6・学者

『――なぜ日本にだけ、オニ化しないアカゴが多いのか……世界が注目する視点だった。だがそれも、発症からほんの数週間のことに過ぎなかった。世界中に蔓延したオニ化現象は瞬く間に文明を破壊し、ハガネを滅ぼし、自らを喰い合って沈静化していったのだ。災害に際して必ず発生していた暴動すらも、長期化する余地はなかった。

 追い討ちをかけたのが世界各地での原発の爆発、都市火災の噴煙が加わったことによる世界的な寒冷化、保守するものが消え去ったインフラの崩壊などだ。そこにはもはや、人間と呼べる生物は存在しないかに思えた。それでも生き延びる集団がいたことは、奇跡ともいえよう。

 奇跡の中心こそが、北海道だ。

 ZVはヒトの本能をむき出しにする。日本人の一部だけが、理性を引き剥がされてもなお凶暴化を免れた。その理由は、いまだに分かっていない。それが解明できれば、今後は凶暴化を防げるかもしれない。いったん凶暴化したオニを無害化することも視野に入ると期待したい。

 東日本の生き残りの中には、一縷の望みをかけて研究を進める学者もいる。しかし、多くの機材を失い、電力すらも限られ、しかもオニたちから共同体を守りながらの研究は遅々として進まないようだ。過去の文献や資料の多くも失われている中での、絶望的な作業だ。だが今も、守備隊の庇護を受けながら研究は続けられている。

 無駄かもしれないと知りながらも、止めるわけにはいかないのだ。それが旧世代の郷愁に過ぎないと分かっていても、諦められない。それが人間の業なのだろう。

 もしかしたら、何世代か後の子供たちはその業から解き放たれるかもしれない。その時の彼らが人間と呼べる存在なのかどうか、私には分からない。全く別の、これまで地上に現れたことのない〝何か〟に変わっているのかもしれない。そしてそれが善なのか悪なのかも、私には分からない。

 それを決められるのは、おそらく神だけだ――』


 その記述が頭に浮かんだ理由は、タケルには分からなかった。

 状況は最悪だった。

 2人の人間を乗せてトレーラーを追う馬は、手負だった。銃弾を受けた傷から出血しながらも、恐怖に駆り立てられて逃げているだけだ。だから伝令はトレーラーを追いきれずに遅れをとり、オニに撃ち殺されたのだ。

 タケルたちにとっては、僥倖だった。

 馬がいなければ、脱出の手段はなかった。伝令が死ななければ、逃げ出す時間は稼げなかった。しかも牛馬の扱いに馴染んだタケルでなければ、その馬を落ち着かせることすらできなかっただろう。

 ナナミもまた、タケルとの2人乗りには慣れている。頭数が充分とはいえない馬を効率的に運用するために必要だったからだ。

 ほんのわずかな、星明かりにも満たない幸運だ。

 それでも、生き延びるチャンスであることに変わりはない。

 トレーラーの気配はとっくに消え去っている。線路に沿って逃げているだけだった。

 数キロ走って、追手は振り切った。分厚い森は少し前に途切れ始めた。それに代わって崩れて荒廃した建物が増えてきたことから、青森市街に入ってだいぶ経つことも分かる。線路を離れて市街地に入っていく。

 だが、人の気配は感じられない。

 そしてついに、馬の生命力も尽きた。

 息を荒らげ、走る速度は極端に遅くなっていたが、不意に足をもつれさせて転倒した。タケルはナナミを守るようにして地上に転がった。

 ナナミの傷は深くはないようだが、出血もまだ完全には止まっていない。治療をする余裕すらなかったのだ。健気に痛みに耐えているが、苦痛は尋常ではないはずだ。

 それを表す言葉を知らないというに過ぎない。

 おそらく、倒れる馬のいななきを聞きつけたのだろう。周辺から、いくつかの奇声が湧き出してくる。崩れたビルの中にオニたちが潜んでいたようだ。

 すでに、囲まれていた。オニの群れの中で倒れてしまったのだ。

 オニの脅威は、嫌というほど聞かされてきた。だが、実際に目にしたのは本州に来てからだ。

 泊は、ハガネの勢力圏にエネルギーを供給する中心地だ。当然、オニの襲撃を防ぐ警備体制が厳重に敷かれている。本州からの単発的な攻撃が年々増していたとはいえ、その多くは道南の沿岸部だ。防衛隊の最大の任務は、食料生産を担うタケルたちにオニを近づけないことなのだ。

