三、奈落の底へ

 六月の中旬。

 月曜日の二時限目、一年C組の授業は現国だった。

 先生が教科書を読み上げ、生徒たちはそれを静かに聞いている。

 だが、奉子は違った。

 机の下に隠したスマホをしきりに気にしている。

(来ないなぁ……)

 いつもなら朝一番でくる翼からの呼び出しが今も来ないのだ。

(どうしたんだろう……?)

 こんなことは初めてだったので、やけに気になる。

(やだ……これじゃあ、待ってるみたいじゃない…………)

 そんな自分に気づいて奉子は心の中で自嘲した。


 そのまま昼休みが過ぎ、放課後になっても翼からの連絡は来なかった。

「はぁ~~~」

 なんとなく気落ちしながら、奉子は帰る支度を始めた。

 と、そこへ、

「ホーちゃん」

 渉と聡美がやってきた。

「あたしたち、今日、部活休みなんだけど、どっか遊びに行かない?」

「門限までには帰すから」

 二人のお誘いに、奉子は思案した。

(連絡も来ないし、いいよね……?)

 少し考えて、それから頷いた。

「うん、いいよ」

「じゃあ、早速行こう」

「あっ、ちょっと待って、まだ帰る準備できてない」

「早く、早く」

 急かす、渉と聡美に心の中で冷汗笑いしながら、奉子は机の中の教科書類を学生鞄に突っ込むと席を立った。


 三人がやってきたのは、駅前のカラオケ屋だった。

「あたし、カラオケって初めてだ」

 部屋に入った奉子は、感動したように目を輝かせた。

「……」

「……」

 その言葉に渉と聡美は顔を見合わせた。

「じゃあ、カラオケ店のマナーや機材の使い方を教えてあげる」

 それから奉子にドリンクバーの使い方やタブレットの操作方法を手取り足取り教える。

「じゃあ、あたしから歌おうかな」

 一通り教授を終えてから、渉がトップバッターを買って出た。

「わぁーい!」

「ぱちぱちぱち」

 それを奉子と聡美が盛り上げる。

「♪~~~」

 歌う渉を奉子はキラキラした目で見ていた。

「お粗末様でした」

「わぁー、アユちゃん、歌上手い!」

「そ、そうかな?」

 大袈裟に褒める奉子に渉は頭をかいて照れた。

 その間にも次の曲のイントロが流れ始める。

「あっ、あたしだ」

 聡美がマイクを持って立ち上がった。

「♪~~~」

 渉はタブレットを持って既に次の曲を探し始めていたが、奉子は手拍子しながら聡美の歌に聴き惚れていた。

「さんきゅー」

「わぁー、さとみんも上手い!」

 星のように瞳をキラキラさせながら、奉子は拍手した。

「そーでもないぜ」

 言いながらも、聡美はVサインする。

「じゃあ、次は……」

 そこからは渉と聡美が交互に歌って、奉子は聞き手に回った。

「ん?」

 何曲目かが終わって、渉が奉子が歌ってないのに気づくまで。

「ホーちゃん、歌ってないんじゃない?」

「なにか歌いなよ」

「えっ? あたし?」

 急に自分に振られて、奉子は戸惑った。

「でも、あたし、歌ってあまり知らないから……」

「いいから、いいから」

 躊躇する奉子に渉は半ば強引にタブレットを渡すと曲を選ばせた。

「えーっと……」

 ここで歌わなければ場が盛り下がってしまう。仕方なく奉子はタブレットを慣れない手つきで操作して曲を探し始めた。

 待つこと数分。

「あっ、これなら歌えるかも」

「どれどれ?」

「こ、これは……」

 奉子が選んだのは昭和の演歌だった。渉と聡美は冷汗笑いした。

「じゃあ、それ入力しなよ」

「れっつぷれい」

「うん……」

 少し緊張しながら奉子は曲を選択した。すぐにイントロが流れ始める。

「う、歌うね」

 声が僅かに震えている。それでもマイクを持つと立ち上がって歌い始めた。

「♪~~~」

 奉子の歌を聴きながら、渉は聡美に小声で話しかけた。

「ホーちゃんって、学園デビューなのかな?」

「中学時代はぼっちだって言ってたし、そうかもね」

「♪~~~」

「てか、普通に上手いね」

「そだねー」

「♪え~~~~~~~~~」

 サビの高音も見事に声を出して奉子が曲を歌い終えると、渉と聡美は拍手喝采で褒め称えた。

