1−1−3 夏休みは家族でゆっくりと
次の日の朝。四人で電車に乗って横浜に向かった。電車で一時間ちょっと。それくらいの時間で行けるからそんなに遠いなんて思えない。夏休みで平日だったからそこまで電車も混んでいなかった。通勤ラッシュの時間は避けたからスーツの人は少ない。
母さんは朝怠そうに起きてきたけど、美沙が気を利かせてしじみのお味噌汁を作っていたようでそれを飲んだら割と復活していた。母さんはあまりお酒が強くないらしい。そもそも飲む姿もあまり見ない。
そんな母さんも今はバッチシメイクをして芸能人だと誰にもバレていないっぽい。それでも母さんと千紗姉、美沙の容姿から注目は浴びている。そこに男が俺一人だからなあ。男女比率的にも目立つのは仕方がないかもしれない。
電車で揺られていると、私服ながら多分高校生の女子二人に話しかけられた。
「あの!もしかして帝王の宮下君ですか?」
「え、はい。そうです……」
「甲子園見ました!記録を樹立したとか!」
「いや、二回戦のはタイ記録なので単独記録じゃないんです……」
「そうなの?でもすごいことには変わりないよ!歳下なのにすごいなあ」
甲子園をたまたま見た人だろうか。休みだから出掛けたらたまたまテレビで見た人がいたから話しかけてきたって感じだろうか。
そんな長話をするわけでもなく、ちょっと話したらすぐに同じ車両の離れた場所に移動していった。二回戦の夜はニュースでずっと奪三振記録のことをスポーツニュースでやってたらしいし、いくつかのスポーツ新聞にも一面で載った。
だから俺も顔が知られているらしい。甲子園効果って凄いな。
そして女子に話しかけられたからか、頬を膨らませている姉妹が。その様子を母さんはクスクスと笑っている。
「えー。アレもダメなのか?さっきの人たちはファンでもなくて、ただ有名人に会ったから話してみようって思っただけの人だろ」
「ダメっていうか。肯定するのがダメ」
「いや、バレてるのに誤魔化してどうするんだよ。千紗姉」
「他人の空似って言えば良かったのに」
「それで誤魔化せたら苦労しないぞ、美沙」
本当にブラコンだなこの二人。俺は別に二人が見知らぬ男性に話しかけられていても嫉妬したりしないはず……。けど心配はしそうだ。言い寄られていたらどうしようとは思うかもしれない。
「千紗も美沙も我慢なさい。智紀なんてこれくらいで終わらないわよ。春紀さんも社会現象一歩手前だったんだから」
「そっかぁ。智紀はそこに母さんと喜沙姉ブーストがかかるわけで……。こんなのボヤでもないか」
「ここから酷くなりそう……。お兄ちゃん、本当に気を付けてね?」
何を気を付けろと言うのか。あんな短い会話でダメってなったら梨沙子さんと食事に行ったことは話さない方が良さそうだな。
正真正銘、三姉妹以外と初めて出掛けたわけで。しかも食事。話したら面倒なことになりそうだから絶対言わないでおこう。
冷静に考えるとアレが初デートになるわけか。デートって言うよりはお出掛けでしかないけど。三間がやたらデートデートって煽ってくるからそう認識しちゃってるな。
「多分一過性のものだし、すぐに落ち着くだろ。……ウチの女子生徒以外」
「それが心配なの。ホント、そこだけは帝王ってダメだよね……。千紗ちゃんじゃ防波堤にならないし」
「入試に面接とかないから、試験さえパスしちゃえば追っかけのような女子はいくらでも入れちゃうのよ。あたしがマネージャーだからってあの数を抑えるのは無理。当分は引退した三年生目当てで智紀への注目は減るでしょうけど、秋大会が始まればまた元に戻るだろうし」
女子がそうやって動くからウチの野球部は彼女ができないんだ。しかも擦り寄ってくるのは将来のお金とかプロ野球選手の妻っていうステータスが欲しい女子ばかり。
地獄かな?
