好きだったの

 目前で繰り広げられた拷問タイムに直面してから、はや一週間が過ぎた。クラスの中では友達のグループが概ね出来上がっていたし、徐々にカースト制度の上から下までがうっすら形を帯びてきた。


 俺達のクラス1ーAのカーストトップは間違いなく今鷹になりそうだ。もうそれは誰もが疑いようのない事実に思えた。じゃあこの大河はといえば、もうピラミッドを下から支える存在になりかけている。


 とはいえ、俺はそれでも善戦していた。クラスのみんなにも愛想良く振る舞っていたし、なんとか毎日挨拶くらいはやっていたんだ。超陰キャの痛々しかった頃を考えれば、これでも大きな進化だと思ってほしい。


 一週間が経って印象深かったことといえばもう一つ。やはり勉強のレベルが半端じゃなく高いのだ。数学も物理も聞いたこともない言語で説明されているような気持ちになってくる。流石は県でも有数の進学校。やばいかも、ついていけるかマジで不安になってきた。


 でも友達と彼女を作りたい願望は一丁前にあった俺は、どうにかして食らいつこうと心の中で燃えていた。六時間目の授業が終わって廃人になりかけた頃、ぼーっとした頭でHRを終えた。気づけば一人で。


 まずいまずい。こんなんじゃやっていけないぞ。焦りを感じつつも教室を後にすると、一階の窓から校庭が遠巻きに見えた。そういえば入る部活を決めなくちゃいけないんだった。うちの高校には帰宅部という概念は決して許されない。


 やっぱ中学からやっていた文芸部にしようか。でも、ボードゲーム部とかでもいいかも。いや、ここは思いきって野球とかサッカーとか、バスケとか挑戦してみてもいいかもしれない。


 まだまだ心が燃えていた俺は、無謀にも運動部すら視野に入れていたんだ。でも、体育会系の人間関係って大変そうだなと、頭の中で思考が堂々巡りしていた。


 なんだかんだ今後のことを考えつつ下駄箱まで到着した時、俺はふと忘れ物をしていたことに気づく。


「やっベー。教科書ないじゃん」


 入学して一週間と経たずに、かなりの手練れであることが判明した宿題の山。でもまだ戦意は挫かれてない。せっせと一階の教室に舞い戻ってきた俺だったのだが。


 教室の扉までやってきて、ふと手が止まる。中から人の話し声が聞こえる。しかも、この声は……。


 俺は思わず息を呑んだ。まるで鈴の音が喋っているみたいに綺麗な声色は、中学三年間憧れ続けたあの人で間違いない。どうしてここに彼女が?


 だが、同時にもう一つ耳に入ってくる、どっかのアイドルみたいなイケメンボイスが聞こえた時、自然と答えは出ていた。


 そりゃそうだ。幼馴染なんだから、こうやって教室に遊びに来たりもするんだろうよ。ああ畜生。なんで新生活が始まってるのにこんな思いしなくちゃいけないんだよ。


 悔しいー、と歯噛みしそうになったんだが、ここで微妙な違和感を覚える。どうも木闇の声は、いつも遠巻きに聞いていた陽気な声ではない。なにか神妙というか、真剣な話し合いでもしているみたいだった。


