第22話 聖獣


 王宮の広大な庭の中には湖があった。


岸辺から短い木の桟橋が一つだけ水の上に突き出している。


鳥の声もしない静寂の中、国王陛下は真っ直ぐにその桟橋の突端へと歩を進めた。


ひと一人しか通れない。


僕は岸辺で待つことにした。


「聖獣フェンリル様、お会いしたいという子供を連れてまいりました」


深く礼を取った陛下。


しばらくして陛下の前、湖面の上に一体の巨大な白い狼が現れる。


あれがフェンリル。


背筋を寒気が走る。 さすが聖獣様だ。


長時間、傍にいたら浄化されかねない。


しかしローズのために、僕は指一本でいいからその実体に直接触れなければならない。




 自分の身体を確認する。


魔物としての綻びはないだろうか、ちゃんと人間であると認識されているだろうか。


大丈夫、この距離ならばきっとまだ見破られてはいないはずだ。


あまり時間は掛けられない、行くぞ。


「わああ、聖獣様だ……」


僕は足をふらりと一歩前に出す。


湿った湖の岸辺に生えた草に足を滑らせ「わああ」と、声を上げながら水に落ちる。


「イーブリス!」


バシャン!




 さすが王宮の庭だ。


湖の水は澄み渡り、遠くまで見通せる。


人間の子供でしかない身体が静かに沈んでいく。


少し手足をバタつかせてみる。


【仕方ないのぉ】


一瞬、視界が白い毛でいっぱいになる。


「あ、ありがとうございます」


水から引き揚げられた僕は、フェンリルの口に挟み込まれていた。


その牙に手で触れる。


ああ、これが聖獣か。


身体中の魔力を集中し、シェイプシフターとしての能力でフェンリルの情報を写し取る。


【何をする!】


「うふっ、うふふふ、あはははは」


やった、これで僕はフェンリルにだってなれる。




 どさりと土の上に落とされたのが分かった。


【お前は何者だ】


フェンリルは怒りと戸惑いの声を上げる。


国王はまだ桟橋の上で驚いて固まっていた。


ここからだと声は聞こえないだろう。


「僕はシェイプシフター、そして公爵家の孫だよ」


ごほごほっと水で咳き込みながら答える。


【シェイプシフター、だと?】


「うふふ、こんなところで人間に匿われてる聖獣様は知らないだろうけどね。


魔獣や魔物は人から迫害され棲む地を追われているんだ」


僕は寝そべったまま息を整える。


【当たり前であろう、人に害をなすものだからだ】


聖獣様が僕との会話に乗って来た。


「それは嘘だね。 魔物は何から生まれるの?。 瘴気だよ、人間のね」


そして獣から発生する瘴気は、人間に対する恨みから生まれるのだ。


聖獣様は【むう】と唸った。


王宮に棲むフェンリル様が城内に湧き続ける濃い瘴気に気付いていないはずがない。


「魔物を生み出しておいて、それを悪だと狩るのは違うんじゃないの?。


狩られるのは瘴気を生み出す人間のほうだよ」


そう言ってニタリと微笑む。


怒りを顔に出してはいけない、陛下に気付かれる。




【では、シェイプシフターよ、わしの姿を模して何とする】


僕は笑顔でフェンリルを見上げたまま答える。


「そうだね、まずは僕の友達であるダイヤーウルフを増やす」


【なにっ、わしを使ってか】


「当たり前じゃない、フェンリル様だって元は狼でしょう?」


【わしは狼だが、聖なる獣じゃ】


何だよ、やっぱり獣じゃないか。


「狼であればいい、人間のせいで絶滅しかかっているダイヤーウルフを増やせる」


そして群れの頭は僕が擬態したフェンリル、真っ白な狼ということになるのさ。




 僕はゆっくりと身体を起こす。


「国王陛下に告げ口する?、こいつは魔物だから殺せって」


足元をガクガクさせながら桟橋をゆっくりと陛下が戻って来る。


【わしを脅す気か、このままお前を消し去ることも出来るのだぞ】


「ああ、いいね。 そして聖獣様には幼気な子供を殺したという事実が残る」


国民には知らせられなくとも、友人として慕っていた陛下の中には悲惨な記憶として残るだろう。


自分が連れて来たばかりに聖獣の怒りに触れてしまった可愛い少年。


そして公爵家も黙ってはいない。


