第二夜 間取りは1K
パソコンの画面と黒い画用紙を交互に見つつ、小麦粉を指でつまんでは魔法陣を描いていく。線の切れ目や穴を間違えてはいけないという注釈に忠実に、描き残しがないかを確認する。
「めっちゃ手に小麦ついちゃった」
夏日の熱帯夜、手汗にひんやりとした小麦が大量についていた。気だるく重い体を持ち上げて、シンクでパンパンと叩いてから蛇口を指先で上げる。冷水に手を揉みしだきながら、小さなガラステーブルの上の画用紙に唇が歪んだ。
何をしているのだ一体、と冷静になる前に急いで取っ手にかかったタオルで手を拭いて、テーブルの前に胡坐をかく。
ふーっと息を吐いてから次の工程を何度も読み返す。
スピーチコンテスト以上に緊張しつつ、一言一句間違えないように呪文を目で追う。言い回しも普段慣れないので脳内で何度も復唱する。
もしも……。
魔王が現れたらどうしよう。
魔法が使える立場とはどんな気持ちなのか聞いてみたい。
もしも、友好的ではなかったらどうやって逃げ出そうか。
玄関に走ってる間に後ろからファイアブレスでじゅっと消えてしまうのではないか。急に命の危険を想像して首筋が寒くなる。
そもそも眉唾の魔術を信じている方が異常なのだ。酒のつまみに怪しいサイトの魔法陣を小麦粉で描いて魔王を呼び出そうとした経験だけでも一月は笑えるではないか。
どうせ現実はつまらないのだから。
舌で唇をなぞってから、不敵に微笑む。傍のペン立ての奥に転がっている押しピンを一つ手に取り、左手の親指の先をぎゅっと人差し指で抑えて、そっとピン先を刺す。ピリついた痛みが走ったものの薄皮数枚程度の小さな傷。
血まで流して呪文を間違えたら元も子もない。
もう一度画面に目を遣り、魔法陣の真ん中に血のにじむ親指を押し当てる。
「恐れ多くも呼び覚ます、我らの王よ。この瑣末な命の呼びかけに応えたまえ。その御姿をここに現したまえ。我が血をここに捧げよう」
読み上げながら唇が細かに震えているのがわかった。
戯れとは脳でわかっていても、現実に起きてしまったらという恐怖が体の自由を奪おうと包み込んできていたのだ。急速に喉が渇きを訴える。それでも水をとりに立ち上がるわけにはいかない。
この眉唾の結末を見届けなくては。親指をもう一度ぐりっと押し捻り、魔法陣を両目で熱く睨みつける。何が起きるのか。何か起こるのか。
何秒そうしていたかはわからない。視界の縁が白くモヤがかってきた。初めは緊張のせいかと思ったがそうではなかった。白いモヤはスピードを増して視界を埋め尽くす。ひやりとしたドライアイスの煙に襲われている気分だった。
頭が痛いと思えば、呼吸が浅くなっていた。
はっは、とひたすらに集中して息をする。
すでに視界は真っ白になり、急性アルコール中毒を疑った時、その声が耳に届いた。
「誰だ、お前は」
地の底から響くような、おどろおどろしい声。
怒りに満ちた声。
圧するような声。
そのどれでもなく、ただの男性の声に聞こえた。
「何しにきた」
声は続ける。
しかし目が見えなければ、返しようがない。沈黙に何かを察したのか、ぶわりと風が吹いてモヤが消え去った。
そこにいたのは、五つほど年上に見える男だった。
魔王と言い切れなかったのが、彼が白いシャツに黒い7部丈の薄手の上着、紺色のパンツ姿だったのだ。どこにでもいるIT系のサラリーマンにしか見えなかったのだ。さらにはその場所。
どう大げさにみても1Kのアパートである。
生活感に溢れており、洗濯物が並び、床にはペットボトルが転がっている。レシートらしき髪が扉の下に挟まって、アイロン台が埃をかぶっている。
魔王を呼び出したつもりが、見知らぬ男の部屋に転送されたようなのだ。
「いつまで黙ってる」
好きで黙っているわけじゃない、と口の中で反論しつつ、髪を整えながら男に相対する。
「え、えとですね。酒の勢いに任せて、魔法陣を描いてたんですよね」
これが本当に一般のサラリーマン相手の答弁だとしたらこの後に起こることは一つだけ。
男はスマホを取り出した。
「ま、まってください! 通報はやめて!」
「警察を呼ぶしかないだろう」
「あのですね、えっといきなり部屋に出てきてすみません。私も仕組みはよくわかってなくて混乱してるんですけど、そもそもの質問してもいいですか」
「なんだ」
唇が呪文の時とは比べ物にならないほど震えている。
これが現実だとは悪夢にもほどがある。
居心地のいい自分の部屋から見知らぬ男の部屋に飛ばされ、今にも通報されそうになっているのだ。下手なことは言えない。
「あなたは、魔王ですか」
口は正直だった。
男は表情を変えもせず、不機嫌そうに眉をしかめたまま答えた。
「そうだ」
魔王の育て方 片桐瑠衣 @katagiri
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