 だからタケルは、本当のオニを知らなかった。守られていたのだ。

 だが、ここに兵士はいない……。

 逃げ場がない。なのに、混乱したタケルの脳裏にノートの記述が浮かぶ。

 オニとは一体何者なのか――

 神が作った存在なのか――

 それならば、悪ではないのか――

 人間を喰らう存在にどんな意味があるのか――

 神がいるのなら、何を望んでいるのか――

 だが、考えている暇はない。考える意味もない。

 タケルはナナミを引きずるようにして、一番近くの崩壊したビルに走り寄った。腰には唯一の武器の拳銃がある。とはいえ、月明かりだけを頼りに、敵の人数も分からないまま銃弾を無駄にするわけにはいかない。予備の銃弾もない。そもそも、銃を撃った経験すらない。

 と、壁の影から1人のオニが飛び出してくる。その姿が、か弱い明かりの中に異様に鮮明に浮かび上がった。

 獣のような強烈な臭気、文明を感じさせないほどに汚れて傷んだ衣服、片手にかざした大きなコンバットナイフ、そして目に浮かんだ殺意。

 彼らの姿は浅ましい。獣より、浅ましい。

 それでも、人間ではあるのだ。

 人間とは、一体なんなのか――

 反射的な反応だった。

 タケルはナナミを庇いながら2発の銃弾を放った。オニの頭を撃ち抜く。背後に脳漿が飛び散るのを感じた。命中したのは偶然だ。考える間もなかったから、体が勝手に動いたにすぎない。

 銃を撃った自分に驚いて、初めて反動を意識した。腕に、衝撃が残っている。

 しかし、驚いている余裕もない。オニは1人ではないはずだ。銃声がオニを引きつけているに違いない。

 周辺に奇声が増える。このままでは囲まれる……。

 一瞬の判断だった。

 倒れた馬はまだ近くにいた。馬の胴体に、2発の銃弾を打ち込む。銃口が跳ね上がり、またしても腕に衝撃が走る。馬は、断末魔のうめき声を上げた。

 と、オニたちの関心が対象を変えたようだ。もがき苦しみ、足をばたつかせる馬の声に引き寄せられていく姿が見えた。食糧を求めている。

 抑制しがたいオニの習性だ。

 タケルはナナミを抱えるようにして廃墟のビルに走り込んだ。入り口周辺には、崩れた壁が瓦礫となって散らばっている。まだ天井が残っているのが不思議なぐらい荒れている。

 足がもつれる。息が上がっている。恐怖ためか興奮のためか、単に動き続けたためなのか、分からない。初めてオニを殺した衝撃も、他人事のようだ。

 ただ、生き延びることしか考えられない。

 振り返ると、オニの群れが倒れた馬に覆い被さっていた。ナイフを突き立て、肉を抉り、貪り喰らっていく。その数は10人を超えているようだった。もしも彼らから逃げきれなければ、タケルもナナミも、そうやって喰われる。

 初めて、恐怖を実感した。心臓を握りつぶすかのような、圧迫感に締め付けられる。

 と、さらにビルの奥から物音が起きた。足を引きずるような音がジリジリと近づく。

 タケルは足を止めた。肺の酸素が、干上がっていく……。

 暗いビルの奥からぼんやり浮き上がったのは、巨大なオニだった。一部分が崩れた天井から差し込む月明かりの中に、その姿を現す。

 ボロボロの衣服を体に巻きつけたような、人間離れした〝何か〟だ。

 背中を丸めて棍棒を引きずっている。盛り上がった筋肉が重くて仕方がないというように、肩で息をしている。手負なのかもしれない。だが、背筋を伸ばせば軽く2メートルを超えそうだ。膨大な質量を感じさせる。

 まるで、異種の生物だ。発症者の中には、身体に異変を生じるタイプもいるのかもしれない。

 勝てない……。

 それがタケルの直感だった。しかし背後は、死んだ馬に群がるオニの集団に塞がれている。

 逃げられない……。

 右手の拳銃と左手のナイフを突き出して、座り込んだナナミの前に出た。脚が震え、腰が引けているのを感じる。何発の銃弾が残っているか分からない。銃声を起こしたら、背後のオニが襲ってくるかもしれない。

 どう戦うか――。

 その瞬間だった。

 オニは跳ぶようにしてタケルの目の前に迫った。

 タケルの脇腹に衝撃が走る。棍棒で吹き飛ばされたのだと分かったのは、反対側の壁に叩きつけられてからだった。体が地べたに落ち、力が消え去っていく。肺の酸素は、とっくに空になっている。

