第9話 平野衆議院議員 事務所

 7月下旬になり、地獄のような暑さが連日続いている。


 防災フェスタまで一月余り、葉室は平野議員の地元事務所へ打ち合わせに訪れた。議員本人は居ないが、第一秘書が数日事務所に戻っているというのだ。


 住宅街の一角にあるコインパーキングに車を停める。

 車から降りると、日差しが突き刺さると同時にむっと熱い空気がまとわりついた。手で日除けを作りながら空を眺めれば、真夏の太陽が青い空に浮かんでいるものの、快晴ではなく、雲が斑に空を流れている。


 葉室は辺りを見て誰も居ないことを確認すると、臭気探知の魔法を発動した。

 かすかに漂う雨の匂い。これは夜には降り出すぞ……そうなる前に帰れればいいけどとひとりごちた。



 臭気探知は、通常人間には探知できないわずかな臭いまでを探知し、それを視覚化し記憶しやすくする魔法だ。視覚化の内容は人によって異なるが、色で覚える場合もあれば数値化する場合もある。葉室は前者で、匂いが色で見えていた。


 ただ、使い道に乏しく、マ学技士の中でも臭気探知を習得する者は少ない。


 葉室は仕事柄、災害現場に赴くことが多く、また、被災者と話すことも多い。

 被災者はさらなる災害が起きることに怯えている。

 

 災害が起きる前には、予兆と言える様々な臭いが存在するのだ。

 雨の匂い、土の匂い、汚泥の匂い……それらを嗅ぎわけ、災害の発生を事前に少しでも掴めておければ、と思い習得したものだった。


 ある意味では、他人とは少し異なる葉室の特技とも言えた。



 碁盤の目状になっている開発団地は、どの通りに立っても同じ景色に見え、方向感を失わせる。駐車場を出て左右を見た後に、再度事務所の場所を確認しようとスマホを開いた時だった。

「あ、どうも、こんにちは……」と控えめな挨拶の声を背中からかけられた。声の方を振り向くと、水色のポロシャツを着た女性が立っている。


「あ、どうも、遠藤さん」葉室もしどろもどろに返事を返す。まさかこんなところで会えるとは思っていなかったのだ。


「葉室さん、お仕事ですか?」

 可愛らしい、鈴のような声だと思ったが、何を気持ち悪いこと考えてんだ俺は、と即座に反省する。

「そうなんです、そこの、平野議員の事務所に、打ち合わせに、でも場所を確認しようと思って、」

「私、今からそこの前を通りますから、よろしければ案内しますよ」

「え、あ、ありがとうございます」


 肩を並べて歩き出す。遠藤はポロシャツにジャージのズボンを履いていた。


「お仕事着ですか?」

「はい、訪問介護ヘルパーなんです。今お客様のお家に向かっていたところで」

「そうなんですね」

 葉室はそわそわと会話のネタを探す。


「あ、自主防災組織の方は、お父様は何かおっしゃっていましたか?」

「ええ、自治会の役員さんたちに話したらみんな乗り気みたいで。近いうちにまたお話しを伺いに行くかもしれません」

「どうぞいつでもお越しくださいとお伝えください」

「ありがとうございます」


 当たり障りのない会話だが、並んで歩いているだけでどこかウキウキする気持ちを抑えられない。


 ほんの数分歩いただけで、目的地の看板が見えてきた。爽やかな笑顔を浮かべた平野議員がプリントされた看板の下に、神経質そうな黒縁メガネの男が立っている。


「あれ、三浦くん?」

 葉室が声をかけると、三浦もこちらを認め、おぉと驚いたような声をあげた。

「葉室、どうした?」

「俺は今月末の防災フェスタの打ち合わせにさ。三浦くんは?」

「取材だよ、取材。巷では魔法使い規制法と呼ばれてる例の法案について」

「議員本人はいないよ?」

「知ってるさ、でも第一秘書が帰ってるらしいからな、取材自体はメールでやり取りすんだけど、一度くらい事務所に挨拶きとくかと思って」



 三浦がそこまで言葉を紡いだ時だった。

 ふいに、ガス爆発の直前のような気色の悪い空気の流動があった。キン、と耳鳴りがして、思わず眉をしかめた瞬間だった。


 平野議員事務所を中心にして、周囲の家々のガラス窓が同時に割れて飛び散った。

 何重にも重なる破裂音。

 走行していた車が急ブレーキを踏む。窓の割れは伝播するように広がっていく。停車した車のウィンドウも例外ではない。


 あちらこちらの家から、泣き声や叫び声が聞こえる。


 平野議員事務所の前で、3人は呆然と立ち尽くしていた。事務所の窓が破裂する瞬間、葉室はとっさに魔法を発動し、3人の周囲に空気の膜を作り、ガラスの破片が直撃するのを防いだのだ。


「……助かったよ葉室。ありがとう」いまだ放心状態の三浦が、かろうじて礼を述べた。

 遠藤は青い顔で震えている。


「大丈夫? 遠藤さん」

 葉室が声をかけると、遠藤は後退りをして葉室と距離を空けながら訊いた。

「は、葉室さんは、魔法使いだったんですね……」


「え? ああ、マ学技士ね」


「あの……助けていただいたことには、すごく感謝しています……でも私…魔法はだめなんです……」



 葉室が声をかける間もなかった。遠藤は立ち上がると、ふらつきながらも走り去っていく。


「ま、待って……!!」


 葉室がその背中に呼びかけた声が、応える相手もなく虚しく響く。

 三浦は走り去っていく遠藤の背中を見送ったあと、慌てる葉室の横顔を眺めてから、胸の中で呟いた。




 人がフラれる瞬間を見てしまった、と。

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