魔王の育て方

片桐瑠衣

第1夜 出来心


 倉橋美緒の足取りは無責任に軽く、五限終わりの大学構内を目的もなくさまよっていた。図書館のカフェはしまっており、目当てのウィンナーコーヒーを諦めるも、コンビニコーヒーで満足できる見込みはなく、かといって代替品も思いつかずに西門を出てすぐの喫茶店に自然に足が向いた。

「週の中日、水曜日〜」

 人通りの少ない西門通りで、前後に人がいないのを一目確認してから呟く。二十歳になり、2年目の大学生活は想像以上に穏やかなもので、刺々しい女性同士のヒエラルキーや避妊の概念が洗脳で上塗りされている男女関係などに巻き込まれることもなく、教授は変人でもなく課題は常識的な日々を過ごしていた。

 両親がともに医療職であり、数年前に医院を開設したことから金銭的余裕があり、バイトを強制させられることもなかったので講義終わりは手持ち無沙汰だった。サークルや部活は新歓時の熱量に押されて入らない選択をしたため、来年ゼミが始まるまで濃厚なコミュニティに属する見込みはなかった。

 カラオケオールも海辺の花火もタコパも縁のない、良くいえば心乱されることのない健全な生活で、悪くいえば何の変哲も無いつまらない毎日だ。

 高校の頃から単独行動が楽であり、容姿も取り立てて良いわけでもなく、頬にかかるのが嫌だからとオールバックのポニーテールで男子ウケなど取り入れようともしなかった。

「倉橋さんってあっち系なの?」

 色恋話が一切なかったせいか、ある日唐突に第二言語講義が同じ男子から声をかけられた。確か椎野という苗字だった。大学デビューらしく一年の頃から明るめの茶髪、シルバーのピアス、こだわりの強そうなチェックパンツで何の話題も合いそうにない印象だった。

 火曜日限定二百五十円の温玉うどんを盆に載せてレジに並びつつ、ニヤついた彼の方を振り返る。

「ソロの女ってみんな同性愛だと思ってるのかな」

 単純に疑問を口にしたつもりだったが、ズケズケとプライベートに関わる質問をされた苛立ちも混ざってしまったようで、椎野はヒョコンと顎を突き出しながら首を下げて男子グループに逃げていった。

「嫌われてんじゃねえよ、会話してこいよ」

「無理ゲー。倉橋はマジ難易度高すぎ」

 自分との会話がレベルアップの試練だと捉えられていることを知り、うどんを噛む速度がいつもよりも早くなってしまった。

 グニグニと歯を擦り合わせ、喉に流し込む。

「誰が無理ゲーだよ」

 使い捨て箸をゴミ箱に放りながら毒づいたが、周囲に誰もいない隙を狙ったので聞かれることはなかっただろう。


 喫茶店の入り口は磨りガラスだが、良く顔を近づけると中の様子が少しだけ見て取れる。店内に客は二人。カップル。いつも座るガーデンに面したソファ席は空いているので、頬をほころばせながら入店した。

「いらっしゃい。お好きな席へどうぞ」

 還暦を過ぎたであろう人の良い笑顔の女性がカウンター越しに呼びかける。

 9席しかないこの店の女主人である。海外のお土産らしい共通点のない小物が所狭しと並ぶ長テーブルに、申し訳程度にお冷のチェイサーが置いてあり、セルフサービスで客が自らグラスに水を注ぐ。初夏の終わりに合わせてか、レモンの輪切りが入っており、清涼感が増していて目にも嬉しかった。

 ガーデンにはこれから芽吹くであろうアジサイの蕾が見える。ピチュピチュとスズメが芝生に降りてきて、地面をくちばしでつついている。奥には樹齢4、50年ほどの桜の木が二本。道路に面する方角には青々とした竹林。桜の根元には名前のわからない色とりどりの花の苗が並ぶ。

 自分も還暦を過ぎる頃にこうして植物を愛せるだろうかなど考えつつ、テーブルに貼り付けられたメニュー表を眺める。本日のコーヒーはグアテマラと黒板にチョークで書いてあった。ケーキセットは六百五十円と大学生に良心的だ。西門エリアは飲み屋が少なく、三千人越えの在学生のほとんどがこの店を見つけてないようだ。経営はともかく、空いている方が静かな常連にとっては嬉しい。

「すみません。ケーキセットでチョコレート、カフェオレホットでお願いします」

「はーい。いつもありがとうね」

 席に来ることなく、カウンターの中から返事をくれるアットホームな接客も心地よさの理由の一つ。提供されるコーヒーと伝票が誤っていたことは一度もない。しゅごご、とコーヒーを挽く音を聞きながらカバンから本を取り出す。

 明日からの週末に読もうと借りたもので、魔法使いになりきったエッセイ本だ。たまたま図書館の司書一押しコーナーで目を引いたもので、表紙にはステレオタイプの紺色のマントを羽織ったわし鼻のおばあさんのデフォルメされたイラストと「今日もまた玉ねぎの辛味を消し去る魔法のおかげで泣かずに済んだ」とある。