 座り込んだまま、動けない……。

 オニが手を広げ、タケルの頭に手を伸ばそうとする。鷲掴みにされたら、脳が砕かれるかも知れない。

 死を覚悟した瞬間だった。

 いつの間にか立ち上がっていたナナミが、タケルの前に出た。両手を広げて、オニを防ごうとしている。タケルから、ナナミの肩が血塗れなことがはっきり見えた。

 もはや、銃声を気にする場合ではない。

 タケルは命じた。

「ナナミ! どけ!」

 そしてナイフを捨て、両手で銃口を上げる。

 間に合わなかった。

 オニは棍棒を捨てて両手でナナミを捉えた。下手に撃てば、ナナミを貫いてしまう。銃を握ったのも初めてのタケルに、オニだけを撃つ技術があるはずがなかった。

 ナナミが振り返ってタケルを見る。

「にげて……」

 タケルは必死に立ち上がろうとした。横に出られれば、オニだけを撃てるかもしれない。

 だが、立てない……。

 両足にも腰にも、力が入らなかった。

 その姿を見て、オニが笑う。タケルには、明らかに嘲笑ったように見えた。オニには、感情もあるのだ。

 それを、感情と呼ぶなら――。

 外には、馬を喰らうオニたちの叫びが満ちている。たとえこの場から逃げたところで、どうせ彼らに喰われる。それなのに――。

 這うことすらできない……。

 そしてオニは、血が滲むナナミの肩に齧りつこうとした。その瞬間、オニの薄ら笑いが消えた。ナナミを傍に押しやるようにして、前のめりに崩れた。

 ナナミが震えながらオニから離れる。

 オニがいた場所に、月明かりを浴びた男が立っていた。

 崩れたオニの後頭部には、大きな斧が深々と突き刺さっている。男はオニの背中を踏みつけ、頭から斧を抜く。そしてナナミの手を取った。タケルに小声で命じる。

「立て! 死にたくなければ、立て!」

 タケルは必死に立ち上がった。ガクガクと震える足で男に近づく。

「誰だ……?」

「ありがとう、が先だろう?」

「ありがとう……喰われるところだった……」

「ついてこい」

 男はナナミの手を引きながら、ビルの奥へと入っていった。

「どこへ?」

「しゃべるな! オニに気づかれたら死ぬぞ」

 男はそのまま奥へ戻ろうとした。真っ暗な廊下だ。

 タケルは胸の痛みを堪え、ようやく立っていられるだけだ。頭も働かない。精神的にも疲弊している。

 当然、素性も不明な男についていくことに不安を隠せない。それでも、オニを倒した命の恩人であることは間違いない。どうしていいのか分からないまま闇の中に進む恐れが消えない。

 何もかもが分からない。

 ナナミがタケルの手を握る。そして素直に男の後を追っていく。

 傷の痛みに耐えていることは確かだが、恐れは感じさせない。アカゴ特有の優れた直感で、男が危害を与えないことを嗅ぎ取っているようだ。

 タケルはナナミの動物的な勘を信じている。

 男は真っ暗な通路を、壁を伝いながらさらに奥に進む。ナナミは男の服の背中を掴んでいた。もう一方の手は、タケルの手を握りしめたままだ。

 タケルは激しい痛みに耐えながらも、引きずられていくしかなかった。

 彼らは一団となって、何も見えない階段を登っていく。男は内部の構造を完全に把握しているようだった。戸惑うことなく、2階の奥へと進んでいく。部屋の1つに入ると、タケルたちを引っ張り込んでドアを閉めた。

 中には蝋燭の明かりがあった。奥の窓から、わずかな月明かりも差し込んでいる。ようやく視界が得られる。

 そこで、1人の老女が彼らを迎えた。

 老女は言った。

「よかった……救けられたんだね」

 男が血塗れの斧を置いてうなずく。

「すんでのところで間に合った。奴は異様に動きが速かったんで」

 歩み寄った老女が、ナイフを取り出してナナミの迷彩服を切り裂く。肩を調べながらタケルに語りかける。

「あんたはハガネだろう? 上から見ていた。トレーラーからはぐれたのかい?」

 タケルは気が抜けたようにその場に座り込んだ。

「ありがとう……」

 老女がナナミの手当てを始めながら尋ねる。

「あんた、傷は?」

「たぶん、大丈夫だ……痛みはひどいが、骨は折れていない気がする」そして肋骨に触れて顔をしかめる。「いて……だが、折れていたらこんなもんじゃ済まないはずだ。少し休めば、何とかなりそうだ」

