1−2 千紗の場合

 シニアの送別式が終わった後。俺は家に帰ってきてから日課をこなしていた。家の庭に併設されているピッチング用ネット。十八.四四メートル離した場所にはピッチング用のプレートが置かれていて、その周りにはきちんと小山が土で作られていた。こんなに俺のために庭が改造されていて良いんだろうか。母さんが好きにしなさいって言ってたし、姉さんたちも良いよって言ってくれたけど。


 日課とはネットに向かって投げ込みをすることだ。ネットにはストライクゾーンを白ガムテープで目印としてつけて、それを九分割。練習で投げ込んだ日は球数制限をするが、練習が一切なかった日は百球投げ込む。もう引退してしまったために練習はない。だから今日は百球だ。U-15はあるので、練習を欠かすことはない。


 いや、実際練習を欠かしたことなんてないんだけど。


 生まれてこの方健康優良児だから怪我も風邪もない。こんな健康な身体に産んでくれてありがとう。


 あ、嘘ついた。流石に台風の日とかはやってないな。そういう自然現象に巻き込まれなければ、欠かさずやってた。


 マウンドの脇に黄色い大きな箱。ここにはきっちり百球入っている。つまりこれを全部投げ込むわけだ。ネットの後ろには千紗姉を控えさせて。


 このマウンド、上には大きな屋根がくっついている。だから雨の日でも平気でできる。嵐の日は無理だけど。こういうところも恵まれてるよなあ。


「千紗姉、行くよ」


「いいわ。まず右打者。内角低め」


 後ろにいる千紗姉に指示されて、そこへ投げ込む。球種は指定されないので、そこは俺が勝手に。


 ワインドアップ──左足を下げて、両腕を頭の後ろへ。左足を前へ持ってくるが、重心は右足に残したまま。腕を畳んで首の近くへ持ってくる。足を下げて身体を深く沈める。グローブをつけた左手を前へ伸ばしてから勢い付けて胸元へ。その勢いと共に右腕を振るう。オーバースローではなく、斜めから抉るように手首を立てて。ボールを離す瞬間、残っていた右足を蹴り上げる。


 ズバァン!


 ネットにボールが突き刺さり、反動で近くに転がる。注文通りの場所へ、ストレートを。


 身体に違和感なし。きちんとストライクゾーンにも行ってる。スピードも回転も問題ないだろう。千紗姉も何も言ってこないし。


 千紗姉は運動神経が良く、目も良い。回転が悪かったらすぐ言ってくるし、投げ方もおかしかったらすぐ言ってくれる。下手な人に言われるより、千紗姉に言われる方が信用できる。


 それから言われるがまま、投げ込む。新しい変化球を試しつつも、U-15でヘマをしないように調整をしていく。新しい変化球はオフシーズンに試すのが一番良いんだけど、試したくなるお年頃だから仕方がない。


「全然ダメ!全然落ちてないよ!それ禁止!」


 とまあ。止められる。シニアを引退したからちょうど良いかなと思って試したらこれだ。千紗姉はこんなことに付き合わせてるし、怒ると面倒だから素直に言うことを聞こう。


 だけど、何の相談もなく新しい変化球を試したのがお気に召さなかったのか、椅子に座ったまま肘をついてブスっとしてる。それでも顔は美人なんだからウチの姉は凄い。


「左打者。アウトコースにボール一個分外すストレート」


 指示が細かい。それに球種まで指定されるのは稀だ。それだけお粗末なものを見せたってことだろう。今日一のものを投げないと。


 すでに五十球を超えていたので、セットポジションで投げている。足を上げて、しっかりと指定された場所へ。ワインドアップの時と変わらないストレートを。


 今のが良かったか、採点を待つ。千紗姉はうんと大きく頷いた後、目を張るほどの良い笑顔を浮かべてくれた。


「満点。せっかく代表に選ばれたんだから、無茶なことしないの。今のストレートなら高校生でも滅多に打てないよ。しっかり調整しなさい」


「いや、今のボール球……」


「づべこべうるさい!その調子であと二十八球!」


「はいはい」


 それからクイックも混ぜてきっかり百球投げきる。新変化球はU-15が終わるまでダメそうだな。国際大会ってボールもマウンドの土の硬さも違うから、本番はあっちに行ってからだろうけど。


