3・海路

『――さらに、ハガネの中にもウイルス感染で変化を起こす事例が確認されていた。ハガネとしての脳機能、身体機能を一切損なうことなく、ある種の特殊能力が付加されるのだ。

 その一例が、私自身だ。

 これまで公言したことはなかったが、私は一卵性双生児の1人だ。双子のもう1人――弟は、ZVが拡大した際に本州のさらに向こうの、九州に住んでいた。当然、苛烈な災禍に巻きこまれた。私も、彼は命を失ったものと諦めていた。だが北海道の動乱を平定して泊ムラが安定し始めた頃、奇妙な夢を見るようになった。映像でさえ見たことがない九州の一地方が、異様な鮮明さで現れるようになったのだ。しかも、どこのものとも知れない風景が、九州でしかあり得ないと〝分かって〟しまったのだ。

 後にそれは、弟が現実に目にしている景色だと悟った。同時に弟も、私が見ている風景を感じ取ったようだった。ウイルス感染を引き金に、私たちの間にテレパシーの回路が結び付けられたのだった。今ではこの現象は、ある種の生存本能の発露だと思っている。

 テレパシーの獲得で意思疎通が可能になり、我々は情報共有を始めることになった。弟もまた自衛官で、九州の大混乱を生き残って小部隊を率いていた。そこで彼らは、ハガネを救出しながら内地の動向を調査し、北へ向けて移動することになった。東北地方に生き残りを集結させてオニを排除し、北海道を聖域化するための防衛ラインを敷こうとしたのだ。現在の東北守備隊の原型である。

 一方の私は泊原発の電力を活用して北海道の生存圏を安定させ、彼らにエネルギーと食料を供給し、救出された民間人を迎え入れる準備を進めた。

 だが本州にはパンデミック以前から大陸からの移住者が多く、凶暴なオニが溢れて荒廃していた。生き残ったハガネは次々に喰われ、分断されていた。同時に、オニの中からも症状が軽微なものが集まり始め、それを武力で統率するハガネも現れていた。弟は、オニのリーダーの多くは大陸から移住した者たちだと推測していた。

 その頃から、北海道には文明を維持する生存圏があるという知識が広まっていったらしい。東北地方がオニの侵入に抵抗できるのも、北海道からの支援があるからだと理解したようだ。現時点では、オニたちは小規模な野盗集団でしかない。時たま攻撃を仕掛けてきても、旧世代の兵器の威力で押し返せる程度だ。だが、北海道の価値を察知してそれを奪おうと機会を窺っていることは間違いない。強いリーダーが現れれば、野盗を糾合して軍隊に化けると考えるべきだ。その先は、確実に北海道奪取を目論んでくる。

 弟も、オニの組織化の危険を感じていた。そこで本州に残り、オニの勢力を弱める工作に従事することを申し出てきた。今はオニの勢力争いを助長し、戦わせ、弱体化させる作戦を進行させている。同時に生き残ったハガネを探し出しながら、なんとか生き延び続けている――』


 タケルは波に揺られ、甲高いエンジン音に包まれながら、重苦しいため息を漏らした。苫小牧港を出てから1時間以上が過ぎている。

 意外な記述を理解しきれずに、ノートから目を上げた。

 長老は、特殊な能力を開花させたハガネだったのだ。しかも本州の弟とテレパシーで意思疎通ができるという。その情報が、長老の超人的洞察力の根源だったわけだ。

 長老が泊ムラの長となるまでの指導力は、完璧だったといえる。本州からのいかなる攻撃も予測し、対抗手段を準備し、撃退した。北海道全体が本州からの侵攻を退けられたのは、長老の手腕があったからなのだ。その実力を支えたのが、弟からの情報提供だったことになる。

