こら! 無視するな!

 あれからの毎日は地獄のようだった。あまり説明はいらない気がする。誰も俺の友達にはなってくれなかったし、無論彼女なんて夢物語だ。


 今鷹は時折俺を小馬鹿にしたり、先生や女子のいないところでは露骨に罵声を浴びせてきたり、子分みたいな取り巻きを使って嫌がらせをしてきたりもした。


 腹が立ってしょうがなかったけれど、我慢するしかなかったと思う。また騒いだら高校にはいられなくなる可能性がある。だから我慢した。耐えて耐えて、泣きたくなる気持ちを抑えて毎日を過ごした。


 そんな日々の中、そういえば木闇はどうなったのかと、気になることは多々あった。だが時たま廊下で見つけた彼女は、中学時代のような明るさとは正反対の、暗い空気を纏っていた。近寄り難い雰囲気というか、みんなが避けるようになっている気がする。


 遠目から見ていただけだし、ただの思い過ごしかもしれない。でも、中学時代の木闇なら、いつも誰かと一緒だったと思う。そういう光景を高校で一度も目にしないのは、予想が当たっているのかもしれないと、心の奥がどんよりと重くなってしまう。


 もしかして俺のせいか。いや、多分そうだろうとか悶々と頭の中で繰り返された後悔は、今や手に負えないくらい膨れ上がり、以前の情熱とかあらゆるものが削ぎ落ちていった。ただただ、木闇に申し訳ないという気持ちがまとわりついて離れない。


 そして長い長い一年が経ち、高校二年生になった。実はうちの高校では二年生になるとクラス替えがある。今鷹からの嫌がらせからは解放されるみたいだが、気持ちはまだ陰鬱なままだ。


 きっと心が疲弊していたんじゃないかな。新しいクラスメイトとか、授業なんてどうでもいい。ただ、自分が初日にどの机に座ってさえいればいいか。それだけを覚えていた。


「はあぁ……ついてねえなぁ」


 どうしてこうなっちゃったんだ。一年前の俺が取った行動は、やっぱりどう考えても間違いだったのだろう。


 もうすぐ二年生になって最初のHRが始まる時間だ。どんどん入ってくる新しいクラスメイト達。知っている顔がほとんどだけど、話したことはなかった。


 とりあえず、HR始まるまでスマホでゲームでもするかな。そう思っていた時だった。


 小さな影が、俺の視界を暗くして、妙に長い間止まっている。なんだろうと思い、ただ普通に顔を上げた。


「……あ」


 思わず声が漏れてしまう。え、え。ちょっと待って、待ってくれ。突然巻き起こった事態に頭が追いつかないんですが。


 どうして、ここに木闇楓夏がいるんだ!?


 そんな驚愕に包まれて固まる俺と、無表情でじっと見つめてくる彼女。しかし、特に何も話しかけてくることはなく、静かにその場を離れ——るわけではなく隣の席に腰を下ろした。


 な、何だと? もしかして——俺は咄嗟に鞄の中に適当に放り込んでおいた席順の紙を取り出した。隣の席っていうか、自分以外なんも気にしてなかったが、まさか。


 席表に書かれている俺の席は、一番後ろの窓側から二番目。そして隣の窓際席は……やっぱり木闇だった。


 いや、まあ確認していなかった俺が悪いんだけど。でも、ちょっとこれはしんどいよ。


 神様、まさかわたくしめをこの学校に入学させたのは、このような地獄を味わわせるためですか?


 どうしよう。俺は焦った。HRが始まってからも、正面の黒板付近を眺めているように見せていたが、意識は木闇のクールビューティーな横顔に全集中してしまっている。


 正直めちゃくちゃ気まずい。彼女からすれば、ただでさえ悲惨になった告白をめちゃくちゃに掻き回して、高校生活ごと狂わせてしまった張本人が隣にいるということだ。


 普通だったらキレて殴りかかってきてもおかしくない。怖い、助けてください神様。どうしてこんな鬼畜な所業をなさるのですか。俺は頭のてっぺんから爪先までドSでできているような神様を信仰した覚えはありません。


 その日は午前中で終了だったからまだ良かったが、はっきり言って気が気ではなかったことは確かだ。当然と言えば当然だが、俺達は一言も会話をしていない。


 ただ、そそくさと帰ろうとした俺に、木闇が何かを言いかけようとした。しかし、気づかないふりをしてその日は逃げたんだ。


 ◇


 始業式が終わった次の日。とうとう高校二年生の日常が始まってしまった。


 これはまずい。だって俺の隣には、戦犯と化した男を切り殺しかねないジャンヌ・ダルクがいる。というのは少々大袈裟に聞こえるのかもしれないが、隣に座ってみれば分かるって。圧がハンパないから。別に睨んでくるとか、そういうわけじゃないが。


 しかし、脅威は木闇だけではない。実は授業の内容について行くことが困難になっていたんだ。一年という時が流れ、県でもかなりいい線いってるであろうウチの高校は、信じ難いほど勉強のペースを上げてくる。


 正直にいって、中学校の頃必死になっただけの凡人がついてこれるレベルではない。物理にしろ数学にしろ、化学基礎にしろ論理にしろ、どうしてこうも難しいんでしょうか。先生、俺はもう限界に近づいてます。いや、もうレッドゾーンを超えてます、いろんな意味で。


