1-10 階段

「藤堂さん、待たせてごめん!」


 そういって瀬川が日誌を書き終えるまでそれほど時間はかからなかった。クティのことを考えている間に終わってしまったので千春にとっては一瞬だったともいえる。

 それでも瀬川は待たせてしまったという気持ちがあるのか、急いで帰り支度を始めた。鞄に教科書やノート、筆記用具を詰め、帰ろうと立ち上がる。千春も鞄を持って立ち上がると教室を後にした。


「あっ、まずい。プリント忘れた」


 階段まで差し掛かったところで瀬川がそんなことをいった。鞄を開いて一応確認し、ないことに気づくと肩を落とす。


「もう一人の日直に日誌と一緒に集めたプリント持ってってくれって頼まれてたの忘れてた……。机の上に置いとくって言われてたのに」


 そういえば日直はプリントを集めて放課後にもってこいと先生に言われていた。瀬川と組んでいた日直は回収までうけおい、職員室に持っていくのは瀬川に任せたらしい。


「ここで待ってるから」


 千春の言葉に瀬川は迷う素振りを見せた。けれど「すぐ戻るから」といって駆け出した。教室までたいした距離はない。歩いても数分なのだから走ったらあっという間だ。

 そこまで慌てなくてもと千春はその背を見守った。瀬川を待っている数分の間に事件なんて起こりようがない。

 そう思っていた。


 ドンッと急に体が押された。最初は意味がわからなかった。片足が滑り落ちる感覚がして、体のバランスが崩れる。次に千春を襲ったのは浮遊感。階段を踏み外したと遅れて気づいたとき、回る視界に森田の姿が見えた。森田が落ちる千春を見下ろしている。その顔には笑みが浮かんでおり、笑顔にしては薄暗いそれにゾッとした。次にやってきたのは恐怖。死ぬかもしれない。そんな考えが頭を塗りつぶす。


 痛みを予想して千春は目を閉じた。

 しかし予想していた痛みはやってこない。想像していた冷たく固い床とは違う。柔らかいものに受け止められた。温かいそれに驚いて目を開くと、迷彩柄の派手な服が目に入る。


「だから早く帰れっていったのに。お前わざと残ったな」


 上から声が降ってくる。昨日聞いたばかりなのにずいぶん懐かしい気がして泣きそうになった。顔を上げれば特徴的な瞳が千春を心配そうに見下ろしていた。


「クティ……さん!」


 どうしてよりも、来てくれて良かったという思いが頭に浮かぶ。クティが中学校にいることはおかしなことのはずなのに、自然と受け入れている。クティは人間がいるところであればどこにだって現れることが出来る。それをなぜか千春は知っていた。


「誰よ、あんた! どっから出てきたの!?」


 森田の金切り声が降ってきた。上を見上げれば森田が怒りに染まった顔で千春たちを見下ろしている。慌てたように瀬川が姿を現して、階段の前で騒いでいる森田、階段の踊り場でクティに支えられている千春を交互に見つめた。


「森田さん、これって……」

「あんたも千波も、そこの意味不明な奴も、なんでソイツばっかかわいがるのよ」


 森田が鬼みたいな顔で瀬川をにらむ。一歩後ずさった瀬川を見て、それすらも気に食わないという顔で森田が千春をにらみつける。唇をかみしめ、つり上がった目で千春を見下ろす森田は別の生き物のように見えた。


「先生にもちやほやされて、親にも可愛がられて! ただ病気だったってだけで、あんただけなんでそんなに愛されるのよ! なにも苦労してない顔でのほほんとして! 私はこんなに苦しんでるのに!」


 森田が叫ぶ。怒っているのに泣きそうで、切実だった。森田の本音。心の底からの叫びだと分かるからこそ千春の胸に突き刺さった。

 愛されている。なにも苦労していない。その言葉に千春は違うと思う。たしかに今の千春は愛されているし、苦労もしていないけれど違ったのだ。


 脳裏に浮かんだのは倒れる両親。目を見開いて、なにが起こったのか分からないという顔で動かない。それをただ見下ろすだけの自分。

 こんな光景は記憶にない。それでも千春はこの光景を見たことがある。今の千春ではなく前の千春が。自分を愛してくれる両親を自分の手で殺めた千春は過去に存在した。


「ごちゃごちゃうるせえな。ようは八つ当たりだろうが」


 混乱する思考を現実に引き戻したのはクティの声だった。心底不快そうな顔でクティが森田をにらみつける。


「お前の家庭環境なんか俺には興味ねえんだよ。お前程度の事情持った奴なんて世の中、五万といるっつうの。つうかまだマシな方だろ。母親の彼氏に襲われる胸くそ悪い展開は回避してんじゃねえか」