 長老には、分身といえる存在がいる。もう1人の長老、あるいは〝影の長老〟が遠くから泊を支えていたのだ。

 だが――。

 長老が双生児の弟と意思を通じ合えるなら、彼らは結託して北海道を支配しようと企んでもおかしくはない。オヤジは、長老が本州側と結託して泊を奪おうとしていると危惧していた。タケルのみならず、中心的なハガネを泊から引き離したこと、そして重要なノートを与えたこともその計画の一部なのかもしれない。

 別の可能性もある。長老自身は北海道の守護者だとしても、影の長老が同じ考えだとは限らない。情報を提供することで長老さえも欺き、最終的に泊を奪おうと狙っているかもしれない。

 人は嘘をつける。テレパシーでさえ、他者を欺くことができるなら……。オニの軍隊が完成するまでは瑣末な情報で長老の信用を得ておいて、総攻撃で殲滅を図る――という策略も成り立つはずだ。

 本州にいるのは、〝長老の偽物〟だとしてもおかしくはない。

 ノートな記述は古そうだが、そもそも書かれていることの全てが真実だという保証もない。テレパシーなど存在しなくとも、長老が本州勢力と通じているなら、全てが芝居だという恐れもある……。

 だが、断定するには情報が少なすぎる。

 タケルは真相を見抜く決意を固めていた。それができなければ、泊を守る役には立てない。もっと多くの情報が必要だ。少なくとも、自分が何を取りに行かされようとしているのか、そしてなぜ長老の息子の部隊が協力しているのか、知る必要があった。

 全てが長老の策略なら、体を張って阻止する覚悟も決めていた。

 ナナミは苫小牧港を出港してからずっとタケルの腕にしがみつき、震えている。タケル自身も驚きの連続だったのだから、無理もない。アキはそのタケルたちを遠目に見ながら、ナオキに身を寄せている。周囲は甲高いエンジン音に包まれ、ヘッドセットを使用しなければ会話もできない状態だ。

 初めて苫小牧の現状に触れた衝撃を、改めて思い起こす――。


 苫小牧港周辺は、工業地域として存続していた。緑の迷彩服の防衛隊に警護され、パンデミック以前の施設の一部が細々ながら稼働していたのだ。原発を一歩離れれば牛馬の排泄物の匂いが漂う農業地域である泊とは、全く異質な光景だった。

 視界に入る構造物には金属が多い。機材を保守する人員が多い。防衛隊の制服姿が多い。そもそも人間の総数が多い。

 そして、空気に燃料に似た刺激臭が混じっている。

 タケルは、それが旧世代の姿なのだと気がついた。

 おそらくZVを生き抜いたハガネの中で知識や技能を備えた者は、苫小牧に集められたのだろう。そして半世紀の間、旧世代の文明が衰退しないように整備と保守を続けてきたのだ。働く者の中には、若者も見えた。彼らは明らかに新世代のハガネだ。旧世代の技術者とともに働くことで、後継者を育てているのだろう。アキが育てた子供たちも混じっているに違いない。理解力に優れたハガネは、この地に送り込まれていたのだ。

 苫小牧の近くには石油備蓄基地があるという話は聞いた。長老も、いずれは苫小牧がエネルギーの生産基地になるだろうと言っていた。世界の崩壊以来、北海道には旧自衛隊の指揮によって全国から資材が集められた。さまざまな装置や技術者をかき集め、保守、保存してきた。その成果が今の苫小牧だったのだと理解できた。

 失われたものは膨大だが、自衛隊の重要装備は〝共食い整備〟によって辛うじて守られてきたと説明された。そして新たな研究開発も進められているという。

 それが、防衛隊が秘密主義を貫いてきた理由の1つだろう。生き延びた者たちが勝手に活動すれば、乏しい資源の奪い合いが起きるかもしれない。ハガネとアカゴの間に軋轢が生まれることもあろう。防衛隊と評議会、つまりは軍事と政治の間の対立もある。

