第2話 我が天命に殉ぜよ屍人2
〇
黒煙に包まれる小さな村に、男たちの断末魔が響き渡る。女は犯され連れ去られ、子と老人は大火の中へ投げ込まれる。
この世の地獄とも言える惨状を作り出しているのは数十匹からなる
鬼族は呪われた賤種なのだと、人間達は皆そう言っている。
それが本当かは知らないが、大鬼はその巨体と筋力の代わり、知恵がないのは確かである。
つがいだろうが兄弟だろうが、貧すれば手足を喰い合う。計画性も協調性も持たない大鬼がここまで大きな群れをなして人里を襲ったという話を、わたしは聞いた事がなかった。
どこかから響くすすり泣きの声を頼りに悪夢の村を彷徨い歩くと、一軒の煉瓦造りに辿り着いた。
壁の崩れた家の中には若い女が一人と、それを見下ろす一匹の大鬼が居た。子供のすすり泣く声は、確かにこの家のどこかから響いている。
「……こんな非道、神様が許しはしないよ」
気丈に大鬼を睨み付ける女の膝には、出来立ての死体が乗っている。それは頭蓋の殆どが崩壊した、見るも無残な男の死体だ。
大鬼は何が楽しいのか、落ち窪んだ眼を細め、黄ばんだ牙を見せつけて、奇妙な鳴き声を発していた。それはまるで目の前の矮小な人間を嘲り笑うような、不快で不気味な鳴き声だった。
「かみ様は、いない」
臼を挽くような低い声で大鬼が言葉を発し、女は驚きに目を見開く。
人にとってそれくらい信じ難いことなのだろう。愚かな鬼族が人の言葉を操るということは。
女は自らが抱える男の手と、その首にかかる十字架を強く握る。「神様、どうか」。人語を解する大鬼は、その祈りすら嘲笑する。
「女はもってかえる。おかして食う」
吐き出される悍ましい人語を聞いて、女は最後の抵抗を示した。脈打つ鬼の下半身を、渾身の力で蹴り潰そうとした。
きっと大した痛手にもならなかっただろうそのか弱い暴力に苦悶の鳴き声が上がったのは一瞬で、すぐさま凶器は振り上げられる。
握り固めただけの拳が、女の顔に目掛けて落ちた。ただそれだけのことで、女はその内側に詰まっていた物の殆どを撒き散らした。
赤黒い肉片と目玉が床に落ちて、体はぴくりとも動かなくなる。しかし、完全に息絶えたそれがまだ人の形を保っているのが気に喰わないのだろうか。大鬼は拳を振り下ろし続けた。そこにあった女の頭が、床に残るただの赤い染みになるまで。
やがて外から響く遠吠えのような声を聞きつけると、大鬼は未練がましい顔で去っていった。
わたしはその巨大な背中が消えるのを見届けてから、血だまりの床に触れて、開いた。
床下の貯蔵庫に押し込まれるように隠れていた幼い子供。その青白く震える小さな頬に、まだ生ぬるさを残した赤色が降り注ぐ。
「……神様は居ないの?」
赤く染まった部屋に並ぶ二つの死体を眺めながら、この
「居たとして、弱い者は救わないようです」
「なら、誰がぼくらを守るの」
「誰も。だからあなたも奪う側に回った」
「……?」
いつの間にか少年の手に握られていた、他人の血に汚れた一振りの短刀。それを不思議そうに眺めてから、彼はふと呟いた。「そうだった」と、いつか罪人に堕ちた自分の現実を思い出した。
「……そうならせめて俺は最後、自分自身を裁きたい」
野盗の頭領の悲しい声が、醒めない悪夢を白ませる。
急速に現実味を失い崩れてゆく記憶の中の光景が、それを作り出す者の生きる意思が消えかけていることを知らせていた。
〇
「……そうか、お前が昏き森の眠らぬ魔女、影と恐怖の異形の英雄」
悪夢を抜け出た馬車の中。野盗の頭にそう言われ、名乗ったことも無い悪名が随分独り歩きしているようだと、わたしはそっとため息を吐いた。
「最後に教えていただけますか。あなたと、あの日焼かれた故郷の名を」
彼の手に握られた抜き身のナイフを眺めながら、わたしは彼にそう聞いた。
「コスタの村のグスタヴォ。父と母の名はここに」
胸を掻き毟るようにして取り出した銀の十字架を、グスタヴォは投げて寄越した。
それでもう思い残すことは何もないとでも言うように、彼は両手に刃を握った。祈るような姿勢で振り上げたそれを躊躇なく自分の喉に叩きつけ、全てを終わりにしようとした。