 クティの言葉に森田が絶句した。瀬川がぎょっとした顔でクティを見る。その視線に見向きもせずクティは森田だけを見上げていた。


「頭のわるぅーいお前に教えてやるとな、俺が千春を助けなかった場合、打ちどころが悪くて千春は死んだ」


 それは予想ではなく断言だった。千春も落ちるとき死ぬかもしれないと思ったが死ぬとは決まっていない。それなのにクティは千春が死んだ現場を実際に見たような、怒りに染まった顔で森田を見上げた。


「お前の犯行はそこにいるガキが証言する」

 クティはそういうと棒立ち状態の瀬川を指さした。


「お前は当然、自分はやってないと嘘をつく。そんなの、だぁれも信じてくれない。お前の素行が悪いのはみんな知ってる。千春に因縁つけてたのも知られている」


 クティはそういいながら階段を一段のぼった。クティは森田とは初対面のはずで、千春が森田に因縁をつけられていたなんて知らない。それなのにクティの言葉には迷いがない。森田が嘘をつくと推測しているというよりは、未来が見えているかのような言動だった。

 

「病気から奇跡の生還をとげ、やっと学校に通えるようになった少女とガラの悪い連中と深夜徘徊を繰り返すお前、世間はどっちの味方をするか、考えるまでもないだろ。ここでお前の人生は詰む。クソな母親と母親のクソ彼氏にふりまわされる被害者じゃなく、お前はお前が嫌悪するクソどもと同じ加害者になる」


 クティは森田と目を合わせ、森田の頭に直接刷り込むように丁寧に言葉をつむぐ。一歩、また一歩とクティと森田の距離が近づく。それに森田は恐怖を覚えていることが震える足から伝わってきた。それなのに森田は逃げない。いや、逃げられないのかもしれない。

 

「あんた……なんなの……。なんで知ってんの……」

 森田の言葉にクティは口角をあげる。不思議な光彩を放つ瞳がギラリと光ったように見えた。


「全部知ってる。お前の過去も未来も全部」


 階段を登り終えたクティが森田の目の前にたった。階段の下からではクティの背中に隠れて森田がどんな顔をしているのか見えなかった。それでもクティがわざわざ身を屈めて、森田の顔を覗き込んだのはわかった。


「お前、後悔してるだろ。父親を選んでいればって思ってるだろ」


 千春にはその言葉はまるで意味が分からない。けれど森田の体は大きく震えた。かすれた「なんで……」という声が耳にはいる。

 顔の見えないクティがにんまりと笑ったように見えた。人を堕落させる悪魔のように、整った容姿を最大限に活かして笑うクティの姿が頭に浮かぶ。


「特別サービスだ。やり直させてやるよ」


 そういうとクティは森田の手をとった。特別サービスというわりに乱暴な手つきで森田の手をひねりあげる。それは現行犯を捕まえる警官のようで、森田は必死に抵抗した。


「クティさん、一体なにを!」


 まずいと思ったのか瀬川が止めようとする。それを無視してクティは暴れる森田を片手で押さえつけながら千春を見下ろした。


「じゃあな、千春。今度こそさようならだ」


 そういうとクティはドンッと床を踏んだ。その瞬間、クティの足下に黒いなにかが広がって、クティと森田を飲み込んだ。ズブズブと足下から沈んでいく体に森田が悲鳴を上げ、一層激しく抵抗するがクティは意に介した様子がなく千春を見つめ続けていた。


「次は間違うなよ」


 沈んでいく自分の体を気にもとめず、クティはそういって柔らかく笑った。初めて見る優しい笑みに千春は叫びたかった。次ってどういう意味なのかと。あなたは何者なのかと。けれどそれを聞く前に、千春の意識は急に途切れた。

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