初夜から逃げる5分前
相内充希
第1話 初夜から逃げます
太陽が沈んで、最後の陽光が静かに消える。
いつも一点にあり続け、守り星と呼ばれる白い星が輝きを増した。星の名前はヴィアンカ。白を表すそれは、私と同じ名前だ。
「ヴィアンカ様、
いつもより早い夕食と湯あみを済ませると、私の髪を侍女のジョアンナがゆるく編んでくれる。鏡に映る私の髪は生まれたときから白金のような色。母のような明るい金髪に変わることを期待していたのに、残念ながらそうははならなかった。
ジョアンナにばれないようこっそりとため息をついて視線を落とすと、今日初めて身に着けた寝間着が目に入る。
寝間着と言っても名ばかりで、繊細なレースのワンピースの丈は太ももの中ほどまでしかないし、下着同然。普通ならこんな格好で落ち着いて眠れるはずがない。
――そう、普通なら。
でも今夜は特別。なぜなら結婚以来すれ違っていた夫が、初めて私の寝所にくるのだ。
夫……。そう、夫……。
ううう、慣れない。無理ぃ。
だって私の「夫」は形ばかり名ばかりの人物で、実在はしているけれど(うん、それは確かなんだけど)、結婚式で初めて会って、式の後から今日まで一度も会っていない、そんな人なのだ。もちろん夜を共にしたこともない。ある意味他人よりも遠い、そんな男性。
夫の名前はジュリアン。漆黒の髪と目をもつラファイア伯爵その人だ。
普段から人前に出ることを好まないラファイア伯爵は、必ず黒ずくめの服を身にまとうことから暗黒伯爵と呼ばれているらしい。
結婚式の式場前ではじめて顔を合わせたときも真っ黒な装束で、新郎とは思えないその威圧感におののいたものだ。ヴェール越しでなかったら、彼の顔を盗み見ることさえできなかったと思う。
ちらっと見えたのはきれいに撫でつけられた黒い髪、少し釣り気味の目元。すっと通った鼻筋は貴族らしくて、引き結ばれた唇は形がいいためか、余計に冷たい印象を与えた。その風貌に、私は悪魔に嫁ぐのかと目の前が暗くなったものだ。
もっとも顔を見たのは一瞬だったから、ちゃんと顔を覚えているのかと聞かれたら是とは言えないのだけれど……。
誓いの口づけの時だって、伯爵がヴェールに手をかけた瞬間、思い切り目をつむってしまったのよね。しかも口づけはふりだけだったから、そばまで来た気配があったと思ったら離れていた、そんな感じだったし。
結婚式は伝統にのっとった最小限のものだけで、披露宴もない。それもそう。そんな贅沢は許されないじゃない。
なぜならこの結婚は、ただのふりだからだ。
ふり……は少し違うか。
私は両親が作った借金のせいでここにいる。
伯爵は噂の絶えない人物だ。
めったに会えない希少さや風貌、それから黒い噂。
社交界では面白おかしく囁かれているというけれど、華やかな場にほぼ縁のなかった私は、彼のことをほとんど知らなかった。
領地さえも持たない貧乏男爵の娘だから、噂を教えてくれるのはメイド仲間の女性たちだったのだ。そう、メイド仲間。仲間なのです。
秘密だけど、私は結婚するまでメイドとして働いていた。
侍女ではない。下級貴族でも裕福な家庭に勤める、ごくごく一般的なメイドだったのだ。
もちろん両親はこのことを知らない。二人は私が友人宅で令嬢の話し相手として過ごしていたと思っている。呑気なものよね。
この秘密を知るのはお兄様だけで、その伝手で私は十を過ぎたくらいからこっそりと下働きとして、のちに通いのメイドとして働いてきたのだ。
働き先では男爵令嬢ヴィアンカではなく、ただのアンとして認識されていた。男爵家の庭師(お兄様以外で私の秘密を知ってる無口なおじいちゃん)の親戚で、他に身寄りのないアン。苗字なんてもちろんない。
でも仕事には定評があり、収入も安定していたから、いっそこのまま家を出ようかしらなんて思っていた矢先、なんと私の縁談が決まってしまった。
「噓でしょ?」
まさに青天の霹靂! ううん。仮に目の前に雷が落ちたって、あんなに驚きはしなかなかったと思う。