 それらが安定して継続できる姿に落ち着くまでは、情報も自由も制限されることはやむを得ない。それが人類を生き残らせる最善策だと判断され、半世紀が過ぎたのだ。

 長老は『本州行きは試験のようなものか』という疑問を否定はしなかった。だとすれば、タケルたちに苫小牧の実態を見せることも試験の一環なのかもしれない。つまりアキやナオキも、次世代のリーダー候補だということだ。それが正しいなら、ナオキは明らかに評議会側に立っている候補だ。

 ナオキは泊ムラで原発保守の中心にいる。そのナオキですら、苫小牧を訪れたのは明らかに初めての様子だった。高度な技術体系は、たちまちナオキを魅了したようだ。ショウヤに対して、苫小牧に残らせて欲しいと必死に懇願していた。

 当然、認められなかったが、ショウヤは評議会にどっぷり浸かったナオキを引き入れることを嫌うそぶりを見せていた。タケルには好奇心が掻き立てられて出た言葉だとしか思えない、しかしショウヤが長老と一体なら、評議会の一部であるナオキを警戒することには必然性がある。

 彼らの対立は根深いようだ。

 長老はタケルに、今の均衡が崩れた時は未知の世界のリーダーになれ、とも示唆した。自分の側、つまりは防衛隊の配下にしたいと望んでいるなら、将来はナオキと対立することになるかもしれない。だがその言葉の真意は、まだ計りきれずにいる。

 ショウヤは現地の防衛隊に歓迎され、港に導かれた。金属の密林のような工場群を見上げながら防衛隊基地に辿り着くまで、妨害も障害も遅滞もなかった。

 全てが、あらかじめ計算された行動のようだった。

 苫小牧は、評議会の支配が及ばない、防衛隊の直轄地域だとしか考えられない。

 長老がタケルに説明した行動計画は、そもそもが偽物だったのだ。それはつまり、タケルが評議会に情報を漏らすに違いないという判断に基づいている。アキやナオキも同様に、見るもの全てに驚きを隠していなかった。2人とも、長老からは岩内漁港から出発すると聞かされたと言った。

 タケルたちは皆、信用されていなかったのだ。困惑が深まる。

 それならなぜ、わざわざタケルらを計画に組み込んだのか……。

 対立している評議会を欺くためなら、もっと簡単な方法がある。極秘に出発してしまえばすむことだ。敵側だと疑っているタケルたちを作戦に組み込む目的は、なんなのか――。

 その疑問も、案内された港に現れた奇妙な形の〝船〟を見た途端に頭から消え去った。

 船と呼ぶにはあまりに奇妙な形の、大きな乗り物だった。しかもそれは、陸上に置かれていた。

 金属の甲板の周囲を黒いゴムのチューブ状のものが取り巻いている。甲板の両側には大きな原動機らしきものが据えられ、船尾にはプロペラのようなものが取り付けられていた。巨大なゴムボートのようにも見える。

 呆然とするタケルにショウヤが説明した。

「エルキャックという水陸両用の乗り物だ。大きなトレーラーでも2台は載せられる。かつて自衛隊の装備だったものを保存していた。燃料も少量ではあるが、ここのプラントで精製し続けている」

 タケルは好奇心を隠せなかった。

「水陸両用って……?」

 ショウヤが得意げに胸を張る。

「エアクッション艇とかホバークラフトとも呼ばれる装備だ。両側に付いているのが、ガスタービンというタイプのエンジンだ。それで周囲のチューブを膨らませ、船体の下に高圧の空気を送り込む。すると船体が浮き上がって、陸上でも海上でも関係なく移動が可能になる。そして後部のプロペラで船体を押し、進んでいく……というより、海上スレスレを飛んでいく。空荷なら時速は90キロほど出て、水の抵抗を受ける普通の船よりはるかに速い。しかも60トン以上の荷物を運べる。航続距離も300キロ以上あるから、燃料の補給なしで六ヶ所村に往復ができる。元々はさらに巨大な、輸送艦という船の装備品だった。船の本体はもう動かせないが、エルキャックだけはなんとか保全している。防衛隊自慢の武器だ。ただし、武器だから、とんでもなくうるさい」