「そんな風には見えないよ」

「怖くて足がすくんだ……それだけだ」

 老女は、顔を背けたタケルを興味深げに見つめた。

「兵隊じゃないね」

「農民だよ。北海道のトマリだ」

 窓の外を見張っていた男が驚きの声を漏らす。

「中心地じゃないか! なぜこんな戦地に⁉」

「荷物の回収を命じられた。こんなザマになったけど」

 老女が言った。

「わざわざ農民を連れてこなくてもいいものを……。守備隊は何を考えてるんだろうね」

「トマリの長老の指示だった。なんでオレが選ばれたのか、今でも分からない。ここは、聞いてた様子と全然違う」

「なんて言われたんだい?」

「本州を自分の目で見ろ。安定しているなら、オレが持ってる知識を伝えろ、と」

 窓から外を見張る男が、軽く噴き出す。

「安定してるさ。ここ何ヶ月もこんな調子だ」

 老女が補足する。

「本州を捨てるのはほとんど決まってた。問題はいつ逃げ出すかってことだったが、ここ何日かで急に早まってきた。そしてさっき、結論が出た。あんたもオニの様子を見てきたんだろう?」

「六カ所村も襲われた。海上輸送ができなくなったんで、陸路をやってきたんだ。作戦は失敗だ。オレも力不足だ」

「兵隊とはぐれてもここまで来られたなら、合格点はやれる。生きているだけで上等だ」

「こんなに危ないのに、なぜトマリに警告が届いていない?」

「極端に悪化したのはここ数日だからね。ろくな通信手段もないし、古い情報で行動していたんだろう。しかも、オニがこんなに多いのは初めてだ。きっと総攻撃だね。あんたたちの部隊にも撤退を手伝ってもらうことになったよ」

「撤退、するんだな……」

「青森守備隊が、本州を引き上げる最後のチャンスだと発表した。兵隊以外の民間人は先に北海道に向かった。第一便はそろそろ北海道に着いているだろう。最終便もコンテナの積み込みが終わった頃だ。重要な物資は揃った。あれがトンネルを渡れれば、北海道は守れる。もう戻ることはないね」

「そこまでひどいのか……」

 老女が尋ねる。

「あんたの背嚢、何が入ってる?」

「食料と医薬品だ。武器はない」

 そして長老のノートだ。

「よこしな」

 老女はノートには関心を示さずに、ファーストエイドキットを取り出す。ナナミの応急処置を素早く終えて、再生包帯を巻く。

 ナナミがつぶやく。

「ありがと」

 老女は微笑んだ。

「あんた、アカゴかい?」

 タケルが答えた。

「アカゴだが、オレの助手だ」

「わざわざ連れてきたのかい?」

「成り行きだ」そして、重要な事実に気づく。「あんたたちはなぜここに? オニに囲まれていたのは、あんたたちだったのか?」

「いつの間にか包囲されててね。すでに食料も乏しいし、オニたちも追い込まれてるんだろう。必死に物資を奪いにくる」

「どうしてこんな建物に立てこもっている?」

「ここは元は病院だった。あたしたちは古代の遺跡の調査をしていてね。ここの機材でオニの科学的な研究をしていた。撤退に備えて、運びだす重要資料をまとめていたんだ。そうこうしているうちに孤立してしまった。旧世代の医薬品もいよいよここに残っているだけだ。薬は漢方中心に切り替えて、なんとか引き伸ばしてきたんだがね」

「逃げられるのか?」

「助けは呼べる。これ以上回収に時間はかけられないしね」そして男に声をかける。「こっちの準備はいいよ。合図をして」

 男はうなずくと、窓から照明弾を打ち上げた。

「救助が来るまで20分ぐらいはかかると思う」

 老女は達観したようにつぶやく。

「来られればいいんだけど」

 タケルは言った。

「そんなに危険なのか?」

「オニが集結してる。どれだけの勢力があるか、正確には分かっていないんだ。向こうも決戦を覚悟しているらしい。撤退戦とはいうけど、急に決まったことだ。早い話が運任せだね」