 俺がしていることは完全な盗み聞きだ。良くないのは百も承知だった。でも気になって堪らなくて……扉に耳を当ててしまった。


『今日の楓夏。なんか変じゃね? そういえばさー俺、今日クラスで、』

『ま、待った。その前に、私の話を聞いてほしい』


 なにか動揺しているんだろうか。今日の木闇は精彩を欠いた喋り方をしている。


『なんだよ改まって。つうか、それここで話さなくちゃダメ?』

『う、うん。人がいない所が、なかなか見つからなくてな』


 人がいない所じゃなきゃできない話ってことか。強烈な好奇心と緊張が俺の脳内を支配して、自然と胸の鼓動が高まるのを感じていた。


『……今日俺、けっこう忙しいんだよね。まあいいか、聞くだけ聞くわ』

『ごめん。わがまま言っちゃって。あの……』


 気のせいだろうか。言葉に詰まっているか細い声が、震えているように感じるのは。


『周は、その。私のこと……どう思ってのかなって、思って』


 ちょっと待ってくれよ。俺はラノベの鈍感な主人公では決してない。だから、この漫画とかでよく見る展開のいく末が読めてきた。


『ん? あー、まあ。あれだよ、一々確認しなくても良い仲ってあるじゃん。そんな感じだよ。俺とお前』


 どんな感じだよそれ。俺の理解を超えた世界を翻訳してくれる文明の利器が欲しい。まるで宇宙人の声がラジオから聞こえたみたいだ。


『つまり……好きって、こと?』


 早く抜け出せ俺の足。どうしてここで金縛りにあっているんだよ。聴きたくないよ。この先が知りたくないのに、どうして動けないんだ。この扉には接着剤でもついていたっていうのか。


『あー、あー! そうだな。だってさ、お前全然気にしなくていいもんな。普通の女子と違って、特に細かいことに文句つけないだろ』

『いい友達って、ことか。そ、そうか……あ、あはは』

『そうそう。これからも仲良くやろーぜ』


 よし、いいぞいいぞ。そのまま終われ。この後、光の速さで俺は階段まで駆け逃げて、決定的な瞬間はなかったと思い込める。もしこのまま会話が進んだら俺の憧れが、こんなリア充獣野郎と正式にお付き合いするというナイトメアに直面しちゃうよ。頼む! そんな真実を聞かせないでくれ。


 だが、そういう時に限って延長戦がある。


『……』

『どうしたしけた顔して。なんかやっぱ変じゃね。俺そろそろ友達と遊びに行く用事あるから、』

『ま、待って。ごめん、その……ずっと、伝えたかったことがあったっていうか、その』


 女子が男子に、それも超イケメンの男に伝えたい気持ちがあると言えば。俺はその先を考えるまでもなく、絶望に満ちた回答が脳内テスト用紙に浮かび上がっていた。


『私ね。実は、ずっと前から』


 誓っていうが、この時俺は静かにその場を立ち去ろうとした。しかしなぜか足が動かなかったんだ。


『周のこと、好きだったの』


 ———神様、もしかしてこのセリフを聞かせるために、あなたは分不相応なわたくしめをこの高校に入れたのですか?


 卑屈の極みになりかける俺。だってもうしょうがないじゃん。この後の返答なんて決まってる。


『え、お、おいおい……まじかよ』


 マジだよ。俺も聞いてるからお前の幻聴という線はないんだよ。そしてまた何度か言葉のじゃれあいみたいなことするんだ。そして、最後の最後で『実は俺も……お前のこと好きだったんだ』というやりとりへと収束するんだ。そうに決まってる。


 ああ、なんだろう。この苦しみは一体。っていうか、そろそろ本当に帰ろう。勢い余って二人の唇と唇が急接近したらどうしよう。なんか、部活も勉強も急にやる気なくなってきたわ。


 しかし、それでも未練たらしい俺は二人の会話から耳を離せなかった。しばらくの間、予想していた通りの『え? いや、だってそんな、急に言われても』というイケメンと、恥ずかしそうに頬を染めながら(顔見てないけど、きっとそうなってたという予想)、遠回しなんだかストレートなんだか分からない応答を繰り返す女子の微笑ましくも美しい応酬が続く。


 微かに残っていた俺のHPは、もうほぼゼロになろうとしている。そしてしばらくのラブキャッチボールが続いた後、とうとう今鷹が静かに深呼吸をした。


 ここまできたら、もう致し方ない。最初から最後……恐らく卒業まで外野であろう俺も覚悟を決めよう。奴らの完全無欠の恋愛、それはこの一言から——、


『分かった、分かったよ。じゃあもう言うわ。お前さ、うざいって自覚ある?』


 始まった————………あ?


『……え』


 それは木闇楓夏が初めて漏らした、子犬のような声だったと思う。第三者である俺ですらもこの時、何を喋ったのか理解できなかった。


 今、うざいって言ったのか?


