3−3 小学生の場合

 小学生の時、智紀は虐められていた。低学年の時はまだ良かったが、上級生になった頃には酷いものだった。


 片親というだけで哀れみの目を向けられ。親が元プロ野球選手と元アイドルということで、親の嫉妬に子どもが巻き込まれ。子どもも裕福な家庭を妬み。恵まれた環境があったから野球も運動もできるんだと敵対し。学年を超えて活躍する智紀への目線は憧れではなく敵意に変わっていった。


 始まりはリトルリーグで同じチームの子がやめたことだっただろう。智紀ばかり試合に出してもらい活躍して、自分は出してもらえない。それが嫌だと。習い事としてやらせていた、いわゆる教育ママがこのことに怒り、監督に突っかかったのだ。元アイドルの子どもだから贔屓にしているのではないかと。親からお金か何かをもらっているのではないかと。


 これは言いがかりに過ぎなかった。リトルリーグの監督は公平な人で、智紀の母紗沙は献金などを一切行ったことはない。月謝をきちんと払っていただけ。これが言いがかりだと当時のチームメイトにもわかっていた。智紀の実力はその当時から突出していて、五年生でも六年生を押しのけて試合に出てもおかしくないほど。


 むしろ六年生がエースを譲ったほどだ。それでしっかりと試合に勝っていたのだから、実力は誰もが認めていた。智紀が背番号一をつけていることに文句を言う人間は敵チームだとしても一切いなかった。親の血だろうが才能だろうが、チームで一番の実力だからエースになっていただけ。


 それに智紀は幼少から千紗と一緒に相応の努力をこなしてきた。今も続けている日課を、当時の身体能力に合わせてやっていた。誰よりも野球に真摯で真面目だった。その結果が現れていただけなのに。


 辞めた同級生の実力は、それはもう習い事に来ていただけの実力で、県大会に出るようなチームではベンチに入れるわけもなかった。五・六年生は相応に人数がいて、それで練習がある日にしかボールとバットを触らない人間が試合に出られるかと言われたら、無理だ。いつか辞めるだろうとは、薄々誰もが勘付いていた。


 熱意が違いすぎるのだ。県大会に出るということは地区で一番強いチームということ。そこで習い事のような、誰もが試合を経験して、ただ和気藹々と野球をやってハイおしまいというノリでは通用しなかった。そういう人間はそういうチームに行けば良かったのに、ただ家から近いからとここを選んだ教育ママの失敗だ。


 そして、そんな言いがかりが学校にまで広がってしまう。学校ではリトルリーグのことなんてわからない。一人の少年が、智紀のせいで辞めてしまったということだけが広がっていく。


 そこからは一直線だった。物が隠されるのは当たり前。陰口に、物を投げられる。無視されるなんて可愛い方だった。それこそ、そんな血も涙もない極悪人はやっつけようという子ども心ながらの正義が行きすぎて、怪我をしたこともあった。


 そこまで行ってしまったのは、そんな虐めに遭って信じられるのが家族だけになったから。その頃は同じ学校に千紗と美沙がいたために、二人と一緒に帰っていた。そのことも悪くなる要因になってしまったのだろう。千紗も美沙も小学生の頃から美少女で人気があった。告白しても付き合えない高嶺の華。


 そんな二人が、悪逆非道な、人の心をなんとも思わない存在と一緒に帰るというのが許せなかった。二人は素晴らしい人だというのに、その二人と同じ血が流れている智紀は何故そうも違うのかと。


 二人に告白した男子が輪をかけて暴虐に出た。弟だからって、兄だからって。それだけであの人に庇ってもらえて。恥を知れ。


 智紀はわけがわからなかった。何一つ変わらず生活をしてきて、家族と楽しく過ごせて。大好きな、父との思い出である野球を楽しんでいて、褒められて。それだけで良かったのに。悪いことなんて何もしていなかったはずなのに。


 学校の小学生は誰も智紀のことなんて気にしなかった。十歳前半の子どもに道徳が身についているはずがない。虐めはダメだと言って終わるのであれば、この世から虐めはなくなっている。大きくなりすぎた事態を教職員も止められなかった。


 小学生は、自分たちの正義感に則って智紀を粛清しているのだから。彼らも、悪いことをしているという自覚がなかった。


 決定的だった出来事は、一人の少女の一言だった。その少女もきっと、自分の正義を信じてやった行動だったのだろう。


「宮下君、みんなに謝ろう?そうすれば、みんな許してくれるよ」


「は?」


 その返事はとても低い声だった。言われた智紀は何を言われたのかわからなかった。


 学校に持ってきていたグローブがハサミで引き裂かれた。教科書だろうがノートだろうが、隠されるか切り刻まれる。筆箱の鉛筆はへし折られる。机や黒板に悪口が書かれる。すれ違いざまに暴言を吐かれる。汚い雑巾を投げつけられる。ぶん殴られる。姉妹と比較される。自分だけが悪いことのように言われる。