「ホーちゃんも、上手いじゃん」

「ぐーっと」

「えーっと、そうかな?」

 全力で照れながら、奉子は席に着くとマイクをテーブルの上に置いた。

「さて、次は何歌おうかな」

「あっ、あたしもう入れちゃった」

「次はさとみんの番ね」

 結局、奉子が歌ったのはその一曲だけだった。あとは渉と聡美が歌い、そうこしてるうちに時間になった。

「いやー、歌った、歌った」

「喉ガラガラ」

 カラオケ屋から出て、渉はグッと伸びをして、聡美は喉を押さえた。

「うふふ……」

 そんな二人を奉子は楽しそうに見ている。

「そう言えば、ホーちゃん、1曲しか歌わなかったけど、よかったの?」

 と、その支線に気づいた聡美が聞いてきた。

「うん……あたし、歌ってあまり知らないし……」

 それに対して奉子は、同じことを繰り返した。

「でも、二人の歌聴いてるだけで充分、楽しかったよ」

 そして、そう付け加える。

 その言葉を聞いた渉と聡美は、またもや顔を見合わせた。

 それから、

「だったら、覚えなよ」

 と、渉が言った。

「そしたら、また行こう」

 聡美もそれを追随する。

 その優しさに奉子は嬉しそうに笑った。

「うん!」


 それから四日が過ぎた金曜日の夜。

(今日も呼び出し来なかったなぁ)

 自室で布団に入った奉子はボンヤリとそんなことを考えていた。

(もう飽きちゃったのかな?)

 それは奉子にとっては良いことのはずだった。だが、心はそう思ってくれない。

 気持ちがモヤッとする。

 そんな自分に奉子は戸惑った。

 しかも問題はそれだけでは無い。

 日を重ねるごとに、身体の熱りがどんどん強くなっているのだ。

 ずっと我慢していたが、そろそろ限界だった。

 いけないことだと思いながらも、奉子は翼との情事を思い出しながら、胸に手を伸ばした。


   ♢♦♢♦♢♦


「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」

 布団の上で浴衣の裾を乱した奉子は、荒い息のまま放心していた。

(ひとりエッチ……しちゃった…………)

 そういうのがあるのは知っていたが、実際にやるのは初めてだった。なんとも言えない罪悪感にも襲われ、奉子は自己嫌悪した。

(でも、なんで…………?)

 しかも、肝心の身体の熱りは収まるどころかますます強くなっていた。

 奉子は思った。

(これじゃあ、足りない…………)


 翌日の土曜日。

 公立の学園は休みだが、五十公野学園では半日だけ授業をしている。

 いつも通りの朝。奉子の席に集まった渉と聡美は、昨日のテレビのこと、帰りに見た面白い光景シチュエーション、今日の授業のことなどを駄弁っていた。

「そう言えばさぁ」

 フッと思い出したように渉が言った。

「例のクズ、もう一週間も学校に来てないらしいよ」

「えっ!? そうなの!?」

 それを聞いた奉子は思わず食いついてしまった。そして、すぐに失敗したと思った。

「噂だと、他校の女子を自宅に連れ込んで酒池肉林を繰り返してるらしい」

 だが、そんな奉子の反応リアクションは気にもとめず、渉は話を続けた。

「ほーっ、五十公野学園うちだと相手にされないから、とうとう他校の女子に手を出したか」

 聡美がいつものように冷静に状況分析する。

「……」

 奉子は黙ってそれを聞いていた。けれども心の中は穏やかでなかった。

 モヤッとする。

 昨日考えていたことが現実になったかもしれないのだ。

 と、そこでガラッと教室の前扉が開いた。

 担任の先生が来たのだ。

 それぞれグループで集まっていた生徒たちが一斉に散って、自分の席へと向かう。

「また、あとでね」

「またな」

 渉と聡美も自分の席へと戻る。奉子はそれを小さく手を振って見送った。

 朝のSHRショート・ホーム・ルームが始まった。

 担任が今日予定や連絡事項を話す。

 奉子はそれを上の空で聞きながら、さっきの話を思い出していた。

(やっぱり……もう飽きちゃったのかな?)

