4・原発

『――北海道が聖域化できた理由は、いまだに不明確だ。ただの偶然なのか、神の意思なのか。人智を超える何者かの力に助けられたとでも考えないと、この奇跡の積み重ねは説明がつかないのだ。

 ZV発生当初は、日本も悲惨な経過を辿っていた。凶暴化したオニたちは、瞬く間に本州を席巻していった。特に被害が多かったのは、大規模な外国人コミュニティがあった地域だ。なのになぜか、日本人は発症しても凶暴化する割合は極端に少なかった。逆に日本人以外は、ほとんどが凶暴化を見せていた。

 理由は定かではないものの、それは世界全体に共通する現象だった。過去に、ある種のコロナウイルスのパンデミックに日本人が驚くべき耐性を発揮したことと無縁ではないだろう。

 その結果は悲惨だった。理性を喪失して立ちすくむアカゴたちを、オニはひたすら喰い散らかしていった。凶暴化した集団は際限なく膨張し、本州は分断された。主に自衛隊の働きによってそこから脱出できた集団が東日本に避難し、今の均衡の基盤を作り出したのだ。

 世界的に見れば、それでも日本は幸運な方だ。というより、大陸と地続きの国や多くの島国では、ほとんどの人類は喰い合って消滅したようだ。抵抗すべき警察や軍も大半がオニ化し、崩壊は急激に進んだ。放棄された原発の多くは暴走し、爆発し、大気圏に放射性物質を撒き散らした。現代文明を支えたインフラや工場の多くも燃え、破壊され、有害物質を垂れ流すことになった。その被害と共食いによって、オニの多くも消滅していった。通信手段がなくなったためにもはや確認はできないが、ほぼ間違いはないだろう。

 日本の場合はオニの発生が緩やかで、警察や自衛隊の立ち上がりが機敏だったために、原発の多くは破滅的な損壊を防ぐことが可能だった。放射線障害は当然日本にも及んでいるが、人間は絶滅することなく生殖活動も細々と維持されている。どうやら人間の体は、ウイルスや放射線に痛めつけられても生き残る道を見つけられるようだ。

 日本は本州の半分以上をオニに席巻された。だが野生動物の爆発的増加による食料供給と共食いによって、オニの増殖は止まった。急激な変化が収束して、均衡状態が訪れたのだ。その後、生き残ったハガネは旧自衛隊の指揮の下に北に集結していった。自衛隊施設と隊員が多く残っていた北海道はいち早くオニの掃討に成功して、原発を核にした復旧作業にとりかかれた。人類の砦としての聖域を目指したのだ。

 だが北海道の噂を聞きつけたオニの侵攻は、完全には止まらなかった。食料を求めるロシア方面からの攻撃は散発的で、比較的容易に撃退することができた。だが、中国からの侵攻は、自衛隊の力が及ばない九州から徐々に広がり、野盗集団を糾合しながら大きな勢力として土着化してしまった。オニの中にも指揮統率能力を持つ個体が増加していることは疑いようがない。北海道防衛のみならず、オニの侵攻を食い止めるために東北守備隊が組織された。彼らは青函トンネルを中心に守りを固め、同時に鉄道や原発関連施設を保守しながら長年持ちこたえている。

 しかし守備隊からの報告では、近年は事情が変化しつつあるようだ。オニの集団に、さらに高い知性を有したリーダーが多数生まれた懸念があるという。彼らは〝餌〟によってオニを管理し、兵士として飼い慣らし、東北を襲おうと画策しているらしい。下働きのアカゴたちを攫いにくる局地的な攻撃は頻発しているが、そこに戦術的な振る舞いが見られるというのだ。中には近代兵器を駆使する知能を有した個体もいるようだ。

 オニのリーダーが大陸系のハガネなら、北海道と協調して旧世代を復興しようなどとは考えない。事実、和平交渉などが行われた実例はない。こちらが共存を望もうとも、遭遇は即戦闘になるのだ。北海道を侵略して新世界の王国を打ち立てようとしているのは明らかだ。彼らが米軍や自衛隊の基地から奪った兵器を効果的に用いるようになれば、東北の拠点も危機に晒される。青森を占拠すれば、次は確実に北海道侵攻を試みる。