だって私は社交界デビューさえしていない貧乏男爵令嬢。
家を継ぐお兄様ならともかく、私なんてなんの価値も後ろ盾もない、よくもわるくも無害で無価値な存在(うう、自分で言ってて涙が出るわね)。そんな私は、結婚そのものに縁がないと思っていたのだ。
だってそうでしょう? 相手に
それなのに、まさか親の作った借金のせいで結婚をすることになるとは夢にも思わなかったわよ。
私の実家は、もともと商売で得た成金男爵だったらしい。けれど残念なことに、商才は受け継がれるものではないらしいのよね。
輝かしい業績を誇った曾祖父が亡くなると一気に商売は傾き、祖父と父の代でどんどん落ちぶれていった。曾祖父との縁で贔屓にしてくれていた人々も、曾祖父本人が亡くなれば離れていったみたい。
でもお父様は落ちぶれることに耐えられなかったらしい。綺麗なだけが取り柄の、お嬢様育ちの母もそう。
両親はまさか自分たちが、息子や娘の稼ぎで食べていけてたことさえも気づいてなかった。言い方は悪いけど、我が親ながらあまりにぼんくらすぎた。
それでも私は彼らに愛されていると思ってたし、根は善良な人だと信じていた。
なのに我が家の財政状況の悪さに急に焦ったらしいお父様が、何を考えたのか突然慣れない投資に手を出してしまった。人のよさそうな詐欺師の甘言に乗せられ、お兄様が気づいた時には莫大な借金を背負っていたという。あの穏やかでいつも冷静なお兄様が蒼白になるレベルの借金って、いったいいくらだったのか。怖くてとても聞けなかったわ。
しかもその後「なんとかする」と宣言したお父様は、ラファイア伯爵に泣きついたらしい。
今度こそ嘘でしょう?
それを知ったとき、私の顔は紙のように白くなったと思う。
だってね。噂によれば、伯爵は奴隷市場の常連らしい。
奴隷自体は合法よ。上流階級に行けば行くほど働き手は必要で、異国から来た優秀な奴隷はかなり好待遇で取引されるというもの。お金持ちのところで働ければ、自分で自分を買い戻すこともできると聞いている。
でも伯爵は、そこで買った子どもの奴隷を夜な夜なその体を刻んでいると、まことしやかに囁かれている人物なのだ。
『なぜ奴隷を刻むのかですって?』
その噂を聞いて唖然とする私に、少しお姉さんのメイドがこっそりと教えてくれた。
『ハワード家の奥様付きのメイドに聞いたんだけどね、伯爵が作る美容液は、その子供たちからとった特殊な成分でできてるんですって』
『っ!』
思わず息を飲むと、彼女はなんでもないことのように軽く肩をすくめた。
『それくらい特殊なことでもなけりゃ、あんなすごい美容液は作れないって言ってたわよ。実際奥様は、もう孫がいるとは思えないほどお肌がつやつやで、シミ一つないんですって! 遠目で見たら乙女に間違われたこともあるって言ってたわ』
ああ、うらやましいと手を組むメイドに追随するように、他のメイドも深く頷く。
ラファイアの化粧品が高級だとは知っていたけれど、私は血の気が引いてしばらく立つのも億劫なくらいだったわ。美容って、こわい。
もともと裕福なラファイア伯爵家だったけど、この高価な化粧品でさらに財産を増やしたらしい。
しかもそれをしたのが、若くして爵位を継いだ現伯爵ジュリアンなのだ。
裕福で変わり者。
そして独身。
両親をはじめとした身内が立て続けに亡くなった伯爵は、十代で爵位を継いだという。
お父様の話によると、伯爵はもう何年も前から伴侶を得るよう親戚からつつかれていたらしい。でも当の伯爵は独身主義だと適当にあしらっていたんだそうだ。跡継ぎはなんとかなるとでも言ってたのかもしれないし、もしかしたら隠し子の一人や二人いるかもしれない。
そんな伯爵に泣きついたお父様だけど、いくらぼんくらとはいえ、年頃の娘を売るような真似をするつもりはなかったと思うの。ええ、たぶん……。
ただ、先々代に縁があった関係で少しだけ助けてくれないかと、たぶん文字通り泣きついたお父様に伯爵が提示したのが私だったのだらしいのだ。
思わず突っ込みたくもなるわよね。どうして私?
