第2話 ジムとの攻防

 チラリとドアのほうを見やり、その先にある地下室に思いを馳せる。

 行ってはいけないと言われていた地下室。


「ジム……」


 あなたの名前を呟くだけで、こんなにも胸が締め付けられる。

 ここから逃げれば二度と会えない人。そんなの嫌だって心は叫んでる。

 それでもこのまま伯爵様と夜を共にしてしまったら、私はあなたの名前を呼ぶことはおろか、あなたのことを思い浮かべることさえできない。あなたとの思い出さえ封印しなければいけなくなる。

 だって私は、それを自分に許すことができなくなるって分かってるもの。


「それだけは耐えられないのよ……」


 こんなの間違ってるって、頭ではわかってる。

 私が操を立てるべきなのがあなたではないことは、十分にわかってるの。でも心がついて行けない。


 こんな想いをあなたは気づいてなかったでしょう?

 ぶっきらぼうでも優しいあなただもの。万が一気づいても困ったわよね、ジム。あなたはこの伯爵家の家令であって、ジュリアン様はあなたが仕える主人なんだもの。


 たとえあなたに二度と会えなくても、ただの自己満足でも、私はこの身を守りたいの。


 愛してしまってごめんなさい。

 主人の妻が逃げたなんて醜聞にしかならないでしょう。

 でもあなたにはいっそ、変な女が消えたんだなって、気にしないでもらえたら嬉しい。


 窓を開けてそっとあたりをうかがう。部屋の下には誰もいない。

 私は隠してあったロープを柱と手すりに結びつけた。

 これからいったん庭師のおじいさんのところに隠れるつもりだ。あらかじめ内緒の手紙も送ってる。庭師だけど簡単な読み書きができるのは知ってるし、返事はなかったけど追い出すようなことはしないだろう。

 父たちに見つかったら厄介だから、前の職場で紹介状を書いてもらえないか尋ねてみないと。


 伯爵様が来るまで、まだ少し余裕があるはず。馬車到着の声も聞こえなかったし、たとえ帰宅されていたとしても、着替えをしたり夕食を召し上がったりするだろうから。


「大丈夫。うまくいく」


 テラスからロープを垂らして下を確認する。一瞬吹き付けた強風に、束の間身がすくむけど、今はこれしか方法はないのだ。

 子どもの頃は、こっそり家から抜け出すために何度もしたことがあるもの。ここは少し高いし、窓の下は暗くて良く見えないけど……


「ぜったい出来る」


 自分に言い聞かせるように呟いて、手すりを乗り越える。あとは深呼吸をしてロープを頼りに慎重に降り始めた。

 子どものころに比べて体が重く感じるし、やけに風が強くて不安定だけど、そんなことを気にしている余裕なんてない。


 伯爵様に必要なのは、伴侶がいるという体裁だけだもの。私が消えたことで驚かれるでしょうけど、準備は整えてきた。


「だから大丈――っ!」


 季節外れの強風にあおられズルッと手が滑る。とっさに体勢を立て直そうとしたものの、壁に付けてた足が滑った。


(落ちるっ!)


「ジムっ!」


   * * *



 ジムの第一印象は、本音を言えば最悪の一言だった。だって、すっごく感じが悪かったんだもの。



 結婚式の後、この屋敷の家令だという若い男――、つまりジムから伝えられた伯爵様の言葉は簡素極まりないものだった。


「この屋敷から出ないこと。旦那様の私的な場所プライベートスペース及び、地下室には行かないこと。それ以外は自由です」


 必要なものがあれば家のものに命じればいい。

 外に出たければ、広すぎる庭があるのだからそれで事足りるだろう。

 家族や友人を招きたいなら、相談すれば考える。


 返事の代わりに「はあ」と間抜けな声をこぼした私を、ジムは長い前髪の間からちらりとのぞく目で一瞥して軽く頷いた。はい以外の言葉は聞く気がないとばかりの偉そうな態度。これじゃあ、どっちが主人だかわかりゃしない。


 だけどこの時私の脳裏に浮かんだことは、

(それじゃあ私、暇すぎて死ぬのでは?)