 良いこと、のハズだった。

 でも、心のモヤモヤは消えてくれない。

 しばらく思案してから、奉子は決意した。


 放課後の保健室。

 奉子は一週間ぶりにその扉を開いた。

「あら?」

 そこには美砂が机の前で書類仕事をしていた。

「翼は来てないわよ」

 書類から目を離さず言った。

「知ってます」

 奉子は少し緊張しながら応える。

 それから、

「先生に教えて欲しいことがあるんです」

「わたしに?」

 今度は書類から目を離して、美砂は奉子の顔を見た。

「なにかしら?」

「翼君の家を教えて欲しいんです」

「翼の家?」

 奉子は揺らぎそうになる視線を必死になって美砂に向けながら話した。

「確かめたいことがあるんです」

 その真剣さに美砂は、書類を机の上に置くと椅子を回転させて奉子の方を向いた。

「別に構わないけど……と言うか教えるまでもないけどね」

 美砂の答えに奉子はホッとした。

(これは……翼君が本当にあたしを必要としてないか確かめるため……)

 そう自分に言い聞かせながら。


 翼の家は、美砂の言葉通り、教えるまでもない場所にあった。

 裏門の目の前。そこが翼の家だった。

 奉子の家ほどではないが、かなりの豪邸で周りの家から頭一つ抜けていた。

「…………」

 門の前に立った奉子はかなり緊張していた。

 しばらく躊躇していたが、意を決してインターホンを押した。

 ピンポーン。

 少し間が空いて、反応があった。

「ホー子か……」

 翼だ。

「今、門開けるから待ってろ」

 すぐに門が自動で開く。それを待って、奉子は門の中へと入った。

 その途中で玄関の扉が開いた。

 中から翼が出てくる。

「えっ!?」

 その顔を見て奉子はびっくりした。顔中絆創膏だらけだったからだ。

「どうしたの!? その顔!?」

 思わず駆け寄って理由を聞く。

「まぁ……ちょっといろいろあってな」

 それに対して翼は頭をかいて言葉を濁した。

「とりあえず、上がれ」

「うん」

 翼に招き入れられ、奉子は家の中へと入った。

 そのまま、翼の部屋へと案内される。

「おじゃまします……」

 男の子の部屋に入るのは、家の者以外で初めてだったので、思わず部屋の周りをキョロキョロと見回してしまう。

 翼の部屋は男子の部屋らしく、白い壁紙にブルーのカーテン。本棚代わりのメタルラックに囲まれた机と椅子。それになぜかダブルベッドが窓際に置かれていた。

「でっ? なにしに来たんだ?」

 椅子に座った翼は、奉子を立たせたまま、訝しげに聞いた。

「えーっと……ね」

 少し迷ってから、奉子は噂のことを翼に話した。

「そんなことになってたのか……」

 翼は露骨に顔をしかめた。

「学校を休んでたのは、顔の傷のせいだ」

 それから面倒くさそうに言った。

「腫れも引いたから、来週には学校に行けるぜ」

「じゃあ、他のとはしてないんだね」

 それを聞いた奉子はホッとした。

 だが、すぐに、

(あたし、なんでホッとしてるんだろう……?)