 それは、すでに進行しているかもしれない。

 大陸国家の伝統的な行動様式は、策略による浸透と力による侵攻だ。いわば、彼らのDNAに刻み込まれた、抗い難い衝動だ。善悪の問題ではない。本能の発動なのだ。ZVは本能をむき出しにさせる。

 彼らのリーダーが大陸からの流入者ではないことを祈るのみだ――』


 タケルの脳裏に、ノートの一節が炸裂する。今まさに、彼らが襲いかかってきたのだ。長老が恐れた通りに、近代兵器を奪い取って……。

 ショウヤが叫ぶ。

「RPG! 建物に避難しろ!」

 タケルが我に返る。

 体勢を立て直した兵士たちは、背後に気を配りながら倉庫に飛び込んでいく。

 彼らを迎えた一群もそれに混じる。代わって、中から数人の兵士が進み出た。怯えるナナミを引きずるようにして倉庫に飛び込んだタケルの横に、巨大な機関銃を据えて腹這いになる。

 タケルと兵士の目が合う。

 白人とのハーフらしい老兵士は叫んだ。

「もっと奥へ! 入り口近くは狙撃される! コンテナを守ってくれ!」

 そして、ロケット弾が放たれたらしい付近に銃弾を叩き込んでいく。幸い、それ以上は敵からの反撃はない。

 しかし、倉庫の外ではエルキャックが爆発炎上を続けていた。もはや、動かすことは不可能だ。待機していた操縦員も助からなかっただろう。

 倉庫の奥では、兵士たちが銃を構えて〝敵〟の侵入に備えていた。その先頭にショウヤが立っている。

 タケルは彼らの背後に回った。2台のトレーラが準備されていて、その陰に迷彩服の一群が集まっていた。だが怯えを隠さない表情は、明らかに兵士のものではない。女も多い。おそらくは原発の技術者だろう。アキたちは彼らの中に入っていった。

 タケルはその先頭に立つ老人に尋ねた。

「待ち伏せか⁉ 誰の襲撃だ?」

 呆然としていた老人が我に返って答える。

「こんなにあからさまに攻撃してくるとは……。数日前から正体不明の者たちが徘徊しているということだったが……」

「正体不明? オニではないのか?」

「多分そうだ。だが、最近は守備隊の中にも裏切り者が出ているという噂もあって……」

 老人の返事は歯切れが悪い。

「裏切り? オニに加担しているというのか?」

「あくまでも噂だ」

「だが、オニを助けてなんの得がある? 喰われるだけだ」

「奴らの中でも知性を持つものが増えている。戦略的な攻撃を仕掛けてくる集団もいる。大陸から渡ってきた連中が仕切っているという意見もある。彼らの狡猾さには、パンデミック前から手を焼いていた。寝返る価値がある取引を持ちかけられたのかもしれない」

 意外だった。確かに長老のノートには、大陸からの侵入も書き込まれている。しかし状況は、予想以上に悪化していた。東北守備隊の中にまで浸透しているようだ。北海道奪取後に優位な地位を与えるとでも偽って、末端の兵士を懐柔したのだろう。

 資材の移動が必要になった理由は、おそらくそれだ。

「原発施設も襲われているのか?」

「それはまだない。ここでの研究は正常に進められていた。三沢基地の生き残りが、ずっと警護してくれていたからだ。だが、数年前に基地が陥落したという報告を受けた。それでも、こんな攻撃は初めてだ」

 しかしエルキャックを攻撃したあとは、オニは沈黙していた。

「だったら、なぜ攻撃が止んでる?」

「施設を破壊するのではなく、研究を奪おうとしているのかもしれない」

「持ち出せないように船を壊したのか……」

 ショウヤが近づいて、会話に加わる。

「情報が漏れていたのか⁉」

「北海道への移動は兵士には秘密にしていたが……」

「悟られた恐れがあるのか?」

 老人はすまなそうに顔を伏せる。

「守備隊は、定期的に偵察班を本州深部に送り込んできた。オニの動向を見極めるためだ。彼らの任務には、孤立しているハガネを発見して救出することも含まれる。最近は少なくなったとはいえ、救出されたハガネの大半は守備隊に組み入れられる。彼らがオニから送り込まれてきたスパイだという可能性は否定できない。新参者の素性は確認しようがないし、拒否するわけにもいかないのでね」