 だった。



 これでも一応覚悟はしてたのよ。

 所詮買われた身だもの。不本意ではあるけど、それはそれ。伯爵様が払った額に見合うだけの働きはしようって。それはもう、猛烈に働く気満々で嫁いできたわけ。

 メイドとしてがっつり鍛えてきたんだもの。家事全般なんでもござれだし、力仕事だってけっこう得意だ。


 まあもっとも、初夜がないという点にだけはすっごく安堵した。むしろ納得もした。噂とはいえ、奴隷を刻むなんて言われている男に触れられたくないのはもちろんだけど、そもそも私を嫁に欲しいなんてあるわけないじゃない、やっぱりねって思ったのよ。

 誓いの口づけがなかったのだって、ベールをあげた瞬間がっかりしたからかもしれないでしょ。というか多分それで正解じゃないかしら。誰だって私のお母様を見たら、娘だってあんな美人だろうって思うでしょ。

 部分部分は似てるのよ。なぜか全てが地味なだけで。

 でも家に来たお客様にがっかりした顔をされたのは一度や二度じゃないもの。慣れてるわ。


 だからね。あの時点で――これは結婚したふり、形だけの結婚なんだって完全に理解したわけなんだけど、さすがにこの軟禁生活は想定外だった。自由なんて言われても、やることないとか無理過ぎる。


「ジムさん、私の仕事は?」


 自分史上最大というくらい可愛らしく淑やかに尋ねてみるものの、彼は無情にもふるりと首を振って私の質問を否定した。


「ジムと呼び捨てくださって結構です。奥様には朝と夕に通いの侍女が参ります。ここで働く者は人と接することを不得手とするものばかりですので、御用があれば侍女かわたくしにお申し付けください。本でも刺繍の道具でも、すぐに手配いたします」


(うーん。読書や刺繍より、古い本の修繕や繕い物のほうが得意ですけどね?)


 それでもジムの反論は許さないという確固たる意志と、余計なことはしないで淑やかに過ごせと言わんばかりの圧を感じる。

 慇懃無礼の化身みたいなジムに腹が立ったけど、この時は慣れないことへの疲れもあって、言いたいことをぐっと飲みこんだ。


 そのせいだろうか。次の日はひどい土砂降りだった。


(慣れないことはするものではないわ)


   * * *


 次の日からはジムとの静かな攻防戦の日々だった。


 この家で働く者は、人目に触れることを本気で忌避しているらしい。屋敷内ではいつだって、ジムと通いの侍女であるジョアンナ以外の姿を一切見ないんだもの。

 なのにどこを見たってチリ一つないし、出てくる料理は温かくておいしい。服だって寝具だっていつのまにかきちんと洗濯され、アイロンだってビシッとかかっている。

 普通に考えるとこの規模の屋敷の維持なら相当の使用人が必要だ。なのに驚くほど人の気配がないとなると――


「もしかして、家憑き妖精でもいるのかしらん?」


 埃一つない窓の桟を指で撫で、感心と共に深く首をかしげてしまう。

 今時家憑き妖精がいる家なんてあるわけがない。


 世話好きで陽気なくせに恥ずかしがり屋で、めったに人前に出ることはない家憑き妖精。自分がこれと決めた家を愛し、そこに住まう人の面倒をみることを好み、そして時に不思議な力を見せる。


 かつて人と共存していたそんな妖精たちが、身勝手な権力者の手から逃れるため人の世界から去ってしまったことは誰だって知っている。曾祖父が生きていたころはまだ少しはいたらしいけれど、今ではおとぎ話だ。

 だからこれは確実にここで働く使用人による仕事なわけなんだけど――。


「なんというか、ここのメイドも料理人も能力値高すぎない?」


 どう磨けばこんなに床や窓がピカピカになるの?

 誤ってドレスに飛んでしまった小さなシミを落としてくれた技なんて、ぜひ伝授してもらいたいくらいなんですけど。


 もっともそんなことは言えやしないから、

「きれいに染み抜きをしてくれた方にお礼を言いたいわ」

 なんて奥様ぶってジムに言ってみた。主人に仕事を褒めてもらえるのは嬉しいものでしょう? でも彼は私をちらっと見て、小さく息をついた。


「伝えておきます」


 くっ。相変わらず感情の読めない声。

 きっと心の中では、淑女がシミなんかつけるなとか思ってるのよね。ふんっ。



 これでも最初は私なりに、淑やかな奥様業も頑張ったのだ。

 基本的に細かい作業は好きだから刺繍にも挑戦したし、自分のベッドカバーにレースの縁取りまでした。

 我ながら 超 大 作 !