 投げ終わったボールは二人で回収する。ボールがきっかり十個入るボールケースがあり、それを十個使って回収する。こうすると一ケースで十個だから計算しやすいんだよな。重宝してます。


 千紗姉は今日みたいに見ているだけの時もあれば、プロテクターをしっかりつけてバッターボックスに立ってくれる時もあれば、スピードガンで計測したりカメラで映像を撮ってくれる日もある。それで反省会をやる。ボールを回収しながら。


「ストレートの調子はいいね。でも、だからこそ新しい変化球はやめておきなさい。握力は足りてるのかもしれないけど、ここでフォーム崩したら元も子もないんだから」


「だよな。気を付ける」


「あと。今日発売になってたベースボールクラブ。見ておきなさい。軟式野球の方でちょっと問題があったから」


「軟式?ってことは部活の方?」


 千紗姉はよく喜沙姉に小遣いをせびって野球雑誌を買ってくる。喜沙姉が買ってきてくれればいいんだけど、喜沙姉に任せるとプロ野球のことしか載っていない雑誌を買ってきたり、雑誌を買いに行く暇がなかったりとミスが目立つので詳しい千紗姉が買ってくることになっている。


 めぼしい高校球児や中学球児、シニアやボーイズ、部活の情報が手に入るので定期購読しているんだけど。たまに俺も取材されて記事が掲載されてるし。


「良いこととしては、二代目野球小町が紹介されてたわ。結構可愛かった」


「野球の実力は?」


「成績見る限りではそんなに。初代のあの人がおかしいのよ。女子で普通120km後半とか投げないの」


「確かに」


 初代野球小町は本当に話題になった。軟式野球とはいえ完成されたピッチング。女子なのに男子でも上手い方に分類される野球総合力。軟式野球で県選抜に選ばれるほどだった。


 そしてその外見も有名になった要因だ。とてつもなく綺麗な美少女。千紗姉の一個上で、喜沙姉とは方向性は違うけどタメ張れるほどの綺麗な人。


 その野球小町のおかげで小学生女子の野球普及率が上がったのだとか。良いことだ。


 その野球小町に、二代目がいるなんて露ほども知らなかった。軟式野球だからだな。俺はシニアで硬式だから会うことがない。


「千紗姉も運動神経良いんだから、野球やれば良かったのに」


「あたしは見る専門。練習のサポートはいくらでもしてあげるけど、やるのは専門外よ。運動神経良いからって球技ができるわけじゃないんだから」


「あー。サッカーとか酷いもんな」


 そう。千紗姉は球技はてんでダメ。ハンドボール投げとかそういう一つの物なら結果を出せるんだけど、ルールが絡むとまずどうにもならない。細かい調整とかできないからドリブルのつもりが変な方向に吹っ飛ばす、バスケでパスを出そうとしたらコントロールが効かない、バレーはアタックしたらコートに入らない。そんな感じでダメだ。


 運動神経だけなら負けてなさそうだけど。


 その野球小町も高校では野球をやらずに吹奏楽部に入っているらしい。弟に甲子園に連れて行ってもらうとか何とか。既視感あるのはあっちも姉で弟が野球をやってるからだ。


 弟さん、俺と同い年じゃなかったか?それに進学したのは千葉の習志野学園だった気が。甲子園常連校じゃん。弟さんベンチに入れるかもわかんないのに。


「んで。悪いことは?」


「事故、だと思うんだけど。千葉第三中学校のエースの子が右肩を試合中に怪我したんだって。どうなるかわからない怪我で、親御さんが取材拒否だって。あんたはそうならないように、試合中も気を付けなさい」