 老人の困惑は嘘ではなさそうだ。

「俺は泊防衛隊のショウヤだ。オニたちはあんな兵器を使えるのか?」

 老人がうなずく。

「私は技術主任のタチバナだ。オニの中に強い指導者が現れて軍隊化が進んでいるのは間違いない。三沢基地が落とされてからは、その速度が早まっている。基地にあった武器が奪われたせいだろう。さっきの爆発も、その武器を使ったに違いない。基地攻撃にも、さまざまな策略や陽動を駆使してきたと聞く。彼らはもはや、烏合の衆ではない。八戸と弘前を結ぶ前線も分断されかけている。六ヶ所村が孤立する前に研究成果を北海道に移すべきだと提案したのは私なんだ」

「だが、奪ったところで、オニが使えるものなのか?」

「中には技術的知識を持つリーダーもいるのかもしれない。だからといって、特殊な専門知識がなければ役に立たないんだがね。そこまで頭が回っているかどうかは、計りかねる」

「聞いていたより緊急性が高いようだな」

「だが、こっちの守りに多くの兵士は割けない。青函トンネルの死守が当面の重要課題なのでね。そのために、今は青森に戦力を集中しているそうだ」

 タケルが倉庫の奥のトレーラーに目をやって、問う。

「機材とは、なんなんだ?」

 そこには泊でも倉庫などに使っている40フィートコンテナが乗せられている。その周囲を数台の軍用車両が取り囲んでいた。

「SMR――小型原子炉の基幹部品とリサイクル燃料だ。燃料は六ケ所村で再生したもので、部品は大間原発に残存していた部材を再構成して製作した。大間原発の重要部材もすべてコンテナの中だ。北海道に運び込めれば、今後数10年は電力供給が可能になるだろう。泊ほどの出力はないが、今では電力消費を節約できる体制が整っているからね。その間に次期エネルギーを開発できれば、文明を維持できる可能性が拓ける」

 ショウヤが気付く。

「オニたちは電気が欲しくて狙ってきたのか⁉」

 タチバナが不安げに外を見る。やはり攻撃されたのは1回きりで、こちらからの反撃も止んでいた。シャッターの先に、燃えるエルキャックが見える。

「倉庫の中には攻撃を仕掛けてこないようだからね……。狙ったのは運搬手段だけだ。破壊が目的でないなら、そうなのかもしれない……」

 倉庫入り口で機銃を撃っていた兵士が、部下と交代していた。彼らに近づく。話は聞こえていたようだ。

「私はトム・オオツカ。青森から派遣された警備責任者だ。10名の部下を率いている。オニたちはいったん身を隠したようだ。目的は達したのだろう」

 タケルが確認する。

「行動は統制が取れている、ということか?」

「明らかに。狙いは原子炉の機材と研究所の知識だとしか考えられない。それらがトレーラーに積んであるんだから、次は奪いにくる。それを利用できる知性を持った指導者が存在すると判断すべきだ」

 タケルが聞かされてきたオニの行動様式からは考えられない事態だ。長老の話とは、全ての印象が違う。

 長老は、全てを知った上でタケルを送り込んだのかもしれない。その理由は、なんなのか――。

「知性って……そいつらは大陸から渡ってきたハガネなのか?」

「断定はできないが、その可能性は否定できない。とはいえ、この地で新たなハガネが発生することもある。大半はオニに殺されたとしても、生き残った者もいる。事実、救い出せたハガネも多かった。もはや簡単に偵察部隊も送れないから確認はできないが、孤立していた集団から指導者が生まれたのかもしれない」