 タケルはもはや驚かなかった。長老から本州行きを命じられた時からずっと、予想外の連続だったのだ。

「オニの研究をしているのか?」

 老女は驚きを隠さない。

「関心があるのかい?」

 タケルはノートを出して手渡す。

「トマリの長老から預かったものだ。昔のことが記録されている。まだ全部は読み切れていないけど、知らないことばかりなんだ」

 老女はノートを蝋燭に近づけて中を見始める。読みながら話す。

「言い遅れたけど、あたしはヤマベアケミ。パンデミック前は、三内丸山遺跡の博物館で学芸員をしていた」

「ガクゲーイン……?」

「あんたの若さじゃ、旧世代の仕事は実感がないだろうね。日常生活には役に立たない学者、ってところだ。その流れで、オニの調査を任されてきた。そっちは助手で用心棒のケンジ。たぶん、あんたよりだいぶ年上だね」

 男が振り返って会釈する。

「ケンジだ」

「オレはタケル。そっちはナナミだ。あんたらの仕事は調査だけなのか?」

「すぐには役に立たないが、重要な仕事ではあるからね。多少は医学の心得もある。なんとかオニ化を戻せないかという一心だった。それが可能なら、世界を元に戻せるかもしれないから。だけど、分かったことはそう多くはないよ」

「やっぱりダメか……」

「難しいね。それでも、新しく生まれる子供は守れるようになるかもしれない。とはいっても、日本の発症者が凶暴化しにくいことだけは統計的に間違いがないんだ。その理由を突き止められれば、治療法が発見できるかもしれなかった。発症の引き金はウイルスなんだからね」

「理由ってなんだ?」

「仮説ならある。でも、治療の役には立たない」

 タケルはナナミを見た。

「なぜアカゴは凶暴化しない?」

 アケミは、タケルの真剣さを嗅ぎ取ったようだ。

「あんたはそもそも、この国がどんな歴史を持っていたか知っているかい?」

「いや、考えたこともない」

「だろうね。今じゃ、生き抜くだけで精一杯だから」

「オニ化に関係しているのか?」

 口調が教師風に変わる。

「あたしはそう考える。元々三内丸山遺跡を研究していたからね。このすぐそばにある遺跡なんだが、人間の歴史が始まるはるかに前から数1000人が暮らす大規模な村を、それも500年間以上にわたって運営していた証拠が発掘されていた。今から2万年近く前から人が住んでいた痕跡があったんだ。縄文前期の遺跡だが、縄文時代そのものは1万年以上も継続していて、大きく変化しながらも現代まで途切れることなく繋がっている。当時の日本の中心は、今の東北や北海道だったという説もあった。発掘される古代の遺跡は東日本に集中しているんだから、当然の結論だね。地球の寒冷化によって人口が西日本に移動していったというのが実際のところだろう。縄文遺跡には戦争の痕跡もなく、自然から供給される食料で共同体を維持していたようだ。その後、世界中から様々な人種が渡来して今の日本人を形作っていくが、戦争が当たり前になるのはまとまった数の渡来人が訪れてからに過ぎない」

「そのことにどんな意味がある?」

「今のヒトは、ホモ・サピエンスと呼ばれる。その前には旧人類、すなわちネアンデルタール人のような種が生存していた。中央アジアを中心にして、デニソワ人という種もある。現代の日本人には、デニソワ人から引き継いだ遺伝子が残っているともいわれていた。あたしは縄文人の源流は彼らではないかと考えている。彼らはそもそも争いを好まず、それゆえに大陸ではホモ・サピエンスとの生存競争に敗れて消えていった。早い話、喰われたんだろう。日本にも多くの民族が流れ込んできたが、島国だから大量の渡来人による侵略は不可能だった。対立よりも共存する戦略の方が有利だったわけだ。だからデニソワ人の平和的な遺伝子が色濃く残っているのだと思う」

「それがオニにならない理由か?」

「パンデミック前でさえ、日本では譲り合うのが当たり前だった。だが世界の大半では、奪い合うのが常識だ。ウイルスが、その本能をむき出しにしてしまった。それだけのことだろう」

「どちらも、古代から受け継いだ遺伝子に刻まれている、と……」

 アケミは、迷彩服の胸ポケットから何かを取り出した。汚れた茶碗の破片のようなものだ。

「なんだか分かるかい?……って、聞く方が無理だね。これは、古代の遺跡から発掘された土器のかけらだ。縄文時代以前からこの場所には文化的な生活があって、世界初の土器さえ作り出した。その頃はここが世界の中心だったと思っているよ」