 まさしく野球をやっていただけ。それだけなのに、いきなりこう変わってしまった。


 汚いことなんてしたことがない。相手を怪我させたこともないし、暴言を吐いたこともない。自分の実力でエースになった。エースになるために練習を毎日してきた。


 それが悪いことだったら、良いこととは何か。


「誰に、何を謝れって?」


「だから……」


「俺が、何か悪いことしたか⁉︎やったのはお前らじゃねえか!こんなわけわかんねえこと書いて、俺のグローブ八つ裂きにして!練習に不真面目で辞めた亀田に俺が、何を謝るんだよ⁉︎勝手に辞めただけじゃん!俺が亀田を虐めたか?暴力振るったのかよ⁉︎殴ってくんのはお前たちだろ‼︎」


 我慢の限界だった。何も悪いことをしていないのだから、たとえ酷いことをされても逃げたくなかった。そうして逃げなかった結果がこの地獄だった。


 母に買ってもらった大切なグローブを滅茶苦茶にされて。野球に専念したいから勉強は学校の授業を頑張ろうと思ったらその道具を隠されて。


 殴られて、痛みで大好きな野球もできなくて。家族に心配をかけて。


 何を言っても何も言わなくても、理不尽は続いて。


 その上で、何も知らない奴に、殴ってくる連中に謝れと言われて。小学五年生が我慢できるはずがない。


「絶対に謝らねえし、お前らのこと一生許さねえからな!土下座してこようが、誰を連れてきたって謝らねえ!」


「ひっ!」


 その怒声が怖かったのか、その女子が泣き出す。そのことに正義感の強い男子が、女子を泣かす悪党を成敗するために男子が立ち上がり、智紀をぶん殴った。後になってその男子は、女子を殴る前に正当防衛で殴ったと話したと言う。


「てめえ!女子も泣かせるのかよ!」


「ほら、これだ!いい加減にしろよ!俺だけが悪いって言いやがって!」


 今までは殴られても殴り返すことをしなかった。殴ってしまえば、自分が悪いと認めるようなものだったから。母から暴力はいけないと教わったから。


 だが、この日はもう何もかもどうでもよくなっていた。右手は痛みでボールを握れない。グローブがないせいで野球をする気力もなくなっていた。野球を奪ったのは目の前のだれかだったから。


 たとえグローブを切った奴ではなくても。もう誰でも関係なかった。


 野球に使えない右手で、男子を殴り飛ばしていた。


 智紀にとって、最初で最後の暴力だった。


「いっ、ひぎゃっ⁉︎」


「痛いだろ!そんなこともわからずに殴ってたのか!」


 馬乗りになって、ひたすら顔面を右手で殴っていた。拳を握り、振り下ろす。喧嘩をしたことがなくても、されてきたことだったからどんな痛みがあるかもわかっていた。


 わかっていたからこそ、手が止まらなかったのかもしれない。今まで受けていたものを返すように、一発一発に力が入っていた。


「智紀、やめなさい!」


「止めるなよ!こいつらには、わからせないと!」


「右手はやめて!野球ができなくなるじゃない!」


「野球なんて……野球なんて!」


 千紗が止めたことで、涙を流しながらではあるが、智紀は殴るのをやめた。千紗が智紀を止められたのは、虐めのことを知っていたから休み時間ごとに心配で様子を伺いに来ていたからだ。直接的なことがあれば今度こそ止めようと思った矢先の出来事だった。


 殴られた男子も、智紀も血だらけだったのですぐに病院へ搬送。お互いのことを配慮して、別々の病院へ入院させられた。


 殴られた男子は鼻の骨を折って、智紀は手の筋を痛めていただけだったが、身体の節々の怪我と精神療養のためにしばらく入院することになった。


 智紀が入院するようになってから、紗沙は仕事を全てキャンセルして智紀につきっきり。もしくは学校に呼び出されて事情伺い。


 紗沙がいない時は主に喜沙が面倒を見ていた。ナースでも心を開かなかった智紀は、右腕を固定されていて箸を持てなかったので病院食は喜沙が食べさせていた。


 病室には千紗も美沙もいる。


 教室で流血が起きてしまったために警察沙汰となり、小学校は全学年で休校。


 特に美沙なんて大好きな兄が虐められていただけで学校に嫌気が差していたのに、今回の騒動だ。たとえ学校がやっていたとしても行かなかっただろう。


「智紀。あんた野球どうすんの?」


「ちょっと、千紗ちゃん。今はいいじゃない。トモちゃんも大変だったんだから……」


「喜沙姉、邪魔しないで。退院したら?怪我が治ったら?落ち着いたら?そんな悠長なこと言ってる場合じゃないよ」


 智紀は野球という言葉を聞いただけで両肩を震わせていた。グローブのこと、そして今回の発端になったのは野球だ。


 智紀が野球をやっていなければ起こらなかった事態とも言える。だからこそ、思い出したくもなかった。


 家族全員で、智紀の前で野球という単語を出さないようにという約束をしていた。


 それを千紗は、破ったのだ。


「この程度で辞めることだったの?あんたにとっての野球って」


「千紗ちゃん、この程度じゃないでしょ!トモちゃんが一番大変だったのに、私たちが簡単に口出すことじゃ……!」


 喜沙が声を荒げるところを、全員が初めて見た場面だった。喜沙はおっとりとしている性分だ。喧嘩なんて以ての外。怒ることすら稀。そんな喜沙が怒ることは、やっぱり大事な弟のことだった。