「ならば、対立しなくても――」

「彼らはそうは考えないようだ。元は日本人だったとしても、置き去りにされた恨みを抱えているだろうしな。オニも、食料が欲しいだろう。利害は一致する」

「オニを使って恨みを晴らしていると?」

「おそらく、旧世代の機器を使える者たちだけが、生き残れたんだろう。特に武器が重要だ。オニは複雑な道具は使えない。武器が身近にあったハガネが、その威力を見せつけて彼らを撃退した。自衛隊か警察関係者の集団だろう。そして、武器の力で恐怖を与え、オニの暴走を抑え込んできたに違いない。その関係を何10年も続けて出来上がったのが、今の体制なのだと思う。いまさら交渉が成立するとは期待できない。現実に、彼らは交渉ではなく、攻撃を選んだ」

「理性がないオニを、思い通りにできるものなのか?」

「食料と武器、つまり餌と恐怖を使って調教したのだろう。逆らう者を殺せば、従うオニもいるだろうからな。猛獣の調教と同じことだ」

 ショウヤが言った。

「だったら、これからどうする? 海路での移動は可能か? 船はあるのか?」

「無理だな。周辺に運搬可能な船舶は残っていない。こっちではオニたちの破壊活動が頻発して、文明を維持することが難しい。だから援助を依頼したんだが……」

「原発を放棄するのか?」

「それもできない。オニたちに渡れば、彼らの力を強大にさせる恐れがある。実際に使えるとは思えないが、それでも危険は残る。陸路を運ぶしかないだろう。最悪、破壊する」

「トンネルか?」

「青森から先はまだ鉄道が機能している。整備も警備も、青函トンネルを中心に行ってきた。そこまでオニに占拠されれば、もはや本州は切り捨てるしかない。オニの侵攻がここまで届いた以上、下北半島は孤立したと考えるべきだ。急がなければならない。なんとか陸路で青森まで辿り着ければ、まだ鉄道で北海道に入れる」

 と、倉庫の外で銃声が響く。単発だ。全員の視線が集まる中で、機銃に張り付いていた兵士が頭を撃ち抜かれて倒れた。

 トムが叫ぶ。

「スナイパー! 身を隠せ!」

 倉庫の中は薄暗く、外からは見づらい。開口部に据えた機銃が、格好の標的にされたようだ。

 全員が荷物の陰に移動すると、ショウヤが言った。

「なぜ一気に襲ってこない?」

 トムが答える。

「人数が少ないんだろう。この倉庫の出入り口は前面のシャッターしかない。夜襲を恐れて、他の出入り口は全て溶接した。前面を塞いで、援軍を待つ気だろう」

 ショウヤが倉庫の壁を見回す。当然、古い。厚い鋼板が使われてるようだが、所々から外の光が漏れている。経年劣化で脆くなっているのは隠しようがない。大型トラックのような車両で体当たりすれば、簡単に破れてしまいそうだ。ドアも同様だろう。床にもヒビが入り、雑草も生えて花まで咲いている。

「だったら、すぐに反撃しないと危険だ」

「だが、迂闊に光の中に出れば撃たれる。多分スナイパーは、ハガネに近い者だ。いわば、野盗の幹部だな。釘付けにする気だ」

「なんとかできないのか?」

「上に狙撃用の窓はあるから、敵の位置が正確に分かれば対策もある。だが、敵の人数も定かではない。一気に片付けないと逆に撃たれる恐れが高い。偵察隊を送ろうにも、出れば撃たれるだろう。こちらも兵士を消耗できるほど余裕はない。溶接した扉をまた開けるしかないとして……どれぐらい時間がかかるものか……」

 考え込んだトムの視線が、背後の集団に向かう。

 技術者たちはひと固まりになって恐怖に耐えているようだ。その横で、アキがナオキにしがみついていた。少し離れた場所からも、震えがはっきりと見える。その姿からは、理性は感じられない。しがみつかれたナオキは、呆然と立ち尽くしたままだ。目の焦点が定まっていない。

