第4話 通知


「それじゃあ行ってくるね」


「行ってらっしゃい。気をつけて」


 凛音は華道の個展があると、日曜の朝から出かけていった。この家に越してきて、早3年。お互い25歳になり、順風満帆の人生だった。


「……はぁ」


 しかし、それは表面上のものだった。今日はどうすべきだろうと考えて、近くのネットカフェに行こうと思った。1時間して彼女が帰ってこないことを確認すると、戸締りをして家を出た。


 家の近くのネットカフェまで徒歩10分。それまでに色んなことを思い起こした。結婚生活が始まって、なんだかんだの自分としては、彼女との営みも密やかな楽しみだった。


 けれどそれも、1年足らずで終わってしまう。彼女は元より、を好まなかった。堅い家柄、そういった趣味嗜好から隔絶された世界で、特に両親が厳しかった。結婚する際に、両親から言われた言葉は、今でもその場面がフラッシュバックする。


『いいか、風俗もAVも浮気と見なすぞ。その時は覚悟しろ。お前を社会的に追い込むことなんて簡単なんだ。美咲を裏切るようなことは絶対に許さん』


 二つ返事をする他なかった。ただ、その時はまだ甘く見ていたのかもしれない。


 ネットカフェについて、癖であたりを見回す。過去に向こうの両親の探偵らしき人間が着いていたことがあったからだ。その時は未遂で終わり、後々それを仄めかすような文書が届いた。隠れて不貞行為をしても無駄だぞ、と。


 それでもこのカフェなら、なんとかなるだろう。最初は適当にネットサーフィン。その後、こっそりとR18サイトへログインする。それだけで既に気持ちが昂って、頭が痺れるような感覚に襲われる。


 自分だって、元々こんな風になる予定はなかった。けれど、子供ができないと分かるや否や、彼女とは自然とレスになって行った。そんな状態でどう耐えればいいんだと、何度も口論になった。ただその度、


『貴方は、それしか考えられないんですか。まるで猿ね。……そんな状態で、貴方との子供が欲しいとは考えられない』


 彼女は潔癖とも言えるほどに性欲やそれに準ずるものを嫌い、やがては自宅にAVや成年雑誌の類を持ち込んでいないかまで、病的に気にするようになった。


 一度だけ、自宅のトイレで自慰に耽った。しかしそれも、後で気づかれてしまった。


『最低ね。言葉もありません……とにかく、もうこんなトイレは使えません。新しいトイレに買い替えましょう』


 その時は違う、やっていないと嘘を突き通した。それでも彼女は何を核心にしたのか、匂いに極端に敏感なのか、疑うことをやめはしなかった。結果、自宅でも行為は一切禁止とされる。


 隼也は画面を食いつくように見張る。興奮は高まり、やがて絶頂に向かう。その時だった。


コンコン。


 ドキッとして、思わず手が止まる。は、はい。と小さい声で返事をすると、それは店の人だった。


「財布の落とし物、されてませんでしょうか」


「あ、い、いや、自分じゃ、ないですね」


「そうですか、大変失礼いたしました。ごゆっくりどうぞ」


「あ、あはは……はぁ……」


 すっかり萎えてしまったこと、パソコンに八つ当たりして、半ば乱暴にウィンドウを閉じる。そうしてもう一度大きなため息をついた。常に監視されているストレス。これはある種のセクハラ、パワハラなのではないかと、爆発するのを抑える日々だった。


 思い返せば、あの日からだった。そうだ、ちょうど3年くらい前。


 彼女が華道に行っていた時、誕生日プレゼントを買った日。帰宅して、彼女にプレゼントを渡した時、いつもは見せない訝しげな顔を見せて、


『……隼也さん、何かしました?』


『え? い、いや、何も?』


 その日に起きたことを隠すためか、いつも以上に動揺してしまった。思えば、あの時から彼女は何かを感じ取ったのかもしれない。その実は知る由もないけれど。


 そして自分自身、浮気はしていないのだ。あの時のカウントを0とすれば。


 悶々としたまま動画サイトを徘徊していると、ふとスマートフォンに通知が届いた。


【助けて】


「……なんだ、物騒な。というかこのアカウント、誰だ?」


 たった一文、LINEに届いたのはSOSだった。どうせスパムだろうと開くと、差出人の名前は、登録されているはずのない、あの人の名前だった。


「……美咲、さん?」


ドクン。


 その瞬間、隼也は情けなく、自分自身の男を知った。一瞬であの日にタイムスリップしたのだ。そうしてあの日の、全身が生まれ変わるような経験と、二度と手に入らないと思われていた快楽が、今確かに脳内に蘇って。


「……助けて、か」


 それは、下心だった。あの時、自分は最初抵抗していたのだ。こんなことで貞操を汚すわけにいかない。操を捧げる相手は決めている、と。けれど、終わってしまえばそんな崇高なものでないことに気付いてしまった。それだけ、彼女の身体が、熱が、二人交わる時間が想像以上に鮮烈だった。終わった後も暫く、ふわふわとした心地で歩いていたのを覚えている。


 だから、何を言われてもいい。彼女が今、どんな状況にあるのだろう。それはわからないし、もしかしたら婚約者や夫に暴力を振るわれた末のメッセージかもしれない。


 だとすれば自分の生活に支障をきたすかもしれない。けれど、今はそんなことどうでもよかった。ただ彼女に会って、そして。


でも、どうやって。


 そう思った瞬間に、スマートフォンから聴き慣れない通知音が響いた。


ジー、ジー。


 低い振動音が二回響くと、地図アプリの通知が飛んできた。それを見て隼也はすぐにネットカフェを飛び出した。



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