『まあ、薄々分かってたけど。お前ちょっとクールっぽい感じにしてるけど、分かりやすいもんな。自分は友達だから、なんて言っといてよ。ちょっと俺が他の女と仲良くすると顔に出てるし』


 さっきまでの明るい装いを脱ぎ捨て、まるで嫌いな奴と喋っているような感じだ。俺は背中に冷たいものを感じながら、より嫌な予感が膨らんでいった。


 尋常ではなく空気が重くなり、とうとう聞くだけでは我慢できなくなった俺は、静かにそっと、本当に微かに扉を引いた。


 するとあろうことか、教壇側の窓際に二人はいた。俺の席のすぐ近くだ。


 微かな隙間から俺が覗いているなんて、二人は気づきもしない。睨みつける今鷹と、ただ呆然と立ち尽くしている木闇。二人にさっきまでの明るいムードなんて欠片も残ってない。


「気づいてたんだ」

「ああ、気づいてた。昔から一緒に遊んだこととか、そんなことは俺にとっちゃどうでもいいけどな。なあ、お前のおかげで中学の頃、すっげえ可愛い子と親密になれるチャンスを逃したことがあったんだ。俺としちゃあ、そっちのほうがずっと記憶に残ってるぜ」

「え。い、いつ」

「ああ? 覚えてないのかよ。まあいいや。まずお前ってさぁ、……重い。他の女子にも言ったけどよ、重すぎて疲れるって。何が幼馴染だよ。足枷だろうが」


 俺は今鷹が何を怒っているのか理解できない。あんな魅力的な幼馴染のどこが許せないのか。足枷って表現は理解に苦しむし、なんかもう……分からない。分からないよ。


「ちょっと話は変わるけどさ、隣のクラスの葵って奴。めっちゃ可愛くね? それからうちのクラスの玲奈。あとDクラスの美月とか」

「な、何言ってんの」


 なぜ急に今鷹は他の女子の話をするんだろう。いまいち考えが読めない。氷みたいに冷たくて、薄情な横顔に不快なものを感じた。


 反対に木闇からは必死さが溢れていて、まるでガラスのように割れそうな繊細さがあった。ボーイッシュな感じだけど、もしかしたら彼女は、俺が思うよりずっと傷つきやすいのかもしれない。


「答えはノーだ。以上」

「……駄目、なんだ」

「ああ、駄目だ」

「私、そんなにうざかったのかな」


 諦めきれない彼女の心が、納得のいく答えを探している。遠目から見てもショックを受けているのが伝わってきて、俺は少しの間床に視線を落としていた。こんなに悲しい気持ちになってしまうのはどうしてだ。


 彼女があのイケメンから交際を断られたんだ。それは俺にとって何も悪いことじゃないはずなのに。そして微かに湧き上がってくる。マグマのようなこの感情は一体なんなんだろうか。


「うざいっていうか。あーめんどくせえなぁ。じゃあはっきり言ってやろうか。お前を異性として、好きだと思ったことは一度もない」

「…………え」


 俺は静かに顔をあげ、金髪の色男の横顔を呆然と見つめていた。


「葵も玲奈も美月も可愛いじゃん。中学の頃付き合えなかった梨花も良かったなぁ。でも、お前は女として見れないんだよ」


 木闇が少しだけ、よろけるように後ずさった。茶色くて大きな瞳に涙が浮かんでいるのが、扉の外からでも分かる。


「どうしてもランクが落ちるっていうか。なあ、自分で分かってるだろ? あと重いからマジ無理」

「あ……あ……」


 木闇はとうとう泣き出した。俺は黙ってその姿を見つめるしかできない。その筈だったのに。


 どうしてこの右手が扉を掴んでいる。握りしめた左手の震えが止まらない。俺は木闇本人じゃない。なのに、この湧き上がってくる怒りはなんなのか。今鷹という男は、もうイケメンの面には見えなくなっていた。


「何黙ってんだよ自分から告っといて。じゃあそういうわけだから。ああそうそう。この際だから言っておくけど、もう俺の邪魔を」


 ガララ、と勢いよく俺は教室の扉を引いてしまった。この時の空気は、平常時だったら到底耐えられなかっただろう。しかしあの時、俺は本当にどうかしていた。

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