 彼らは戦闘の役に立ちそうもない。

 と、ショウヤが気付いて、タケルに言った。

「その女、風景も記憶できるんだろう?」

 タケルの腕を抱き締めたナナミを見ていた。

「できるが、どうしろと?」

「外に出して、敵の居場所を覚えさせろ」

「殺させる気か⁉」

 ナナミが状況を察してさらに強くタケルにしがみつく。

 ショウヤの声は冷酷だ。

「何もしなければ、みんなが殺されるかもしれない。対策が立てられれば、生き残る道も開ける」

「だが、ナナミは怯えている。こんな状況では能力が出せない」

 ショウヤがあざけるように吐き捨てる。

「やっぱり嘘か。写真のように記憶できるなんて、ありえないと思った」

 背後で、ショウヤの部下たちもせせら笑った。

 兵士たちの考えははっきりしている。足手まといにしかならないナナミを、あわよくば処分しようとしているのだ。ナオキだけではなく、多くのハガネにとってのアカゴは、従順な奴隷と同義だ。たとえナナミが殺されようと、彼らは痛痒を感じない。

 だが、トムはその可能性に喰いついた。

「風景が記憶できるって、本当か⁉」

 タケルがうなずく。

「できるが、戦場でやらせたことなんかない。戦場に来たことも初めてだ。ナナミは怖がっている」

「我々はオニたちに追い込まれてきた。もう崩壊寸前だ。可能なら、手を貸して欲しい」

 ショウヤは笑ったままだ。

「ほら、彼らもそう言っている。やらせろよ」

 ショウヤだけの要求なら、拒否できる。しかしこの場を仕切る防衛責任者の依頼なら、断ることはできない。トムも、手詰まりなのだ。真偽が定かでない特殊能力にすがるしかないほど、追い込まれている。

 タケルはナナミの肩を軽く掴んで、目を見つめた。

「ナナミ、オレたちを助けてくれるか?」

「なに、する?」

「外の風景を覚えてほしい」

 と、ナナミはにっこりと笑った。

「できる」

 タケルは、ナナミは狙撃の危険を理解していないと感じた。ショウヤたちの敵意に怯えているだけなのだ。

 そして自分が命令すれば、ナナミが断らないことも分かっている。

 その命令が、ナナミを死線に追いやることも――。

 タケルは背嚢を置いて、トムに尋ねた。

「敵はどんな服装をしている?」

 トムはわずかに安堵の色を見せた。

「オニは普通、洗濯もしていないボロ服が匂うが、三沢が奪われてから兵士は軍服を着ることが多くなった。制服姿はだいたい幹部クラスだ。スナイパーはハガネだろう。だとすれば、オニと区別するために米軍のキャップをかぶっているはずだ。隠れていても、多分頭は見せている」

「帽子の実物はあるか?」

 と、トムの部下がキャップを取って手渡した。

「これと同じようなものだ。色違いもあるようだ」

 タケルはそれを受け取って尻ポケットに押し込んだ。

 トムの部下たちはすがるようにタケルを見ている。

 ショウヤの部下はナナミを見下している。

 タケルは覚悟を決めた。ナナミはここで死ぬかもしれない。だが従わなければ、ナナミの居場所はなくなる。アカゴはいつまでも居場所を持てない。

 タケルはナナミに説明した。

「少し危ないけど、できるか?」

「なにする?」

「壁ぎわの暗いところを通って、あっちに行け」そしてシャッターの右側を指さす。「外から見えないように、扉の横で待て。オレは反対側に行く。合図をしたら、オレの方に走ってこい。その途中で、外の風景を覚えるんだ。できるか?」

 ナナミは迷わなかった。

「やる」

 ナナミ自身が、この場の緊迫感を感じ取っていたようだ。そんな時はタケルに逆らうことは絶対にない。

 彼らは二手に分かれて壁伝いに進み、シャッターの傍に身を隠した。

 同時に、背後で叫び声が起きた。

「行くな!」

 タケルが振り返る。暗がりに身を隠していた集団の中から、アキが飛び出していた。

「置いてかないで!」

 震える足で歩きながら、すがるようにタケルを見る。その声からは、完全に理性が消えている。恐怖が思考力を奪ったのだ。タケルに置いていかれるという恐れだけが、全身を突き動かしている。