 興が乗って、ついついクッションカバーだのぬいぐるみだのを大量生産してしまったけど。


「店でも出す気ですか」


 ジムが心底呆れたようにぼそっと呟くのが聞こえたときは、さすがに自分でも(本当にね)なんて思ったわよ。露店出だせるくらいの量はあるんだもの。

 けど表向きはしれっと、「バザーにでも出そうかと思ってね」と言っておいた。

 なんのことはない。伯爵夫人らしいこともしてますよアピールだ。


 不穏な噂の絶えない伯爵様だけど、一方で孤児院などへ多額の寄付もしている。

 もっともこの話は、私が庶民に混ざって生きてなければ知らなかったかもしれないことだったりする。だって聞いた当時は同一人物のことだとは思わなかったから。

 まあそれも、貴族の義務の範疇はんちゅうだと言われてしまえばそれまでなんだけど。


 それでも少し考えるような仕草を見せたジムは、

「なるほど」

 と頷く。その声が少し感心したように聞こえて、私は(ふふ、勝った)とにんまりした。これで私への扱いも少しは変わるかも—―――なんて、甘い考えだったけどね。

 もうちょっと敬ってくれてもいいのよ?



 それでも新たに温室へ入ること、それから一部を利用してもいいという許可をもらったから、ハンカチに草木染をしたり刺繍したりもした。名目上は旦那様への贈り物だけど、実際はただの暇つぶしだ。一部は手紙を添えて両親やお兄様にも贈った。

 元気にやってるとあたりさわりのないことを書いて。


 うん。元気は元気なのよ。むしろ持て余している程度には。

 ――そう。正直なことを言ってしまえば、私はとっても元気を持て余しているのだ。


 * * *


「あーん、もう無理ぃ。暇で死ぬぅ」


 ある日私は、いつのまにかピシッと整えられていた寝具に突っ伏してうめいた。


 暇。ひまひまひまひま暇!

 まだ一ヶ月しかたっていないだなんて嘘でしょう? 三年は閉じ込められたような気分なんだけど。

 ああ、何か仕事が欲しい。仕事をください。

 日々、暇にあかせて目的も意味もない作業をするのは飽きたのよ。だってむなしいんだもの。


 せめて自分のまわりのものだけでも掃除や洗濯をさせてほしいと言ってみたものの、ジムには「使用人の仕事を横取りする気ですか」と叱られてしまった。

 ですよねぇ。


 わかってるのよ。仕事に手を出してくる雇い主なんて怖いもの。

 粗探あらさがしををされるんじゃないかとか、もしや首を切るつもりだろうとか、雇われてる方からしたらたまったものじゃないのは分かってる。

 そんなことしないって言っても、まあ無理よね?

 実際私がやるより使用人の仕事のほうがずっと高水準なわけだし、ここは素直に引き下がるしかない。


 だったら女主人の仕事なりなんなりさせてほしいと訴えたものの、ジムに鼻で笑われてしまった。


 くぅ、ムカつく。

 教養が不足してる自覚はあるから、文句も言えないのが余計悔しい。


「どうしてもだめ? 学ぶ気はあるのよ?」


 伯爵夫人らしくするためにと暗に訴えたところ、何か思うところがあったのか、ジムは伯爵様の図書室へ入れる許可を取ってきてくれた。夫(仮)の私的な場所プライベートスペースらしい。

 今まで私がこうした場所に入れなかったのは、そこが夫(仮)の私的空間ということ以外に、この館が古く、また不思議な増改築が重ねられている影響で場所がわかりにくいということが大きな理由だった。

 実際案内してもらって知ったんだけど、本当に謎としか言いようのない作りだったのよ!


 その結果、自分が生活している建物で迷子になるなんて夢にも思わなかったわ。一人で行けるなんて自信満々に言ったのに。


 ジムにばれたらまた鼻で笑われるんだろうなとか、メイド経験者としてはすごく悔しいとかいろいろ考えながらウロウロ知ってる場所を探してたんだけど、迷い込んだそこが、まさか行ってはいけないと言われていた地下室だったなんて、その時は考えもしなかったのだ。

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