1−2−7 秋大会三回戦・国士舘戦

 ナックルが、打たれた。


 最強の魔球のはずだ。二十世紀最後の魔球と呼ばれたSFFスプリットとは比べ物にならない習得難易度。結果が投げた本人にも受ける側の捕手にもわからない本当の意味での魔球。


 SFFはストレートとあまり変わらない速度で落ちるからこそ魔球と呼ばれる。速球派投手にとってかなりの武器になることと、習得難易度が高くなかったために爆発的に流行った変化球だ。


 それとは異なり、ナックルは正真正銘の魔球のはず。揺れてどう落ちるのかがわからないから合わせるのも苦労するはずだ。


 速度が出ないためにじっくりと待たれたらバットに当てるだけならできるだろう。ナックルに絞られたら対処されることもわかるが、俺はストレートも他の変化球も混ぜて組み立てた。


 だというのに、五回で六失点。そこまで打たれるかと、武蔵大山にいた時のように俺の自尊心はバッキリと折れる音が聞こえた。


 ナックルは通じることもあった。これを引っ掛けたり、内野正面へのライナーが多かったためにアウトはなんだかんだで取れた。だけど、ナックル以外は悉くヒットを打たれた。だからこそナックルをそれまで以上に増やしたらナックルまで打たれ始めた。


 これしか頼れなかったのに。ナックル以外は井上以外にも通じないとわかって、俺に残った最後の武器だったのに。


 ベンチに戻ってきて汗が止まらない。頭からタオルを被っているが、これは今の俺の表情を外から隠すためだ。こんな情けない姿、誰にも見られたくない。


 ナックルの制御を誤ってワイルドピッチによる失点。数を増やした瞬間捉われ始めたナックル。ヒットも犠飛も打たれて堅実に点数を重ねられて、五回を投げ切れたのは奇跡だった。


 ベンチの奥に隠れて、右手が震え続けている。球数は五回で百球を超えた。練習試合ではナックルを使わずに抑えられたから大丈夫だと思ってたが、その想定は甘かったと言わざるを得ない。


 練習でもナックルを多投した。握力がなくならないように努力をしたつもりだった。


 だが試合で実際に投げてみれば練習の時よりも早く限界が訪れた。最後は握力がなくなってただの棒球になったのを強打されたが、それがちょうどセンターの真正面だったために辛くもアウトを取れただけ。


 棒球と手の震えを見られて、俺は交代を告げられた。握力の落ちた手で外野に回っても打撃でも守備でも迷惑をかけるだけだ。だから交代は受け入れられた。


 受け入れられたが、この現実は受け入れられない。


 武蔵大山は確かに名門だ。甲子園に行くこともわかるような、強い選手が集まっていながらも俺の投球は通じた。先輩たちには打たれたものの、同級生で通じなかったのはただ一人。


 全国にも出ていない、U-15にも選ばれていない一般入学。推薦ももらえなかった井上にストレートも縦スライダーもナックルカーブも、全部打たれた。その悪夢が再び目の前に現れていた。


 試合は六回の表になって6-1。馬場相手に一点しか奪えていないし、この五点差をひっくり返す手段が見えない。帝王は馬場を降ろしてもう一人の一年生投手でありサウスポーも共通している平をマウンドに送っていた。


 舐められている。二番手の大久保でもエースの宮下でもない。四番手をマウンドに上げてきた。国士舘相手なら四番手で十分だと言外に言っているのも同然だ。


 ベンチでは一年生が出てきたことで逆転のチャンスがあると感じたのか声が大きくなる。いや、願いを声で発散しているだけだ。二年生は打てなくても、一年生ならと藁にもすがる思いで叫んでいるだけだ。


 学年なんて関係ないと、宮下と三間が示しているチームだ。試合で起用した以上、生半可な実力で出てこないだろう。


 俺の想像通り、平という投手はしっかりと投げ込んで凡打の山を築いていた。いや、ウチが早打ちすぎる。情報もほぼないのに打てそうだと手を出して引っ掛けていた。


 俺のストレートよりは遅い。変化球だって俺の縦スライダーほど落ちてはいないように見える。だから打てると思ってしまったんだろう。実際にベンチから見てる分には打てそうだ。


 それでも打てないのは何でだ?俺とあの投手の違いは何だ。


 その違いがわからないまま帝王に蹂躙される。


 六回の裏からマウンドに立ったエースの石田は、帝王に投げるには地力が足りない。それは誰もがわかっていた。


 ここから帝王の連打が続く。


 甘く入ったボールは長打に。甘くないボールでもしっかり単打で弾き返される。コントロールが乱れれば見極められて四球になって、誰もが出塁していく。状況判断能力が高すぎる。