 そして、タケルに向かって光の中に出てしまった。

 もはや、ためらっている余裕はなかった。

「アキ! 戻れ!」そしてナナミに向かって、大声で命じる。「ナナミ、来い!」

 ナナミが走り出す。銃声が響く。同時にナナミが倒れ込む。だが、2発目が聞こえる前に立ち上がってタケルの腕に走り込んだ。

「撃たれたのか⁉」

「ころんだ」

 迷彩服の膝にわずかな血が滲んでいる。

「それだけか?」

「びっくりした」

 だが、一方のアキは止まっていなかった。ふらふらと足を引きずりながら、依然としてタケルに向かってくる。

「置いてかないで……」

 タケルは叫んだ。

「来るな! 戻れ!」

「いや……行かないで……」

 遅かった。

 2発目の銃声が聞こえる。同時にアキの体が後方に吹き飛ばされる。

 タケルはナナミに命じた。

「ここで待て! 動くな!」

 そして身をかがめ、アキに向かって走る。銃声と同時に、耳元を風切り音が掠める。タケルは倒れたアキの背中を掴んで、暗がりに引きずっていく。アキはぐったりしたまま、抵抗しなかった。引きずった跡に血痕が残っていることは、あえて見ようとしない。

 ナナミのすぐ横にアキを横たえる。ここなら狙撃の射線には入らないはずだ。そして振り返った。

「誰か来てくれ!」

 倉庫の奥で動揺が広がる。援護が来る気配はない。

 アキがつぶやく。

「置いてかないで……」

 タケルはささやいた。

「置いてかないさ。出血を止めるぞ」

 そしてジャケットの前を開いた。と、大量の血液が床に溢れ出す。心臓を撃ち抜かれている……。

 アキの声が急速に弱まる。

「おいてか……ないで……」

「死ぬな!」

 ナナミは少しも動かないまま、アキの姿を呆然と見下ろしていた。

 アキが、ナナミを見上げる。

「いきてたら……いいことがあるの……かな……」

「子供、産むんだろう?」

「そう……だよね……たのしみ……だな……おとこのこ……だったら……」

 そしてアキは生き絶えた。

 タケルは叫んだ。

「誰か来てくれ!」

 返事をしたのは、ショウヤだった。

「行けない。アキを置いて戻れ」

「なぜだ⁉」

「アキはもう、だめだ」

 ショウヤからも、出血の多さは確認できたようだった。

 暗がりに目が慣れたタケルからも、ショウヤたちの姿が見えていた。悔しそうに目を背けている。だが、それだけだ。誰も、動こうとしていない。

 ナオキは顔も上げずに、しゃがみ込んで膝を抱えて震えている。

 タケルはアキを横たえた。

「アキ……ごめんな……」

 そしてナナミを引き寄せる。

 ナナミがつぶやく。

「うごいて、いい?」

「いいよ。一緒に戻ろう」

「アキ、しんだ?」

「ああ。死んだ」

 タケルはナナミを抱きしめてから、トムの元に戻った。

 ナオキの胸ぐらをつかんで立ち上がらせる。

「なんで手を離した⁉」

 ナオキは答えられない。

 タケルはナオキの身体を揺さぶった。

「なぜ離した⁉」

 ナオキは視線を合わせないまま、それでも無言だった。

 トムがタケルの手首を掴んで、離させる。

「手を離したのは、彼女だ」

 タケルは怒りをトムに向けた。

「なぜ助けに来ない⁉」

 トムはタケルから目をそらさなかった。

「無駄だからだ」

「アキはこんな場所に来たくなかったんだ!」

「それは君たちの都合だ。我々が頼んだわけではない。死んだ人間のために、兵士を危険に晒すこともできない」

「なんだと!」

 わずかな沈黙の間に、顔を伏せたナオキがつぶやく。

「離したのは、お前じゃないか……」

 タケルはナオキを見つめた。だが、その言葉の意味は理解できなかった。ショウヤに目を移す。

 ショウヤがトムと同じ考えだということは言葉にしなくても分かった。

 それが軍隊の理屈なのだ。