 日常の小さな手間を魔法で片付けてしまう魔法使いの小気味良い語り口が気に入ったが、こうした喫茶店で少し開いて読むのにもちょうどいい。


「車のサイドミラーをボタンを触らずに動かせるのは楽だが、微調整はボタンに頼らざるを得ない」


 この頼りなさが妙にリアルなのだ。魔法が使えたとして、自分に使いこなせる自信は皆無。実際にこの魔法使いのように持て余してくだらないことを科学の代わりに魔法にする程度で収まるのではと考えてしまう。

「お待たせしました。ケーキセット、カフェオレホットになります。今日は面白そうな本読んでるね」

「ええ、ついつい借りちゃって」

「星5だったら教えてね。ごゆっくりどうぞ」

 テーブルにふわりと香るコーヒーとミルクに気分が上がる。ケーキにフォークを突き刺して、その感触から伝わるチョコの濃厚さに至福を感じる。

 友達がいたら写真を撮り合うシーンだろうか。来年にはできるだろうか。


「アップルパイに焦げない魔法をかけるのが癖になり過ぎて、もう魔法なしでは何も焼けない」


 クスリと笑える一文なのに、深い意味があるのではと勘ぐってしまうのもこのエッセイの魅力の一つかもしれない。焦がさない魔法なら誰しも欲しがりそうなものだが、お焦げ愛好家からは怪訝な目線が飛ぶだろう。

「おひとり様じゃなきゃもうどこにも行けない」

 急に味覚が鈍くなってきたので思考を止めて糖分に集中することにした。

 椎野の顔が右上の天井の隅にぽわりと浮かぶ。ニヤニヤと楽しそうに見下ろしてくる。心が清らかになるガーデンを目の前にして、何故暗いイメージにとらわれてしまうのか、至極勿体無いことをしていると悔やむばかりだった。


 帰宅したのは午後7時過ぎだった。コンビニに寄って缶チューハイを調達したため、すっかり辺りは暗くなっていた。誰もいない部屋に電気を灯す。

 だーっと声を混じらせて深く息を吐き、服を全て洗濯機に放り投げるとオーバーサイズのTシャツにスウェットに身を包む。昨日の残りの豚肉キムチ炒めをレンジで温める間に、大きめのグラスにチューハイを開ける。弾ける炭酸に手をかざすと、ひんやりミストのように水滴が手を冷やす。

 帰り道は魔法使いについて検索が止まらなかった。その続きのためパソコンを卓上に置き、検索エンジンを二つほど別タブで開く。魔法の雛形は自然現象の雷や大波などの有象から、呪術など目には見えないものまで幅広く存在する。魔法使いを束ねる大魔法使いに、その対極に位置する魔王。式神に召喚獣。

 中学まで夢中だったファンタジーゲームの用語が脳に次々と蘇る。黒魔法に白魔法。赤魔法に禁魔術。

「魔王は白魔法を使えるのかな」

 口に出してからあまりに幼稚な発言に自嘲してしまう。すでに1缶開けたからか思考の寄り道が激しい。現代魔術に科学。魔法陣に呪文。気づけば深夜まで検索に没頭していた。何の予定もない週末とはいえシャワーを浴びようと立ち上がりかけた時に、魔法使いのエッセイの裏表紙がカバンから飛び出しているのが目に入ってきた。


「魔法使いになりたいというより、魔法使いに会いたい思いから綴りました」


 作者の一言には、純粋な願いが込められていた。

 そうだ、魔法を手にしたところで意味はないのだ。

 使い方を熟知している魔法使いに話を聞くほうが何倍も楽しいだろう。

 シャンプーとリンスの残量を思い返しつつ、検索履歴から魔法陣のページを引っ張り出す。キメラの召喚や、悪魔呼び出しの他に魔法使いを呼び出す方法があったはずだと目線を走らせる。

「魔法が使えたらあ〜、魔法使いに会いたいな」

 自覚しているより酔いが回っているようで、奇妙なメロディで口ずさみながらパソコンを睨んでいた。胸元にじっとりと汗が浮き上がる。クーラーの設定温度を下げようとリモコンに手を伸ばし、画面に目を戻した時に動きが止まった。

「魔王を召喚する方法……?」

 それは個人ブログサイトだった。真っ黒な背景に、紫の魔法陣がトーンのように並んでおり、いかにもらしい怪しさが漂っている。実際に魔王を召喚した経験ブログが多数綴られている。どこに連れて行き、どのような魔法を見せてくれたのか、合成にしか見えない写真付きで旅ブログのように投稿が並んでいる。

 マウスのスクロールを超速で下に回し、最下部の「始まりの日」というタイトルをクリックする。さらに汗が背中を伝う。飲み過ぎのせいか、興奮のせいか判断はつかない。

 そこには小麦粉とコーヒー、召喚を行う者の血液というシンプルな3点で儀式を行う方法が数行で書かれていた。


 小麦粉、冷凍庫に残っている……。

 コーヒー、豆も粉も両方ある。

 血液、一滴くらいなら方法はある。


 あまりにも思慮が浅い行動ではあったが、倉橋美緒は酔いに任せて魔王召喚の儀式を行うことにした。

 それはほんの好奇心、出来心だった。

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