 エンジンが動き始めたエルキャックの甲高い騒音はひどいものだった。彼らは全員甲板に乗ったが、ナナミはずっと怯え続けている。幸い、天候は穏やかで海面も凪いでいた。陸路のトラック移動よりも、振動ははるかに少なかった。

 海上に出ると、タケルは風の当たらない場所に座り込んで長老のノートを読み耽っていたのだ。

 細かく振動する船体の上では、手書きの文字は読みづらい。しかも使われている文字や用語も理解できないものが多い。それでもタケルは何度も文章を行き来しながら内容を把握しようと苦闘した。頭も目も疲れる。時たま休憩をとりながら、それでも先を読まずにはいられない。そうして1時間以上が過ぎていた――。


 両舷のガスタービンエンジンが巻き起こす轟音から耳を守るために、全員が耳をすっぽり覆うヘッドセットを装着していた。ヘッドセットの通信機能も、作動しているという。

 苫小牧を出港してからずっとナナミにしがみ付かれているので、それすらも気にならなくなっていた。だが陸地が接近して遠方にその姿が見え始めると、波が高くなって揺れが増した。

 タケルはナナミの震えが強まったのを感じて、ノートから目を離した。

 必死に堪えていたナナミの恐怖が、暴れ出す寸前だった。

 理性の抑制が効かないアカゴは、時に発作的に激しい暴力を振るうことがある。ナナミは穏やかな性格だとはいえ、初めて経験する恐怖が異常行動を誘発する危険は高い。船内で予測不能の行動を取られれば、全員の命に関わる。

 タケルは支給された背嚢にノートを押し込んだ。背嚢にはあらかじめ緊急用の医薬品と食料、そして簡単な武器が入っている。同じものが、アキとナオキにも与えられていた。

 タケルはナナミを落ち着かせようと、背に腕を回した。ゆっくりと諭す。

「大丈夫だよ」

 だが、震えは止まらない。

 ナナミには簡単な耳栓が与えられていただけだ。タケルは緩んだ耳栓を詰め直した。

 だがナナミの表情は変わらない。恐怖に打ち負かされそうな目でタケルを見つめ、その腕を取った。意外なほど強い力でタケルに手のひらを自分の股間に導き、視線で訴える。

 騒音でかき消されたが、唇を見つめたタケルには声が聞こえたような気がする。

『おねがい……』

 彼らは自衛隊の野戦服を着せられている。タケルはナナミのズボンの中に手を入れ、性器に優しく触れた。

 ナナミは、救われたように目を閉じた。

 と、タケルのヘッドセットに兵士の1人の声が入る。

『こんなところでおっ始めるのかよ。これだからケモノだって言われるんだ。貴様、防衛隊でもないのに何しにきたんだ』

 軽蔑がむき出しだった。

 タケルは周囲を見回した。やや離れた場所に固まっていた防衛隊の何人かが、冷たい視線を向けている。彼らはずっと、ナナミを見張っていたようだ。行動が予測できないアカゴが同乗していることに、不快感を隠そうともしていない。

 全員が、ナナミを異分子として敵視している。

 その隣で、アキもタケルに冷たい視線を向けていた。ナオキが船酔いでそれどころではなさそうなことが、唯一の救いだったかもしれない。アキもナオキを気遣うことで、ナナミから意識を逸らそうとしているようだった。

 ハガネのほとんどは、成人したアカゴと共存する経験が少ない。多くの男にとってアカゴの女は性処理の対象でしかなく、多くの女は彼らを怖がって避ける。表面上はともかく、実際は奴隷としてしか見ていないのだ。