 だが、アキは兵隊ではない。だから恐怖に耐えられなかった。だから死んだ。

 それが現実なのだ。

 タケルはショウヤに言った。

「アキは指導者候補だ。守るのがお前の役目じゃないのか?」

「守られたいと思わない人間は、守れない」

「なぜ連れてきた⁉」

「俺が決めたことじゃない」

 トムが割り込む。

「それより、情報は得られたのか?」

「アキが死んだんだぞ!」

「急ぐんだ。この局面が打開できないなら、死ぬのはここの全員になる。情報は?」

 タケルは反論を呑み込んで、言った。

「誰か、オレの背嚢を」

 差し出された背嚢から白紙のノートを出し、ナナミに鉛筆を渡す。受け取ったナナミはしゃがみ込んで、ノートを床に置いた。

 ナナミは何を要求されているのか理解していた。白紙に1本の横線を引き、その上方にギザギザの線をゆっくり書き足していった。

 トムがつぶやく。

「その線はなんだ?」

 タケルが説明した。

「真っ直ぐなのが地平線。ギザギザは森の木だ。葉っぱの輪郭も正確に書き込んでいる」そしてナナミの語りかける。「木の形は大体でいい。場所が区別できれば構わないから、省略しろ」

 と、ナナミの一筆書きのスピードが上がる。そして一部が長方形に変わった。

 トムの眼差しが真剣に変わる。

「なるほど……そこが給水棟か」

 描き終わると、タケルがポケットから米軍キャップを取り出す。

「ナナミ、これと似た帽子を探せ。何人か森に隠れているはずだ。全部探し出せ。森の中に変わったところがあったら、それも教えろ」

「わかった」

 ナナミは目をつむって考え込む。数分が過ぎる。

 トムがつぶやく。

「何をしている……?」

 タケルが言った。

「今、記憶の中身を精査している。しばらく待て」

 と、ナナミは2箇所に丸をつけた。

「ここ、ぼうし」さらに丸を追加する。「ここ、なにか、ひかった」

 トムが驚く。

「本当に記憶したのか? あの一瞬で?」

 タケルが怒りを堪える。

「そのためにやらせたんだろう?」

 トムは半信半疑でスナイパーを呼ぶ。

「この場所、覚えろ。3箇所だ。一気に片付けられるか?」

 スナイパーがナナミを見る。

「このアカゴが言うことが本当なら。でも、信じられるんですか? 正確でなければ、俺が撃たれます」

「彼女は危険を冒したぞ? 敵が確認できなければ、戻ってこい」

「了解」

 スナイパーは建物の横の階段を静かに上がっていった。壁を取り巻くキャットウォークから狙撃できる場所があるようだ。

 シャッター上部の横に銃をセットする。

 と、瞬く間に3発の銃声が響く。反撃はない。

 当面の敵は掃討できたようだった。

 スナイパーが戻ると、興奮気味に言った。

「びっくりです。まさしく指定の位置にいましたよ」

 トムも驚きを隠せないようにナナミを見た。

「本当だったんだな……」

 ショウヤとその部下たちも何も言えずにいる。

 タケルが満足そうにナナミに向かう。

「ナナミ、ご苦労。今見た記憶は、消していいよ」

 ナナミも笑顔で応えた。

 と、研究者のリーダーのタチバナが身を乗り出す。

「その女の記憶はずっと残るのか?」

「命じるまでは、たぶんいつまでも」

「自由に読み書きできるわけか……まるで外部ストレージだな」そしてトムに向かう。「いつ出発する?」

「できれば、今すぐにでも。増援部隊に囲まれたら逃げられないかもしれない」

 ショウヤが反発した。

「少し休ませろ。暗くなってからじゃないと移動は狙われる」

 トムはわずかに考えてから言った。

「では、日が沈んでから移動開始だ。青森駅へ向かう」そして部下に命じた。「馬で伝令を送れ。計画が変わったので、列車移動の準備を依頼するんだ。オニに襲われるとまずいので、2組送り出せ……。青森を放棄する時が来たのかもしれない。判断は向こうに任せる」