 今回のことを聞いて、紗沙と一緒に学校を休むように強く進言したのは喜沙だ。喜沙はすでに中学生で学校で智紀を守ることはできない。千紗の性格からして守るだろうとも思っていたが、千紗も小学生。学年も違えばどんなことからも守れるはずがないし、それは重荷だとわかっていた。


 だから家なら守れると思ったから学校へ行くことを止めたのに。懸念していた事態が起こってしまって喜沙は唇を噛んでいた。何もできなかったと、自責の念に浸っていた。


 千紗は、助けてあげられた側だ。事態をこの程度で納めてくれたからこそ、嫉妬してしまっている自分も感じていた。喜沙は、そんな心が小さい自分のことが好きになれなかった。その醜い部分が、ここで出てしまった。


 そんな喜沙の心の内に気付いたのか気付いていないのか。千紗は喜沙の隣を抜けて、智紀の入院着の胸倉を掴んだ。


「答えなさい、智紀。あんたにとって野球って何?野球、辞めたい?」


「千紗ちゃん!」


「……もう、嫌だ!俺は何も悪くないのに、皆に迷惑かけてる!こんなことになるなら、野球なんて辞める!」


「誰が迷惑って言った⁉︎あたしも母さんも喜沙姉も、美沙だって!一言でも迷惑って言った⁉︎言ってないでしょうが!この程度、迷惑でもなんでもないのよ。弟が苦しそうにしてたら、いつだって手繋いであげるから。……あんた、何で野球始めたんだっけ?サッカーとかじゃなくて、野球だったのは何で?」


 胸倉から手を離して、問いかける。


 智紀の目から、悲惨さは薄れていた。怒鳴られて、でも慰められて。


 今回の一件で、迷惑をかけたに決まっている。皆泣いてた。だというのに、迷惑じゃないと言い切って。


 だから、野球を始めた理由を思い出した。忘れたままじゃ、いけなかったから。


「……父さんと、約束した。甲子園に出るって。プロ野球選手になるって」


「そうね。美沙は覚えてないかもしれないけど、あたしも喜沙姉も聞いてた。母さんにも話してたわね。……こんな言い方、ずるいと思うけど。こんな形で野球辞めて、父さんに胸張れる?こんなの、あいつらの思うツボじゃない。あんたは何もせこいことやってないでしょ。なら堂々と野球やって、周りの雑音黙らせなさい。あんたは絶対孤立しないから。チームメイトもいるし、あたしらもいるでしょ?」


「…………うん」


 その返事はとても小さかった。けれど、とても意思の籠った返事でもあった。


 この一件で宮下家は横浜から引っ越すことになり、紗沙の仕事もあって東京へ。転校した先で智紀はもう一度野球を始めて、リトルリーグを騒がすことになる。


 この一件が与えた三姉妹への影響は大きかった。たとえ学年が離れていてもやれることをやれるようにと、表からも裏からも智紀を守るためにそれぞれの役割を考え始める。


 喜沙はマスコミやもっと多くの人の力を手にするために母のツテでアイドルへ。影響力のある人物が芸能界にいれば、弟に堂々と虐めをしないだろうという考えから、表から去りつつあった母に代わり矢面に。


 千紗は元気付ける役と、野球そのものの手伝いへ。あとはチームメイトが智紀と馴染むようにそれとなく関わることに。だから気さくで仲の良い姉弟を見せつけて、弟をよろしくと釘を刺す形へ。


 美沙は学校で悪い噂が流れないように人心掌握を。頭脳担当、腹黒くなったきっかけとも言える。智紀が悲しむくらいなら、真っ黒になってもいいからと裏から色々揉み消そうと、アンチの存在を探って潰し始める。もちろんバレないように、合法的に。あと女子で好意を持った相手もそれとなく潰しておいた。


 一時期信頼できる女性というのは家族と、母の仕事仲間くらいしかいなかった。それ以外の人を疑うようになってしまったのだ。だから智紀のメンタルケアが済まない内に恋愛だので心のバランスが崩れないように手を回してきた次第だ。今ではかなり改善されている。


 そして智紀も。家族関係のことについては本当に慎重になったし、嫌われるのが怖いのか三姉妹のワガママを断ることをしなくなった。そんな風に心配しなくても三姉妹が智紀を嫌いになるわけがないのだが。


 東京に来てからは、智紀は周りの人に恵まれたと言っていいだろう。虐めは一切起きず、チームメイトもいい奴ばかり。智紀を妬むことは野球ではなく、美人三姉妹がいることだった。


 今でも三姉妹は智紀のことについてはかなり目を光らせている。今度こそ、同じようなことを起こさないために。


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