王家を潰しにかかるかも知れないよ?。


僕は公爵家の本当の孫としての人間の籍があるのだ。


【ぐぬぬ】


「いいじゃない、たくさんの魔物や魔獣をこの世から消し去って来たんでしょう?。


ダイヤーウルフとシェイプシフターぐらい見逃してよ」


別に悪さをしてるわけじゃないんだからさ。


【わしの身体を使って悪さをしないと誓えるか】


おー、魔物に誓えってさ。 聖獣様が言う言葉かね。




 僕はふらふらする身体で何とか片膝をついて礼を取る。


「聖獣フェンリル様、この御恩、決して忘れないとお誓いいたします」


ニヤリと口元を歪めて微笑む。


聖獣様が嫌そうな顔をしながら渋々頷いた。


「イ、イーブリス、大丈夫か」


陛下がようやく岸辺に辿り着き、僕に向かって駆けて来る。


「陛下、すみません、足を滑らせてしまいました」


申し訳なさそうに顔を俯かせる。


「助かって良かった、すぐに人を呼ぶからな」


「いえ、大丈夫です、歩けます」


僕は立ち上がり、聖獣様に向かって改めて礼を取る。


「お騒がせして、ごめんなさい。 お目にかかれて嬉しかったです」


そう言ってバイバイと子供らしく手を振る。


フェンリル様はふわりとした尾を振って【うむ】と答えただけだった。




 森の出入り口の辺りで、護衛の騎士やスミスさんの顔が見えて来る。


「陛下、あ、イーブリス様?」


「イーブリス様!」


スミスさんが駆けて来る。


「あはは、はしゃぎ過ぎちゃって湖に落ちたんだ」


えへへと笑うと王子までやって来て「大丈夫か」と心配してくれる。


僕のことが気に入らない侍従と文官は忌々し気にため息を吐く。


「やはりまだ早かったのですよ、こんな子供を聖獣様に会わせるのは」


そう言いながらすぐに手配してくれる。


「お手数かけてすみません」


僕たちは建物に向かって歩く。




「イーブリス様、本当に大丈夫ですか?」


「ああ。 お祖父様には先に帰るって伝えー」


僕はスミスさんに寄り掛かるようにして身体の力を抜く。


くそっ、瘴気が足りない。


聖獣様のせいで瘴気が散らされ、魔物としての意識が飛びそうになる。


僕はスミスさんに抱き抱えられ、何処かの部屋に運び込まれた。



◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 聖獣と呼ばれるフェンリルは、シェイプシフターの子供を見送る。


何にでも擬態する魔物。


ここ何十年も見た事も、噂さえ聞いたことがなかった。


この世界のどこにでもある魔力に、人間から発生する負の感情である瘴気が溜まることにより生まれる魔物。


その瘴気が異常に溜まらぬよう散らすことがフェンリルの浄化の力である。


 しかし、人間と関わりを持ち始めてからは魔獣退治が増えた。


人間が困っている、多くの犠牲者が出たと言われると断り切れずに闘い、葬って来た。


その度に聖獣様と崇められ、住み心地の良い土地に何不自由なく暮らしている。




 この地に安住するまでは、各地を転々とし、瘴気と魔力の溜まり場を浄化する旅をしていた。


他の魔獣たちと同じように人間に恐れられ、攻撃されたこともある。


ただ巨大な獣だというだけで。


(あれの言う通りかも知れぬ)


魔獣だというだけで、何の害もないものでも人間は騒ぎ立てる。


険しい山頂、森の奥深く、そんな所に何故、人間は踏み入るのか。


魔獣がいると、危険だと言われていても、そこに何かがあるという欲に目が眩んで侵入して行く。


そして被害が出るとフェンリルが呼ばれるのだ。


(平和を乱しているのは人間の方かも知れぬな)




 何十年、何百年、同じ事の繰り返し。


(わしはずっと孤独だった)


聖獣としての宿命だと分かっていても寂しかったのだろう。


だから人間に頼られることが嬉しくて、棲む場所を与えられて。


利用されているとは思いたくなかっただけ、ではないのか。


(われは本当に聖獣なのだろうか)


誰が聖獣だと決めたのだ。


フェンリルは悩み始める。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る