わたしはそれを止めもせず、ただじっと眺めていた。
生きている人間には、いつでもそれを選ぶ権利がある。死ねないわたしはいつだって、それを羨ましく思うから。
「……待てい! グスタヴォなる男よ!」
がしかし暗黒の馬車の中。
突如朗々と響き渡ったその声に、ナイフの刃先はピタリと留まった。数瞬後闇の中に浮かび上がった不気味な鉄仮面を見て、ビクリと震える。
叫んだのは、わたしを棺桶に閉じ込めた謎の鉄仮面・アルフレインなる男だった。……大変至極残念ながら、彼はなぜか生きている。
馬車の隅に起き上がった、きっとついさっきまでのびていたのだろうその男は、なのに少しの恥ずかし気もない堂々たる足取りで、今正に命を断とうとしているグスタヴォの前に立ち塞ぐ。
「我が名は英雄アルフレイン。闇の中差し込む一筋の光」
英雄らしさの欠片も無い不気味な鉄仮面は、グスタヴォの手にある短刀の、その刃先を強く握った。まるで躊躇などない機敏な動作だった。
アルフレインの手から真っ赤な血がぽつぽつと垂れ落ちて、荒れた車内に溜まりを作る。
一体何を見せられているのだろう、わたしは。
「明日を怖れ、過去を怖れ、強者を怖れ、弱き自分自身を怖れ、その果てに力無き者達から奪うことを選んだ臆病者・グスタヴォよ、今暫し待て」
「……」
「……」
言葉通り待つこと暫し。灯りの消えた馬車の中にはただ沈黙と、アルフレインの血だけが流れ続ける。
その異様な状況に観念したのか、もしくは仮面の下に在る狂気の眼差しに恐ろしさを感じたのか、いつかグスタヴォは気まずそうに口を開く。
「……一体いつまで待てばいい」
「無論、我が良いと言うまでだ」
「赤の他人に止めてもらう義理はねぇよ」
自死を望むグスタヴォがナイフの柄に力を込めて、それを引き抜こうと試みる。その度アルフレインの掌からは真っ赤な血が零れ落ち、それでも刃は抜き取れず、やがてグスタヴォは諦めるようその柄から手を離した。
「俺はあんたの馬車を襲って、場合によっては殺そうとしたんだぞ。……どうしてそこまでしてくれる」
「人は己の命を使い、我が身を救うことなど出来はしない。自らの命を賭して救えるのは、自分以外の者だけだ。……だから死ぬなグスタヴォ、その死はお前を救わない」
「俺には命を懸けて守りたいものなんてない。無価値なんだ。だからもう、」
「フン! 臆病なお前はこう思っているのだろう? 誰もが自分の命より大切なものを求めている! しかしそれが手に入るのは、一部の恵まれた人間だけだと! そう、お前を守り死んでいった父母のように勇敢な者だけだ、と。……それは大きな間違いだ、グスタヴォよ」
「……」
「臆病者を辞めたいのなら、糞をばら撒き大地を耕せ。実らずとも生き、無価値でも与え続けよ。……そしてもしいつか実りの時が来たのなら、それを守ることの為だけに、再びこの刃を握れ」
血塗れの拳を見詰めていたグスタヴォはやがて顔を上げ、闇の中の鉄仮面を見た。
「……あんたは一体、何者」
「我が名はアルフレイン。闇に閉ざされし者達を救う、真なる正義の英雄である。良いかグスタヴォ、我が許すその時まで、決してこれを自分に向けてはならない」
「……出来るのか、俺なんかに」
「やり遂げてみせよ」
グスタヴォが再びナイフの柄を握ると、アルフレインはやっとその手を開いた。受け取った血まみれの刃を気まずそうに鞘に納めてから、グスタヴォは背を向ける。馬車の扉に手を掛けて、振り向かずに去って行く。
「まるで本当に、英雄譚の主人公みたいだな、あんた」
グスタヴォの頬に光る一筋の輝きから目を逸らしながら、アルフレインは鼻を鳴らした。外から差し込む月明かりに手を翳し、「事実、そうなのだ」と、未だ血の噴き出る傷跡を見詰めながら、ひどく痛そうな声で呟いた。
……わたしはそのひどい茶番を、冷めきった気持ちで眺めていた。
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