控えめと言えば聞こえはいいけど、お母様みたいにすっごい美人というわけでもなく、どちらかと言えば地味で。仕事以外の時は手袋で隠してるけど、手入れが追い付かないから手荒れもしてて。もちろん持参金も目立った才能もない娘よ?
でもお父様は、そんな話にのりのりになってしまった。だって伯爵は、「娘をもらうかわりに男爵家の借金を肩代わりする」っておっしゃったらしいんだもの。
娘一つで借金完済。
ははっ、私の価値って意外と高かったってことかしらね。涙も出やしないわ。
いったいどんな売り込み方をしたのかしら。その才能を仕事で発揮してほしかったわよ。
お兄様は反対してくれたけど、はたから見れば、二十六歳の若き伯爵と十八歳の男爵令嬢。
年のころもちょうどよく、曾祖父同士に縁があった仲。
ならば実は内々で婚約をしてたということにしてもおかしくない。
表向きは、曾祖父同士が約束をしていた結婚だということになってるらしい。アンとしてその噂を聞いたときは、それ嘘だからと叫びたかったわ。
それからはあっという間で、普通は開かれる婚約式もなく、気づけば母の着た花嫁衣裳を着せられて結婚式場に立っていた。
あまりにも一気にことが進むものだから、急に仕事を辞めなきゃいけないと連絡をするのも一苦労だったわよ。
でもそんな質素な式の後、夫になったはずの伯爵とは会っていない。
もちろん初夜さえなかった。
ヴィアンカは名前だけの妻だから。家にいさえすれば自由にしてていい。
ただし――――地下室にだけはいかないこと。
それだけが私に示された条件。外に出られないだけで、ずいぶんと待遇はいいと思う。
でもあれから三か月。
突然伯爵が私の寝所を訪れると、執事から告げられた。多分長い出張が終わったとかそういうことなのだろう。
その時私はようやく気付いたのだ。名前だけとはいえ、妻としての勤めがないという約束はしていないことに。
夫婦なんだから仕方がない。
それでも――――。
落ち着かず手を握ったり開いている私を緊張しているものと思ったのだろう。ジョアンナが安心させるよう、鏡越しに優しく微笑みかけてきた。
「ご心配なさらなくても大丈夫ですわ、奥様。とてもお綺麗です」
ジョアンナは私の母くらいの年齢だけど、若々しくてとても美人だ。そんな美人に褒められて複雑な思いをしなかったわけではないけれど、鏡に映る私は自分ではないように見えた。
妙に女っぽく見えるのはきっと、私が恋を知ってしまったせいだ。
初めての恋はよりにもよって嫁いだ後。私は夫以外の人を愛してしまった。
本当はいけないことだってわかってる。
家のためにも、これから私がしようとしていることはやってはいけないことだということも。
侍女の背中を見送った私は、事前に書いておいた手紙をベッドに置いた。
そしてベッド下にくくりつけて隠していた服を、寝間着の上に急いで身に着ける。どうせ下着同然だし、脱いでいる時間も惜しかったから。
旦那様、ごめんなさい。
借金は必ず返します。
「だから探さないで」
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