「旧世代か?」

「旧世代とは普通、原子力なんかの科学が発達していた崩壊前の世界を指すけどね。縄文時代には鉄すらもない。それでも東北から北海道の全域には人々が安定した暮らしを営んでいた。災害は多いが水も食料も豊富で、奪い合いうより協力した方が生きやすい土地だ。戦争をせず、自然の恵みに生かされながら装飾的な土器さえ作る文化を育てた。死者を埋葬するような宗教観もあった。そんな時代がデニソワ人の時代から続いてきたんだと思う。東南アジアから日本にかけての一帯は米文化が中心だから、格差が少ないことが平和的な理由だという見方もある。対して欧米や大陸内部は、麦文化だ。畑作だと生産性が低く、奴隷と富豪に分離して格差が激しくなる。当然、常に激しく対立していく。人々の気持ちがささくれ立っていく。だから歴史的には、ウイルスなどの感染症には格差が少ない東南アジアの方が強かったともいう」

「そんな昔からの性格が今でも残っていると?」

「大陸では文明で暴力性を覆い隠して、見ないふりをしていただけなんだろう。ゾンビウイルスが本性を暴き出してしまったんだね。人間は、どこかで袋小路に迷い込んでしまったのかもしれない。パンデミックは、縄文からやり直そうとした自然の摂理だったと考えることもあるよ。だからずっと、この破片をお守り代わりに持っていたんだ。私はそろそろ寿命だけど、次はせめて穏やかな世界ができればいいな、ってね……」

 似た考えは長老のノートにもあった。好奇心がかき立てられる。できれば、もっと詳しい話を聞きたいとも思う。

 だが今は、オニの食料にされる危険が迫っている。

 それが分かっているのに、聞かないわけにはいかなかった。

「オニは、悪なのか?」

「善悪の問題ではない。彼らはああなったし、我々はこうなった。善悪を論じるなら、あと1世紀を経て、残っている方が善だといえるのかもしれない。進化は、生き残ったものに世界を与える。それを善と呼ぶかどうかは分からないが、必然ではある。それを決めるのは、おそらく神という存在なのだろうね。神様がいるなら、だけど。我々は、試されているのかもしれない」

「オレたちを攻撃するやつらさえ、善だともいえるのか?」

「彼らにとって、わたしたちは食料でしかないから。生き続けようとする本能が働いているだけだ」

 タケルの頭に、生きながらの内臓を抉られていく馬の姿が浮かぶ。タイミングが悪ければ、タケルたちがそうなっていた。

「だが、オニは醜い。喰われるオレたちは悲惨だ」

「それが今のあたしたちの価値観だ。だが価値観は、代わる。世界が激変すれば、新しい価値観が生まれる。そもそも、ゾンビウイルスが人間を凶暴にさせるわけじゃない。ウイルスは大脳の機能を遮断して理性の抑制を消し去るだけだ。その結果、小脳の働きが表層に現れる。本能的に凶暴な人間は見境なく凶暴になり、本質的に温厚な人間は凶暴性を発現しない。日本人の多くにはデニソワ人の平和的な遺伝子が表層に現れ、オニ化を防いでいるのだろう」

 それはタケルにとって新しい知見だった。

「だが、凶暴化する者もいる」

「遺伝子の比率は人それぞれだからね。渡来系の血筋が多ければ、凶暴化は防げない。実際、旧人類の遺伝子が少ない欧米人などは、ほぼ凶暴化して共倒れになったようだ。日本人が古代から受け継いできた遺伝子が、パンデミックの危機からも救ったように思える。日本が神話の時代から国を繋いできたことには、大きな意味があったんだよ、きっと」

「そんな昔の人間がオレとも繋がっているのか?」

「もちろんだとも。あんたは旧世代の文化とのつながりを絶たれた世代だから、感じないかもしれないがね。あたしたちはパンデミック前を生きてきた。家族も知っているし、都会も、歴史も知っている。子供の頃の価値観が染み付いている。だから無意識のうちに世界を旧世代に引き戻そうとしてしまう……」

「いけないことなのか?」

「それが正しいのか間違っているのか、あたしなんかには分からないよ。たぶん、誰にも決められないんだろうね。できるとすれば、神様だけだ」

 また、神様だ。しかも長老と似た言葉だ。

「神って、なんだ?」

「怖いことを聞くね」

「怖いものなのか?」

「語る人によって神の形はさまざまだからね。例えば一神教というものがあった。キリスト教やイスラム教のようなものだ。彼らは唯一の神様が世界を作ったという。自分が信じる神が絶対的に正しいという。自分たちの行いは神様の意思だと信じ、他の神は偽物だという。だから平然と戦い、奪い、殺す。そしてオニになった……ということなのかもしれない」