 そうして満塁になってしまい、打者には四番の三間が。押し出しにしてでも逃げるべき打者だが、その次も今日は打っている宮下だ。下手に点数を献上するよりもここでゲッツーでも奪えるような奇跡に縋った方がマシかもしれない。


 バッテリーもそう思ったのか、変化球で勝負に行く。ストレートなら持っていかれると思ったのだろう。


 だが、三間の足が大きく上がり、しっかりと地面に乗り出して腰を捻らせて。バットをただただ突き出した。


 続く快音は今日一番の響きだった。タオルで視界が狭まっている俺でも、その打球がどうなったかなんてわかってしまった。それだけの歓声がベンチの奥まで届いてきた。三間が天高く突き上げる腕を見て結末がわかってしまった。


 まだ三点あったとか、そんなことは関係ない。五回以降は十点差が着いた時点でコールドが成立する。三間を讃える声がそこら中から聞こえてくる。


 まるで一年前の井上を見ているようで、俺の心は更に乱された。


「……片桐、整列だ」


「はい……」


 監督に言われてタオルを置いてホームベースに向かう。


 劇的な幕切れ。帝王の地力を見せる一年生の主力が決めた試合。前評判通りの結果。


 凡人が努力をしても無駄だと見せつけられたような一方的な試合。


 そうとしか思えないスコアだった。


「12-1、帝王学園。ゲーム!」


「「「ありがとうございました!」」」


 秋大会でも激打帝王に偽りなし。それが次の日にネットに掲載された記事だった。


 ナックルを投げた俺のことなんて、どこにも書かれていなかった。


────────


 帝王の帰りのバスで。


 彼らは今日の試合を振り返っていた。六回からは投手を代えたこともあってクリーンナップとキャプテンの村瀬以外の選手を入れ替えて戦ったものの、三間が最後満塁ホームラングランドスラムで決めてしまったので出場したのはたったの一回だけになってしまった。


 だから試合直後は三間を褒めていたが、今のバスでは三間を責める声が多い。もっと試合に出ていたかったと、特に出場の機会がなかった千駄ヶ谷はもう少し試合が長く続けば出場機会があったかもと責めているのだ。


 智紀は窓側の隣の席に千紗を座らせて、通路を挟んだ先にいた高宮と話していた。


「今日の試合はキャッチャーのレベルが低すぎたな。ナックルを捕ることばかりに重点があってリードなんてお粗末すぎた」


「ストライクばっかだったもんな。あれってやっぱナックルの数を減らそうとしたからか?」


「だろうな。球数を減らそうとして裏目に出たわけだ。全部ストライクだとわかったらこっちは意識をゾーンに向けておけばいい。投手が代わってもそうだったからな」


 あえてボール球を投げて逃げるという考えがなかったこと、そしてナックルの時にはランナーがいようが後逸しないようにレガースを地面につけてしまいランナーを完全に無視するという癖を見せていたことが敗因だった。


 その癖を見付けた瞬間ベンチからナックルだとサインを打者に伝えてナックルを待ち、打者は好きに打てたわけだ。魔球と呼ばれるだけあって帝王の打者でも簡単に捉えることはできなかったが、終盤は打てていた。握力の限界が近付いてあまり変化をしなかったためだろう。


 ナックルを捕球できるようにするのは凄いことだろうが、そればかりに意識がいってしまい他が疎かになってしまうのは実践レベルにキャッチャーの実力が到達していないということだった。


 ピッチャーの実力がいくら高かろうが、キャッチャー次第で活躍できるかどうかが変わるわけだ。たとえ150km/hの豪速球を投げられようとキャッチャーが捕球できなければ意味がなく、今回のようにキャッチャーが球種を教えてしまうようなことがあれば強い学校は看破して咎めてくる。


 今日の良かったところなんて、ナックルを経験できたことだけだろう。ナックルを除けば甲子園に出ていた投手の方が実力は上だった。だから甲子園経験組からすれば凄いとは呼べなかった。


「高宮君は打てて良かったわね。公式戦初ヒットおめでとう」


「ありがとうございます。でも智紀には負けますよ」


「リードが単調だったから打ちやすかっただけだ。ストレートが打たれたら変化球、変化球がダメだったらストレート。わかりやすすぎだろ」


「来週の土曜日は大久保君が先発。アンタはその次の日曜日。この一週間、ちゃんと調整しなさいよ」


「わかってるよ。先輩が休ませてくれるんだから、万全にしておく」


 バッテリーとマネージャーは次のことを考えているが、バスの中ではまだ三間を責める声が大きい。それどころか三間が悔しかったらホームランを打ってみろと煽り返す始末だ。売り言葉に買い言葉で騒ぎは大きくなる。


 試合が終わっても元気なのはイニングが少なかったことと、歯応えがなかったからだろう。帰ってからも練習をするつもりだ。


 次の相手はもうわかっている。加賀商業、篠原という有名なサウスポーを擁する強敵だ。

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