第2話 婚前交渉

 その数分後、隼也はその女性と共にカジュアルなレストランに入っていた。同じビルのレストランエリア、その中でもオムライスが美味しいと評判の店だ。客層はカップルや女性ばかり。


「ごめんね、無理言って」


「いえ、どうせ食べるつもりだったので」


 キーケースは結局見当たらず、女性は仕方ないからとすぐに鍵の交換をしてもらうよう、住んでいるアパートの管理人さんへ伝えたらしい。新しい鍵の作成費、錠の交換費用、元々自分が不注意でぶつからなければこんなことには。もちろん彼女のいう通り、全てが自分のせいでないかもしれないが、見て見ぬ振りをするには後味が悪かった。そのお詫びとして、いくらか弁償させてくれないかと提案すると、女性は言った。


「それなら、ランチに付き合ってくれる? 君の奢りで」


 その話の流れで、今に至る。彼女は今日は習い事で自宅に居る。なんでも由緒ある家系らしく、茶道や華道を昔から続けているとか。だからこれは元々浮気ではないにしても、妙な勘違いを生むものではないと、自分に言い聞かせて。


「彼女に申し訳ないことしたかな」


「あぁ、いや。まあ」


「あはは、君って本当正直だよね。そう言えば名前聞いてなかったね。私は住吉美咲すみよしみさき。気になってる年齢は29だよ」


「俺は、郡隼也こおりしゅんやです。その、住吉さんこそいいんですか」


「何が? もしかして、彼氏とか? うーん、今はいないからね」


 今はいない、なんとなくその言い回しが経験豊富さを感じさせた。正直自分には初対面の女性と流暢にお喋りを楽しむようなスキルはなかったし、何より一般的な感覚からして、彼女は美人に分類されると思う。身長も165くらい、立って並ぶとパンプスを履いてるから自分と同じくらいの目線になる。


 29と聞いて、それでも少し若いと感じた。25とか27とか、正直違いは分からない。でも、22の大学生とはきっと違うんだろうと、勝手に想像していた。


「住吉さんは」


「美咲、って呼んでくれてもいいよ。年齢差的に、恋人って感じでもないでしょ? それに、苗字で呼ばれるの仕事みたいで嫌なんだよね」


「あぁ、えっと、わかりました」


 オムライスが運ばれてきて、彼女は楽しそうにそれを眺める。今風に写真を撮ることはせず、スプーンを手にして両手を合わせて、静かにいただきますと呟いてから、一口。幸せそうに頬を緩ませ、喜びを噛み締めているようだった。


「美咲さん、はオムライス好きなんですか」


「うん、大好き。でも、自分で作ったのと違うよね。こういうお店のトロッとしたのとか、逆に洋食屋の硬いオムライスも好き。男の子ってあんまり好きじゃないかな」


「普通に食べますけどね、オムライス。自分で作ったりはしないけど」


「彼女には作ってもらわないの?」


「そうですね、あんまり洋食とかは」


「へぇ。なんか興味あるな、隼也くんの彼女。写真とかないの?」


 そう言って彼女はオムライスを食べる合間に、顔を乗り出してこんとばかりに彼女のことに触れたがった。さすがに少し躊躇うとあははと笑いって、またオムライスにスプーンを入れる。


「冗談冗談。私こういうタイプだからさ、無理しないでね」


「あぁいや、まあ。自分にはもったいないくらいの彼女です。もう付き合って3年で」


「え、嘘!? すごいじゃん。ってことは、何? もしかして高校から付き合ってるとか? あ、それにしては年数4年?」


「一応、高校卒業してから、大学2年の時に再会して、それから」


「うわぁ、いいなぁそれ。私もそんな恋愛したかった。でも、3年ってことはもう二人で住んでるの?」


「いや、それはまだ、です」


「え、そうなんだ。それもすごいね。彼女が反対してるの? 卒業してからとか」


「まあそうですね。彼女の両親からも、言われてるので」


「両親! ってことは、あれだ。あのー、お堅い家系!」


 彼女に釣られて、結局いろいろと喋らされてしまう。堅い家系、家柄かと言われれば、そうかもしれない。それを自分がどう思っているかはともかく。


「そうともいうかもしれませんね」


「へぇ、今時珍しいね。でも、大変じゃんそれって。結婚もやり方が決まってるだろうし、同棲もダメってことは、もしかして婚前交渉禁止とか?」


「……」


 その言葉を聞いて、一瞬スプーンが止まってしまう。気づかれないようにすぐ食べ続けたが、会話が止まってしまったのを感じ取ってか、彼女はバツの悪そうな顔をして。


「マジ? え、3年付き合って? 一回も?」


「……まあ」


「あー……そっか。なんか、ごめんね? そんなつもりなかったんだけど」


「いえ、いいんです」


 そして、遂に彼女も言葉を発さなくなり、お互い皿に向かい合ってオムライスを食べ続ける。気まずい沈黙の中、湧き上がった感情をぽつりと呟いて。


「なので、俺はまだ童貞なんですよ」


「え?」


「あ、いや」


「そう、なんだ」


「その、彼女……凛音って言うんですけど、凛音は文字通りの箱入り娘で、教養もあっていろんな特技もあって、自分にはもったいないくらいなんです。それでも付き合ってくれてて、それで結婚したらって……口約束はしてるので、それで満足してるんで」


「なるほど、ね……」


「なんか、ごめんなさい。急に」


「あぁ、ううん。元々私が振った話だしね。まあでも、今時不思議じゃないよ。男女っていろいろあるもん」


 そう言ってお互い、ほとんど同じタイミングでスプーンを置いた。もっと何か話されるかと思ったが、彼女は急いでるのか、もう出られるかと聞かれたので、そのままレジへ。あまり彼女の話は聞けなかったが、どうせこれきりの縁だろうと、特に深く考えることもなく。


 店先でご馳走様、と言われると隼也も会釈をする。これで解散かと思った時、急に彼女が左肩を抑え始めた。


「大丈夫ですか?」


「あぁ、うん。大丈夫なんだけど、ちょっと痛いかな」


「さっきぶつけた所……」


「まあ、見ての通り私ひ弱だから」


「なんか、次々にすみません」


「いや、隼也くんを責めたいわけじゃないんだけど」


 そう言って彼女はふと、探るような表情で問いかけてきた。


「それじゃあ、お詫びついでにもう一つわがまま聞いて貰ってもいい?」


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