「神とは、オニを作るものなのか?」

「別の神もいる。太陽や山や海や、一本の木や道端の岩にまで神が宿っているという、汎神教だ。自然が最初にあって、その自然が神様を産んだと考える。特に宗教だと意識することもない。何より、人間1人1人に神が住んでいると信じることができる。正しい行いをしていれば神様に近づけると思える。だから自然に感謝し、先祖を敬い、互いを尊重する。戦わず、調和する。あたしは、それがアカゴの根源だと思ってる」

「難しいな……」

「だから怖いんだ。ただ、間違いないのは、あたしはもうすぐ消えていくということだ。数知れない神様を作り出してしまったあたしたちは、もうすぐいなくなる。だから、神様もみんな一緒に連れていける」

「神様はいなくなるのか?」

「あんたたちが新しい神様を見つければいい。ケンジは崩壊後の生まれだけど、子供の頃から旧世代に育てられている。あたしたちの世界を、尻尾のように引きずっている。新しい世界に生まれたのに、そこに踏み出し切れずにいる。いわば、2つの世界に引き裂かれた世代だ。それは死ぬまで変わらないだろう。だから人類を次に進めるのは、しがらみのないあんたたちなんだろう」

「オレにはそんなことはできそうにない」

「あんた1人に押し付ける気はないよ。けれど、忘れないで欲しい。日本は数万年前の縄文時代から途切れずに長い営みを続けてきた国だ。その頃は科学もなかったが、戦争もなかったという。今から数10年後、原発が機能を止めた時にエネルギーが枯渇すれば、縄文時代からの再出発になるのだろう。それは、やり直しのチャンスでもある。オニの発生が歴史の必然なら、ある意味での浄化作用だったのかもしれない。あんたたちには文明のやり直しをお願いすることになるけど……わたしらは、行き先を間違えないように祈ってるよ……」

 いつの間にか、ナナミがタケルに寄り添っていた。会話の内容は理解できないだろうが、タケルから離れることに不安を抱いていたようだ。

 と、アケミの傍にあった装置に関心を示していた。堪えきれないように、ナナミが装置を指さす。

「それ……なに?」

 タケルはかすかな驚きを見せた。ナナミは命令には従うが、自らが外部に関心を示すことは多くなかったからだ。

 先ほどはオニの前に身を投げ出し、タケルを守ろうとした。直前まで恐怖に身をすくませていたのに、だ。アキに花を供えていたことも思い出す。

 どれも、タケルが見たことがないナナミの姿だ。

 ナナミの中で、何かが変わろうとしている。

 それは泊から初めて外界に出たことが引き起こした変化のようだ。恐怖と解放の連続が、そしてその中で積極的な役割を強制されたことが、ナナミの脳に眠っていた可能性を解き放ったらしい。

 少なくとも、好奇心が目覚め初めている。

 それは、アカゴでも人間性を取り戻せるという実例だ。ならば、大脳との接続も回復できるかもしれない。その先には、感染を治療するという希望がある。

 ナナミが見つめていたのは、トランシーバーだった。カーキ色の、民生品だ。

 タケルが説明する。

「トランシーバーだ。遠くにいる人と話ができる機械だ」

「とら……。ショウヤとも、はなせる?」

「ショウヤが同じものを持っていれば、ね。でも、あまり遠くにいると無理かもな……」と、不意に気づく。「ショウヤも持っていたのか?」

 ナナミがそれを見ていたのなら、関心を示す理由にはなる。防衛隊なら、相互の連絡のためにトランシーバーを持っていてもおかしくはない。だが隊でも貴重品のはずだし、タケルはそれを見ていない。