 だがタケルは違った。

 広大な土地を人力で管理する農業生産は、多数のアカゴの力を駆使しなければ立ち行かない。人糞を肥料に変える古代の農法には、ウジも沸けばハエも群れる。放牧した羊で毛糸を作るのはまだしも、潰して食肉にするのは力仕事だ。そんな作業に多くのハガネは関わりたがらない。だがアカゴを力で圧迫すれば、動物的な本能が激しい反発を生む。反発が結果的に自分の不利益になるという損得勘定は、彼らには理解できない。共存していくには、それなりの技術が要求される。少なくともアカゴの性質を理解し、ある程度は容認することが前提になるのだ。

 だからタケルは、農作業中にアカゴ同士が性行為を始めることには慣れっこになっている。アカゴは周囲の視線を気にしない。いや、できない。欲情に任せて作業を放棄したり、無理矢理行為に及ぼうとすることも日常茶飯事だ。無軌道になりがちな彼らを農作業に付かせるのは、多大な神経を使うものなのだ。

 その中でもナナミは、彼らをまとめ上げる能力が最も高い。大脳との接続がかすかに保たれている気配もあった。タケル以外の男を相手にしてはいけないことも理解しているし、ナナミの方から行為を要求することも滅多にない。

 そんなナナミがタケルにすがった理由は、恐怖以外にない。それも、初めて経験する激しい恐怖だ。

 ナナミ自身がどうしていいか分からずに取った逃避行動に違いない。

 タケルは意識して穏やかに言った。

「見逃してくれ。アカゴだから仕方ないんだ」

 ショウヤの声が入る。

『少しは我慢できないのか?』

「不安を忘れたくて必死なんだ。ナナミは軍人じゃない。しかも初めての村の外だ。海にすら出たことがない。こんな轟音も聞いたことがない。怯えているが、それでも必死に耐えている。ナナミは恐怖から気を逸らせたいだけだ。アカゴなりに、お前たちに迷惑をかけまいと頑張っている。オレはそれを助けてる」