 しかし、隣の席に座る絶対零度の美少女はあっさりとどんな科目もこなしてみせるから、やっぱり凄い。暗い雰囲気にはなってしまったけれど、その知性は決して錆ついていないばかりか、今も成長を続けているんだろう。


 ふと、そんなことを考えていたわけだけど、時間が経つのはわりと早い。体育とか物理とかこなしているうちに、あっという間に放課後になっていた。実はふとした好奇心から写真部に入っていた俺だが、今日は部活の日ではなかった。


 みんなが楽しそうにわいわいと話をしながら教室を出て行くなか、重い腰を上げて寂しく去る……そんな時のことだ。


「帰るのか」


 今日は確かバイトも休みだったよな。しょうがないから家に帰ってtubeでも観るか。


「お、おいっ。もう帰るのか」


 どうしたんだろ。誰か呼ばれてるみたいだ。でも俺には関係ない——、


「こら! 無視するな!」

「うぉ!?」


 突然バン! と背中を叩かれたものだから、衝撃で背筋が伸び上がってしまう。驚いて振り向いた俺は、更なるショックに目を見張り、口は半開きになり、体は時間を止められた。


「なにをぼーっとしているんだ。もう帰るのかと、そう聞いたんだ」

「え!? あ、は、はい。帰り、ます」

「……なんで敬語? その、私も帰ろうと思ってるんだ」


 えー。まさか木闇に話しかけられるなんて思ってもみなかった。というか、何でだ? どうして急に話しかけてくるんだ。これは何かの罠か。俺はまさか、この後突然亡き者にされるんじゃなかろうか。


 いや、その前にちゃんと応対しなきゃ。今度こそ殺されかねん。


「う、うん。ごめん。あんまり人と会話をしてない日々を過ごしてたんだ。そうか、帰るんだな」


 ここでちゃんと「バイバイ」とか言えないあたり、俺のコミュ障っぷりが伝わってくるというもの。でも彼女の深い恨みを考えれば、対応がしどろもどろになっちゃうのも許してほしい。


 というわけでバイバイ木闇、また明日。俺はくるりと振り返り、廊下を出て歩き出した。


「私は北町のほうなんだけど、君の家はどのあたりなんだ」

「ああ、俺も北町だよ。だって、北中だったし」

「北中? 私もだ。同じ中学だったんだな」

「うん。そうだな。うん……うん?」


 あれ……えええ。おっかしいなぁ。どうして俺達は一緒に廊下を歩いてるんだ。何が起こっているか理解できないまま下駄箱までやってきて、それからしばらく。校門を出た辺りで、いよいよ異質な状況になったことを実感した。


 なぜかは知らないが、ずっと二人で特に中身のない雑談を繰り返していた。そして気がつけば駅の改札へ。元々中学が一緒だった俺たちは、住んでいるところも近いわけで。やってきた電車の中でさえ、この微妙な空気は変わらない。


「へ、へええ。そうか。木闇さんは、今は美術部なんだ」

「うん。絵を描くのは楽しいぞ。中学の頃はテニスをしていたけど、最近はあまりやりたい気持ちがないんだ。ユニフォームもひらひらしてて苦手だったし」


 ひらひらしてるってスカートのことかな。それがいいんじゃないか! と声に出しかけたが必死に踏みとどまった。下手な発言をすれば殺されかねない気がする。


 俺は曖昧に笑うにとどめたが、きっと様子がおかしかったのは伝わったのかも。木闇は少しだけ眉をひそめて、


「なあ、話は変わるが……。君はあれから、どうしていたんだ?」


 という質問を投げかけられた。


 ざっくりしているようで、何となくなら答えられるような聞き方だった。あれから、というのがいつのことかは分かっている。一年前のことしかない。


 とうとうこの話題に入ってしまった。俺は競り上がってくる緊張を隠しきれず、全身が力んでしまっていた。電車の外から見えるビルだらけの街並みが、いつにも増して冷たく感じる。


「そうだな。うーんと、なんていうか。俺としてはその、大変だったような、そうでもなかったような。あ、いやでもクラスでもなかなか居場所がないっていうか」


 しどろもどろになってしまった男の顔を、正面から真っ直ぐに見つめてくる木闇。しかし、だからこそ気まずいし、どう答えていいか分からなくて、口の中はカラカラだった。


 もし、下手な答え方をしてしまったら?

 きっと彼女は今まで溜まりに溜まった怒りを、拳の力に変えて打ち込んでくる可能性もある。


 いや、それもいいかもしれない。俺は彼女の一年を、きっと台無しにしたのだ。だったら殴られるくらいされてもしょうがない。でも怖い。この空気感、なんていうかもう……人間じゃなくて、超自然的なパワーを感じてしまうくらいだ。


「居場所が……なくなったのか……」

「あ、ああ」


 ん? どうも俺が想像していた反応とは違うぞ。なんていうか、まるで木闇が落ち込んでいるような。電車が北町駅に止まると、すっと立ち上がった彼女がぼそりと呟く。


「えっと。ちょっと用事ができた。また明日」

「え? あ、ああ! じゃあまた」


 俯いていたのでその表情はわからなかったが、俺は地雷を踏んで殺されることはなかったようだと安心していた。

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