「……わかった。千葉第三中ってすごいバッテリーがいて、ベンチメンバー揃ったのが春なのに全国出たとこだろ?」


「そう、そこ。野球小町がいた中学校」


 それは本当に悲しいニュースだ。軟式とはいえ凄い投手だった、市原。どこに進学するのか気になっていた選手の一人だ。千葉の有力選手は基本的に習志野学園に進学するけど。


 心配だ。特に投手の右肩。再起してくれると良いけど。才能ある人が事故で脱落するのは辛いことだ。どんな事故だったかわからないけど、彼の過失じゃないだろうから、余計に悔やまれる。


 ボールも集め終わったら、次はシャドーピッチングだ。これは柱につけられたチューブを使う。


 ただ、右腕は使わない。右投げだけど、チューブは左腕で行う。これは故障をしないための運動法で、右側で行ったことと同じ行動を左側でも行うことで、身体負荷を同量にすることとバランスをつけることで筋肉が同量つく。右側ばかり使っていたら右側だけ負荷がかかって、すぐダメになってしまう。


 そうならないように、全く同じとはいかないけどほぼ同じ動作をする。さっきの話を聞いて余計に身体のことは大事にしようと思った。身体は資本だ。その身体がダメになったらどうしようもない。


 チューブを引き終わったら、今度は素振りを。DH制があるわけじゃないんだから、学生野球は投手も打席に立つ。U-15でも外野手として出場するかもしれないということだったので、バッティングはできるようにしておいたほうがいい。


 トスバッティングをしてもらう時もあるけど、今日は素振り。これも右打席左打席均等に。ロードワークに行った日はトスバッティングをしないことにしている。自主トレに全部千紗姉を付き合わせるのは正直気が引けるのだが、本人がやると言うので何も言わない。


「あたしは甲子園に連れてけなんて言わないからさ。健康に野球やって。それで結果がついてくればいいんだから」


「耳にタコができるほど聞かされてるから。俺が倒れたら家族揃って心配するでしょ?」


「当たり前じゃん。お父さんが早く亡くなったんだから、他の家庭より余計に心配するよ。健康第一」


 そうなってしまうのは仕方がない。父さんは物心ついた頃には病死。美沙なんて父さんのことほとんど覚えてないんじゃないか?そういうわけでウチはとにかく健康にうるさい。過保護だと思う。


 素振りが終わると、千紗姉が肩に頭を置いてきた。他の二人ならボディタッチも珍しくないけど、千紗姉がするのは珍しい。肩はよく組むけど、それ以外となると本当に珍しいことだ。一年に一回あるかないか。


「夏だし、汗かいてるから臭いよ?」


「いいの。……智紀。あんたは楽しんでね。辛い顔のまま野球やったら許さないから」


「何でそんなこと言うんだよ?千紗姉らしくない。俺は姉妹に囲まれて、野球をやれて幸せなんだから。何心配してるんだよ?雑誌に感化された?」


 らしくないからか、千紗姉の頭を撫でてしまった。いや、頭の位置がちょうど良いというか。珍しいことされたから俺も滅多にやらないことをやってしまったというか。


 美沙にはよくやってるから、条件反射的に動いてしまった。


「先に戻ってるからな?風呂入ってくる。千紗姉も早く中に入ってこいよ」


「うん」


 生活ルーティーンが決まっているからか、練習が終わる頃には風呂ができている。美沙には頭が上がらないな。汗かいたらすぐに流したいし、千紗姉も汗かいてると思うけど、いつも俺が先でいいって言うから、お言葉に甘えてしまう。



「……ウヘヘェ〜。智紀に頭撫でられちゃった……」


「お姉。すっごいだらしない顔してるよ?」


「あ、見てた?智紀ったらお姉ちゃん大好きなんだから〜」


「別に羨ましくないし。わたしよく撫でてもらってるもん」


「美沙、嫉妬?」


「わたし、まだお兄ちゃんと半年以上学校生活一緒に送れるもん。お姉には無理だもんね?」


「あんたもあたしも二年っていうのは変わらないのに、自慢されても……」


「最初にニヤけて自慢してきたのお姉だよね?」

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