帝王でまともな恋愛なんてできないんじゃないだろうか。
千紗姉と美沙の機嫌が悪くなるというイベントはあったものの、横浜には無事に着いた。そこからバスに乗って父さんのお墓があるお寺に行く。
お寺自体はそこまで大きくない。でも宮下家のお墓がここにある。父さんだけじゃなく父方の祖父母も、曽祖父たちも同じお墓にいる。ずっと横浜に住んでいる家系で、父さんがプロになって本拠地が埼玉になってもこっちのマンションから新幹線で通っていたほどこの土地に愛着があったらしい。
中継ぎの頃は登板日が多かったために埼玉で暮らしていたらしいけど、先発ローテに入って母さんと同棲をし始めた頃からは横浜で暮らしていたとか。
そういう事情もあって小学校の頃はこっちに住んでいたわけだ。母さんも仕事なら東京に通えば良かったらしくて俺は物心が着いた頃から横浜で生活していた記憶しかない。
今では東京に住んでいるけど、根は神奈川県人なんだよな。
お寺があるからか近くに花屋があって、そこでお供え用の花を買って境内に向かう。
「智紀、水汲んできて。花とかお線香はこっちでやっておくから」
「指への気遣い、ありがとうございます」
母さんもこういうことは徹底している。美沙も俺に何もやらせてくれないが、墓参りでもそうだ。花で指を切ったり、線香に火をつける際に火傷しないようにと母さんが色々やってくれる。
ライターじゃなくてチャッカマンなんだから火傷なんてしないと思うんだけど。花だって店員さんが綺麗に切ってくれてるだろうし。
そう言ってもやらせてくれないから俺は桶に水を汲む係だ。それで花を挿す容れ物とお湯呑みに水を入れて、墓石へ水をかけるのが俺。
暮石の掃除は美沙が。周りの掃除を千紗姉がする。喜沙姉がいる時はお隣の掃除とかをしていることが多い。今日はいないからそこまではしない。
一通り掃除を終えて線香をあげる。手を合わせた際に、やっぱり残念に思ったことを心の中で思ってしまった。
(もっと野球を教えてほしかったな。亡くなるのが早すぎるよ、父さん……)
キャッチボールをして、何回かバッティングセンターに連れていってもらって。父さんと野球をやった思い出なんてそんなものだ。
当時俺は三歳、美沙なんて二歳だ。美沙なんて父さんのことをあまり覚えていないと言ってる。物心が付く前だとそんなものだろう。美沙が覚えているのは俺とキャッチボールをしていた父さんだけ。
試合とかも見に行ったけど父さんの調子も良くなかったことからあまり覚えていないとか。俺が見た最後の試合は負けていた。
最後のプロでの勇姿がそれでも、父親として尊敬していた。病に負けてしまったけど父親として家族を愛してくれていた。美沙に対しても凄く甘やかしてたし、それを覚えていない美沙が可哀想ではある。
覚えていないながらも美沙は父さんのことは普通に好きだと言っているし、こうやってお墓の掃除も一生懸命やっている。俺も又聞きの話は多いけど、それでも父さんのことは好きになる要素が多い。
だからこそ。
(父さん。甲子園に行ってきたよ。やっぱりあそこは格別だった)
線香を供えながらその報告をする。
これだけは家族の中で共有できるのは俺だけだ。
あの聖地の、マウンドに立った人だけの特権。あの場所で感じた高揚感を、勝利の味を分かち合えるのは俺たちだけだ。
(甲子園の話もしたかったし、お酒を飲んでぶっちゃけたりとかしたかったなぁ。父さんの甲子園の話とかも聞きたかった。聞いてたのかもしれないけど、覚えてないからな)
そのことを本当に残念に思いながら。
夏まっ盛りの空に小さな煙が昇るのを見続けた。
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