 うなずいた部下たちが外へ向かう。

 タケルが言った。

「アキはどうする?」

 ショウヤが応える。

「残していくしかない」

「せめて埋めてやりたい」

 そう言ったタケル自身が、その言葉に困惑する。なぜ放って置けないと考えたのかが、理解できない。

 アキに特別な思い入れがあったわけではない。むしろ、疎ましくさえ感じていた。なのに、埋めてやりたいと思った。

 それが正しいのだ、と。

 だが、ショウヤにその思いは通じない。

「諦めろ。無駄な体力は使えない」

「オレがやる」

「それが無駄だと言っている」

「置いていけばオニに喰われる」

「アキは、死んだ。運命だったんだ」

 ショウヤは正しい。なのに、胸の内にかすかな怒りが込み上げる。その理由も分からなかった。

 だが、今は緊急時だ。根拠が曖昧なわがままを通せる場合ではない。現実を直視するしかなかった。

 不意に、長老の望みはタケルにこの現実を受け入れさせることなのかもしれないという疑問が生まれた。

 そして、アキの死体を見た。

 死体の上に、いつの間にか黄色い小さな花が置かれていた。倉庫の隅に咲いていた雑草だ。はっと気付く。

 ナナミが置いていたのだ。これまで、そんな行動を取った記憶はない。ナナミの中で、何かが変わり始めているのかもしれない。

 タケルはため息を漏らして、質問を変えた。わざわざ馬で伝令を送り出す意味が分からなかったのだ。泊なら、最低限の無線通信は確保されている。

「無線はないのか?」

「電力はつい最近途絶えたらしい。機器の充電もままならないという。だが小型のトランシーバーならまだ使えるものも多い。通信距離が長い軍用品は希少だが、使えるものもわずかに残っている。それもオニたちの傍受される恐れが高いらしい」

「傍受⁉ そんなことまでできるのか⁉」

「三沢基地が落ちてから、急速に能力を上げたそうだ。兵器も機材も、ごっそり持っていったんだろう。先手を打たれて作戦を潰されることも多くなったという。本州での勢力を保てなくなった理由だ」そして声を落とす。「ここにも内通者がいるかもしれない」

 と、話を逸らすかのようにタチバナが言った。

「タケル君、出発までナナミ君を貸してもらえないか。技術資料を記憶してほしい。保険が欲しいんだ。できるか?」

「ナナミは文字が読めないが……記憶はできるかもしれない。期待はしないでほしい」

 ショウヤが傍で笑う。

「所詮アカゴだろうが。そんなことまでは無理だ」

 タケルがうなずく。

「できないかもしれない。だが、ナナミは命懸けで能力を証明した。みんなが命を救われたのに、まだ信用しないのか?」

 ショウヤは肩をすくめてその場を去った。

 タケルらはタチバナに機材の奥に連れて行かれた。トレーラーの運転席からドラムバッグを取り出す。中から取り出した本を開き、ライトを当てる。細かい文字や設計図がびっしり並んでいた。

 気を取り直したナオキが近づく。

「さっきは……すまなかった」

 タケルは小さくうなずく。

「忘れよう。でも、あまりナナミを馬鹿にするな」

「怖かったんだ……」

「みんな同じだ」

「その資料、私にも見せてほしい。新しい原発の設計図なんだろう?」

 タチバナがうなずく。

「そうだ。関心があるのか? 理解できるなら、是非そうしてほしいが」

「私は泊の管理をしていてるから、分かると思う。できれば、コンテナの中も見せて欲しいんだが」

「それは危険だ。核燃料も入っているから、厳重に封印しているんだ。開けるのは、北海道に着くまで待ってほしい」

 ナオキの表情が強ばり、やや身を引く。

「放射線漏れは大丈夫なのか……?」

「可能な限り遮蔽してるよ」そしてかすかに笑う。「怖いなら、離れていた方がいいがね」

「脅かすなよ……」

 タチバナの視線がナナミに向かう。

「これを覚えてほしい。一番重要な資料で……100ページほどあるんだが」

 タケルが言った。

「ナナミはオレの指示しか聞かない」そしてナナミの目を見る。「覚えられるか?」

「じが、たくさん。むずかしい。でも、やってみる」

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