 と、自問した。

「そういうわけだから」

 そんな奉子に翼は直球を投げてきた

「やらせろ」

「えーっ」

 口ではそう言ったが、心の中ではウキウキが止まらなかった。

「しょうがないなぁ」

 奉子はニット製のベストの裾に手をかけた。


   ♢♦♢♦♢♦


「ほら、戻ってこい」

 ベッドの上で放心している奉子の頬を翼はペチペチと叩いた。

「んっ……んんんっ…………」

 しばらくそれが続いて、奉子はようやく我に返った。

「なんか……途中から訳わかんなくなっちゃった」

 戸惑う奉子に翼は言った。

「ち○ぽ、気持ちいい、とか言ってたぜ」

「嘘!?」

 顔を真っ赤にした奉子は、思わず頬を両手で押さえた。

「いやー、出した出した」

 ベッド脇にあるテッシュを取って股間を拭きながら、翼は満足そうに言った。

「あたしも満足かも……」

 まだ半分ボーッとした頭で、奉子は同意した。

 それを聞いた翼はニヤリと笑って、

「エロいな」

 からかうように言った。

「あたしをエッチな女の子にしたのは君なんだからね」

「言ったろう? 才能あるって」

 むくれる奉子に、翼はケタケタと笑った。

「もうっ!」

 知らない、とばかりに奉子はそっぽを向いた。


 翌週。

 予告通り翼は学園に復帰した。

『放課後、保健室に来い』

 朝一番のメッセでそれを知った奉子は、すかさず返信をする。

 渉は朝練で始業ギリギリでくるはずだし、聡美は深夜アニメを見ていて寝不足とかで自分の席で寝ている。誰にもやりとりを見られる心配は無い。

『良いけど、場所は翼君の家じゃ駄目?』

 すぐに既読がついた。

 ブルッ。

『なんでだ?』

『保健室にずっと入り浸ってると、他の生徒に不審に思われるから』

 これは前から気になってたことだった。

『翼君とのことは絶対秘密にしたいから』

 これまたすぐに既読がついた。

 ブルッ。

『いいぜ』

 翼はすぐに返信してきた。

 懸念が一つ解消されて、奉子はホッとした。


 放課後、奉子は再び翼の家の前にいた。

 インターホンを押すと翼が出てすぐに門を開けてくれる。

 そのまま門をくぐり、玄関へと入った。

 待っていた翼について行き、部屋まで来る。

「ほら、これ」

 そこで翼は一枚のカードを奉子に投げた。

 不意を突かれて、慌ててカードを受け止める。

「これは……?」

「家にだ。これからは勝手に入っていいから」

「うん、わかった」

 大切な物だとわかって、奉子はポケットから財布を取り出すとその中にしまった。

「でっ? 誰にも見られてないよな?」

「うん……大丈夫だと思う」

 元々、裏門を使う生徒はほとんどいない。ただ、ここが翼の家だと知ってる生徒は多いので、気を遣うに越したことはないだろう。

「ところで家の人は?」

 制服を脱ぎながら、奉子はもう一つの懸念材料を聞いてみた。

「親父は仕事。お袋は小さい頃に死んでいねぇ」

 同じく制服を脱ぎ始めた翼は平然と言った。

 奉子はちょっと気まずさ感じた。それから、

「じゃあ、家と同じだね」

 と、アハッと笑った。

「そっちも母親いねぇーのか」

 全裸になった翼は、少し神妙そうな顔をした。

 制服を脱ぎ終わり、奉子はベッドの上に横たわる。

 翼はすぐにいつものニヤけ顔に戻ると、その上に覆い被さった。


   ♢♦♢♦♢♦


 情事が終わり、奉子はショーツをはいていた。

 既にボクサーパンツをはいた翼はベッドの上であぐらをかいてそれを見ていた。

「今更だけどさ」

 と、翼はブラを拾い上げる奉子に聞いた。

「急に帰りが遅くなったこと、親にはなんて言ってるんだ?」

「本当に今更だね」

 ブラの肩紐に腕を通しながら、奉子は冷汗笑いをした。

「部活に入ったって、言ってるよ」

 身体を前屈させてカップに胸を納めながら、奉子は答えた。

「ちなみに何部だ?」

「手芸部」

 背中に手を回してブラのフックを止めながら、奉子は言った。

「じゃあ、たまには作品持って帰らないと行けないんじゃないか?」

 ブラをつけ終わり、今度はキャミソールを拾い上げた奉子に、翼は再び聞いた。

「うん……友達が手芸部だから、それもらって持って帰ってる」

「悪いだ」

 その答えに翼は人の悪い笑みを浮かべた。

「誰のせい?」

 奉子はムッとしたが、本気では怒っていなかった。

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