第3話 地下室

 はじめて一人で図書室に向かったあの日。



 昼間だというのに廊下は薄暗く複雑で、階段を下りたり登ったりしているうちに、私はどこか知らない世界を歩いているみたいな気持ちになっていた。

 世界に自分だけが取り残されたみたいで怖かった—―――なんて言ったら笑われるかもしれないけれど、本当に心細かったのだ。


 だから人の声が聞こえたときは、心の底から安堵した。


 聞こえたのが子どもの声、しかも複数いるみたいな賑やかさには戸惑ったのよ? けど、あまり深くは考えなかった。今まで働いたことがあるお屋敷でも、孤児院の子たちが訪問するとか、使用人の子が複数人いるとか、そんなことがあったから。


 でも半分開いていたドアを覗き込んだ瞬間、私はパチパチと瞬きを繰り返し、しばらく立ち尽くしてしまった。


「え……?」



 声に導かれるようにたどり着いた部屋の前で、私に最初に気づき、無邪気に声をかけてきた幼い少女。

 今もあの時の衝撃をはっきりと覚えている。


「あれぇ? おねえちゃん、だあれ?」


 五、六歳にしか見えない小さな女の子は、森の動物のように白目部分がほとんど見えない黒い目を無邪気に輝かせ、三つ編みにした新緑のような色の髪を揺らしながらぴょこぴょこと近寄ってきた。


 女の子は元気いっぱいといった様子だったけど、その腕と足には厚い包帯がまかれ、歩き方も不自由そう。

 表情以外はあまりにも痛々しいその姿と、普通の人にはありえない風貌。

 その衝撃ショックで、私は頭の中が真っ白になった。


 それでも、無邪気な視線にさらされた時間は数秒にも満たなかったと思う。瞬きをしたかすら怪しい。でもその一瞬の間に、私の頭の中をいろいろな映像や言葉が飛び交った。


『伯爵様は、買った子ども奴隷の体を刻んでいるんですって』

『伯爵が作る美容液は、その子ども達からとった特殊な成分でできてるんですって』


 わんわんと響く、記憶の奥にあった声に頭がくらくらする。


 この時まで私は心のどこかで、噂は所詮噂だと思ってたのだ。

 だってみんなの言うことは『~なんですって』ばかりで、誰もそれを見た人なんていなかったんだもの。口調だって、どこかの舞台の話をしてるみたいに面白がってる感じだった。


 でも、目の前にいるこの子は何?

 どうしてこんなに包帯を巻かれているの?

 緑の髪や黒い目は、何かの実験に使われているからなの?

 噂は本当だったの?


 ごくりと生唾を飲み、乾いた唇を舌で濡らす。

 最初に浮かんだのは戸惑い。次に、湧き上がるような伯爵への怒りで目の前が赤く染まっていく。


 でもそんな私に、女の子は無邪気に小首をかしげた。


「ねえねえ、おねえちゃんって、もしかしてあたらしい子? あたり? あのね、あたしね、チルーっていうの。おねえちゃんは?」

「チルーッ!」


 見た目よりも幼い話し方をするチルーの声にかぶさる勢いで、若い男の声がかぶさる。彼女を背後にかばうように立ったのは、声は低めだけど見た目はせいぜい十歳くらいの少年だった。


 チルーと同じく緑の髪と、白目部分のほとんどない真っ黒の目。そして痛々しい包帯姿。

 ちがうのは警戒心を隠しもしない表情。そしてその左腕は、肘から下が欠けていることに気づき、ハッと息を飲む。


 でも、緊張しているようにも怯えているようにも見える少年の様子に、私は一気に落ち着きを取り戻すことができた。


 メイドの仕事の中でも、私は時々子守りのお役目をしていた。この表情は、初対面の子どもに時々あった、とても見覚えのあるものだったからだ。


 よく見れば大きな部屋の中には七人の子どもがいた。皆一様に包帯姿で、緑の髪も黒い目も、そして体のどこかが不自由そうなのも共通していた。目の前の少年は一番年上みたいだ。


(いけない。子どもたちを怯えさせちゃったわ)


 私はこっそりと深呼吸をすると膝をついて、視線の高さをチルーに合わせた。こうすると少年のほうが私を見下ろす形になる。


「初めまして、チルー。私はヴィアンカよ」


 ふんわりと微笑みかけると、チルーの表情かおがぱっと輝いた。


「ヴィアンカおねえちゃん?」

「そう。そして多分、新しい子じゃないわ」


 彼女が何を指してそう言ったのかは知らなかったけど、私は正直に

「私ね、迷子なの」

 と、あえて大袈裟なくらい情けない顔で打ち明けた。


「「「迷子ぉ?」」」


 困ってるという態度を前面に出せば、チルーは面白そうに目を輝かせた。ほかの子どもらも警戒が薄れたのか、少し肩の力が抜けた。


(怒りよりもまずは、この子たちを救う方法を考えなきゃ)


 ――と、密かに決意をしたんだけど……。


   * * *


 迷子になった私を迎えに来る人はいないと知った子どもたちは、なぜか張り切って私の面倒を見始めた。グラスにたっぷりと水を汲んできてくれたし、おやつまで分けてくれた。さすがに遠慮したけど、キラキラした表情がみるみるしょんぼりとなるので、少しだけ貰った。

 どうもここにいる子たちは全員、かなりの世話好きらしい。


 ちなみにチルー以外の子の名前は、トウ、カマ、ニヤ、モウシ、マージュ、カミーで、リーダーっぽい少年がイノスといった。

 独特で神秘的な響きの名前だと思い素直に褒めると、皆一様に照れたように笑った。最初怖い顔をしていたイノスもだ。

 うーん、こうして見ると、やっぱり普通の子どもだわ。可愛い。


 そして誘われるまま彼らと遊びながら、私は祖父が得意だったおとぎ話を思い出していた。


「ヴィアンカおねえちゃん、このお歌知ってるの?」


 一緒に手遊び歌で遊びだすと、チルーが嬉しそうに私に笑顔を見せる。同じようにに他の子も嬉しそうだったり不思議そうな顔をするので、私はにっこり笑って頷いた。


「うん。小さい頃、おじい様に教わったのを思い出したわ」


 そう。これはおとぎ話の中で教えてもらった、家憑き妖精の手遊び歌。独特の旋律と、不思議でうっとりするような響きの歌詞。意味はさっぱり分からなかったけど、小さい頃大好きだった。


 みんなで輪になって手遊び歌で盛り上がっていると、ドアの方から「はっ?」と、素っ頓狂な声が聞こえてくる。


「ヴィアンカ……さま?」


「あら、ジムじゃない」


 ポカーンとするジムに、私はひらひらと手を振って見せる。どうやら彼は、子どもたちに混ざって遊ぶ私の姿に相当驚いたらしい。

 私と子どもたちを代わる代わる見るジムの顔に私はもちろん、子どもたちもこらえきれず笑い出してしまった。


(やだ。ジムったら可愛い)


 ジムから嫌味や冷たい雰囲気を取り払ってしまえば、長い前髪が鬱陶しいだけの普通の青年だ。笑われてうっすら頬が赤くなってるのに、髪の隙間からちらりと覗く目に睨まれたって怖くもなんともない。ただの照れ隠しにしか見えないし、子どもたちが彼に嬉しそうに駆け寄っていく姿を見れば、とても慕われてることが分かるもの。


 彼が少しかがんで子どもたちの名前を呼びながら声をかけていく姿は、優しくてあたたかくて、なぜか胸がぎゅうっと痛くなった。


(私のことも、あんな風に優しく呼んでくれたらいいのにね)

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