末、伯爵さまが奥様の部屋を訪れますので、そのおつもりでお仕度願います」
――夫が寝所を訪れる理由などひとつしかない。ジョアンナが「よかったですね」と何度も言いながら、嬉々として準備を始めた。
(私は何もわかってなかった)
血の気が引いたのを悟られないよう普通の態度を心がけながら、私の胸はバクバクと嫌な音を立て続ける。
私は何も分かってなかった。
ずっとずっとこれからも、妻という名前だけの仕事だと思い込んでいたなんて。
彼以外の人に触れられることを考えるだけで、嫌悪感で叫びだしたくなるのを必死でこらえなきゃいけないなんて。
何でもない顔をして普段と同じ振る舞いをしていても、これは仕事だと何度自分に言い聞かせても、育ってしまった蝶はそれを拒否してる。
(逃げよう)
いけないことは分かってる。でも無理。今はどうしても耐えられない。
* * *
数日でできるだけの準備を整えた。
誰にも見つからないようバルコニーから抜け出そうとして、ずるっと滑った手。
何にも触れない足元がぞわりとし、同時に胃がふわりと浮いた気がする。
頭の中にこれまでのことが洪水のように浮かび、一瞬なのか永遠なのか分からない時間。固く閉じた瞼の裏に最後に浮かんだのはジムの姿だけだった。
「ジムっ」
心残りがあるとすれば、昨日からあなたに会えなかったこと。最後に一目会いたかった。少し滑り落ちてどうにか足が壁を捉えるけど、手のひらを擦りむいた痛みでこらえきれない。少し下を見るけど、地面まで飛び降りるのはまだ無理だ。
目頭が熱くなったまま、どうにか体勢を整えようと思うけれど、
(もう、だめ)
「アンッ」
強く願ったせいか頭上から空耳が聞こえた瞬間、ずるっと手が滑って落下した。舌打ちのようなものが聞こえ、間髪を入れずダンッと重い音が下から響く。
次の瞬間ドスッという衝撃があったものの痛みは伴わず、背中とひざの裏、そして左半身に何かぬくもりを感じる。何が起きたのか分からない私の頭上で、長い溜息が聞こえた。
「いったい何をしてるのですか」
怒りをこらえた低い声。
この声は――そんな――まさか……。
落ちたショックで心臓が高速で胸を叩く。そのせいで目があけられない私を抱えたまま、その人はスタスタと歩き始めた。
「満月だったからよかったものの、これが普通の日なら大怪我をしていたところですよ。――聞いてますか?」
恐る恐る目を開けてみると、綺麗に撫でつけていたらしい黒い髪が少し乱れた男性が呆れたように私を見た。少し釣り気味の目元。すっと通った鼻筋は貴族らしくて、引き結ばれていた形のいい唇が安心させるようほんの少し緩む。それだけで冷たい印象が霧散したハンサムな男性がそこにいた。
ジムの声なのに。ジムにとても似ているのに。
この目を、この顔を私は知っている。一度しか見たことがないけれど間違いない……
「伯爵様」
一瞬ジムだと思ったのに、逃げた私を捕らえたのはよりにもよって伯爵様本人。
目の前が暗くなり、こらえきれなかった涙が、つっと零れた。
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