 なぜか、違和感を感じる。

「もってた。すこしちがう」

「違う? どこが?」

「おおきい。くろい」

 出力が大きい軍用品のようだ。やはり、ショウヤが身につけていた記憶はない。タケルは違和感の正体を見極めようと考え込む。

 しかし、同時にトランシーバーに通信が入って思考を中断された。

『こちらブルー・ワン。ブランチ・ナインへ。5分で到達。2階窓で待機せよ。繰り返す――』

 トランシーバーを取ったアケミが応える。

「要救助者2名追加。泊からの客人だ。下はオニの群れだ。急いで欲しい」

『了解。対応可能だろう』

 窓の外を見張っていたケンジが手招きする。

 アケミに促されてタケルらも窓に近づく。その下には、馬の死骸に群がるオニたちの姿があった。月明かりに、剥き出しの肋骨が白く光る。

 ナナミが目を背けてタケルにしがみつく。

 タケルはナナミをなだめるように肩を抱きながら言った。

「外のオニは大丈夫なのか?」

 同時に遠くにかすかなエンジン音が聞こえた。

 ケンジがうなずく。

「ここはかろうじて俺たちの勢力が優っている。そこそこの機材もある。アケミはオニ研究の中心だ。守備隊が見捨てるようなことはない」

 しばらくすると、エンジン音が大きくなっていった。アケミが蝋燭を窓辺に置く。救助隊へのサインだ。

 キャタピラが大地を噛む音が次第に大きくなっていく。

 タケルがつぶやく。

「戦車……とかいうやつか?」

「何10年も前からそんなものは動かせないよ。建設機械だ。それすら、燃料は希少だ」

 現れたのは大きなブルドーザーだった。前方のバケットを盾にしながら、オニたちを追いやっていく。本来ガラスで囲まれている運転席は、金属板で強化されていた。一面が月明かりを反射して鈍く光る。所々に銃眼が開けられている。その一箇所に火花が光り、銃声が轟く。

 オニの1人が吹き飛ばされた。強力な銃弾を放ったようだ。

 オニたちがわらわらと逃げ去っていく。銃による反撃はない。RPGもない。周辺には高度な攻撃隊は不在のようだった。

 ブルドーザーはさらに建物に近づいて、バケットを上げる。瓦礫を踏み砕きながら、大きなバケットを上向きに変えた。

 2階の窓の下に、バケットを差し出す。先端が建物に突き刺さって、ブルドーザーは止まった。

 トランシーバーに連絡が入る。

『バケットに乗れ!』

 ケンジが斧を掴み、窓枠を跨いで外に飛び出す。大きな風呂桶のようになったバケットの中に飛び込む。

「こっちへ!」

 アケミが応える。

「こっちが先だよ! そのために来たんだから」

 そして、窓際に積んであったひと抱えもありそうな段ボール箱を次々と放り込んでいく。タケルが手伝って5箱を乗せ終わる。大きな背嚢を背負ったアケミが、ケンジが差し出した手をとってバケットに乗り込む。

 タケルはナナミに命じた。

「ナナミも行け」

 不安げにタケルから離れたナナミも、ケンジの手を取る。タケルが背後からナナミを押す。バケットに入ったことを確認すると、タケルも窓枠を越えた。

 バケットの中は泥臭い。だが、4人が乗っても充分な広さがあった。ナナミはエンジンの振動と音に怯えていたが、分厚い鉄板に囲まれている安心感があった。ブルドーザーは後退し、バケットが上向きのまますこし下がる。持ち上げたままでは前方の視界が塞がれるようだ。

 トランシーバーが言った。

『このまま進む。しばらく我慢してくれ』

 同時にブルドーザーが反転して、進み始める。

 と、バケットの側面をオニがつかんだ。恐怖を振り払って攻撃を仕掛けてくる。命令の遂行か使命感なのか、巨大な金属の塊に素手で挑んできたのだ。それとも、食料にあぶれた弱者が、空腹を満たすために獲物を求めているだけなのか……。

 オニがよじ登ってくる。月明かりの中に、オニの顔が浮かび上がる。

 だがその表情は、恐怖を浮かべていた。獲物を狩ろうとする高揚感はない。むしろ、追い立てられた獣を思わせる。

 オニは、ブルドーザーから銃撃される危険を目の当たりにしている。反撃の手段も持ち合わせていないようだ。逃げ去って当然だ。なのに、本能に逆らって攻撃を仕掛けている。

 何かに追われているのだ。

 攻撃しなければさらに恐ろしい制裁を受けると、理解している。オニの兵士たちは、飢えと恐怖によって支配されていたのだ。

 支配する者が誰であれ、それだけ強力だということを意味する。

 ケンジの動きは素早かった。

「伏せろ!」

 そう命じると同時に、両手で斧を振った。刃先がオニの首を捉える。吹き出した血液がバケットの中に降り注ぎ、オニが落ちる。

 おそらく、首が切断されているだろう。

 さらに攻撃してくるオニはいなかった。目前の恐怖が、支配者からの抑圧をねじ伏せたのだ。

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