 と、誰かが重苦しい声で割り込んだ。

『たかがアカゴに……ハガネがいなければ、生きてもいけない不良品だぞ……』

 ナオキだった。座り込んでアキに支えられながらも、タケルに敵意を向けていた。アキは、うつむいて黙っている。

「不良品……? 誰が決めた?」

『アカゴより、仲間を大事にするのがハガネの責任だと言っているんだ。そんなことも分からないのか』

 タケルには理解できない。

「不良品って、どういうことだ?」

『命令しなければ何もしない。命令してもろくにできない。喰って寝て交わるだけの、ろくに言葉も話せない獣だ。価値はないってことだよ』

「オレの言うことはちゃんと理解する。仕事もする」

『飼い主の命令だから、だろう?』

 アカゴに対する軽蔑を隠そうともしていない。

 タケルには、軽蔑する理由も分からない。

「誰がアカゴになるかなんて、運次第だ。どう生まれたいかは、選べない。赤ん坊を育てているアキなら分かるはずだ。オレやナオキがハガネだったのも、たまたまだ」

『随分ご執心だな。たかがアカゴに……。だがその女は、自分が庇われていることすら理解してないぞ』

「アカゴはそれでいい。それでも役に立ってる。それぞれの力を出して、働いている」

『なんでも言いなりだし、こんな時でも楽しませてくれるんだから、そりゃ便利だよな……』

 と、ショウヤがうんざりしたように言った。

『お前たちの言い合いは向こうに着いてからやってくれ』

 ナオキも目を逸らしたようだった。

 タケルが応える。

「言い合いをするつもりはない」

 ショウヤの語気が強まる。

『タケルがアカゴをどう使おうと、食い物さえ作っていれば構わない。だが、なぜ評議会にまでペットを連れてきた?』

「ナナミは記録に必要だったから一緒にいた。有無を言わせずに引っ張り込んだのはお前だ」

『記憶力がいいことは聞いている。だが、そんな様子で本当に役に立つのか?』

「オレには欠かせない」

『最初から記録するつもりだったのか? そんな必要があったのか?』

「呼ばれた時の長老の態度が気になったんだ」

『特別な話でもされたのか?』

「何か起きるかもしれないって予感がした。評議会と揉めているんだろう? ただの勘だったが、本当に事件は起きた」

『それはそうだが……上の揉め事は、お前が気にすることじゃない。それにお前だって爆発を見たはずだ。アカゴの記憶となんの違いがある?」

『ナナミの記憶は正確だし、時間が経っても変わらない。普通の記憶とは別物だ」

 ショウヤの返事に含み笑いが混じる。

『アカゴじゃ言葉すら理解できないだろうが。正確に覚えていたところで、どうせ説明もできまい』

「言葉が全く分からないわけじゃない。ナナミは見たものを写真のように脳に焼き付ける。だから、絵にして見せることもできる」

 ショウヤの声に驚きがにじむ。

『写真、って……』

「細部まで精密に覚えている。視界に入った光景は、意識していない場所でさえ脳に残る。だから、時間が経った後でも引き出して検討することができる」

 ショウヤの言葉に初めて真剣さが現れた。

『それは本当なのか?』

「オレはナナミの能力にいつも助けられている」

『ナナミは……本当に襲撃を記録したのか?』

「そうだ」

『襲撃された時の状況も、細かいところまで正確に記憶しているというのか?』

「覚えるように命じた。理解できる言葉が少ないから説明はできないかもしれないが、絵に表す訓練は積んでいる」

『目にした状況も理解できているのか? だとしても、どうせ幼児並みじゃないのか?』

「時間をかければ、ちゃんと分かる。それに、理解する必要はない。記憶したものを、そのまま書き写すだけだ。質問の仕方さえ正しければ、有益な情報が得られる」

『記憶って……そんなもの、すぐ忘れるだろうが』

「ナナミは忘れない。忘れろと命じるまで、細部まで正確に頭に刻みつけている。何年でも、だ」

 ショウヤはわずかに考えてから言った。

『信じられないが……後でゆっくり話を聞きたい。いいか?』

「オレもそうするつもりだ。記憶を確かめるときには、その場にいてもらって構わない」

『分かった。だが、遠征にまで連れて来る必要があったのか?』

「拒否できたか? あんな混乱した場所に残しておくこともできない。そもそも予定では、オレだけで来るはずだった。評議会が襲撃された理由も知りたい。誰がやったのか、犯人も知りたい。ナナミの記憶は重要な証拠になると思う」

『理由を知りたいのは俺も同じだが……』

 タケルはキッパリといった。

「それにナナミは、ペットなんかじゃない。アカゴでも、立派に役目を果たしている」

 ショウヤが鼻で笑う。

『役目だと? なんの?』

「お前らの食い物、誰が作ってると思ってる? 汗を流しているのはほとんどアカゴだ。しかもナナミが来てから、生産量は大幅に増えている」

 いったん言葉を飲み込んだショウヤは、詫びるように言った。

『評議会の襲撃は予想外だった』

「だったら、ナナミも被害者だ」

 ショウヤはわずかに考えてから応えた。

『分かった。好きにしろ。だが、俺たちの目に触れない場所でやれ。お前たちのマイクも切断する』

 それからは彼らを非難する通信は入らなかった。

 タケルは防衛隊からナナミを隠すように、船尾の構造物の陰に移動した。座り込み、ナナミを膝に乗せて背後から抱きしめる。ゆっくりと性器に当てた指先を動かし続け、耳元に囁く。

「大丈夫だよ……オレが一緒だから……」

「タケル……」

 ナナミの震えは次第に収まっていった。

 数10分後、船体は陸地に急激に近付いた。兵士たちが立ち上がって船首に集まり、下船の準備を開始する。

 右舷のエンジンの先に、遠くの森が見え始めた。船は向きを変えて陸地に向かっていく。波の侵食で崩れた堤防の間を通り、漁港らしき場所に入る。その先に水路があり、河口に侵入していく。両岸を背の高い葦に覆われた川筋に沿って、少し進む。右側に廃棄された村落が見えると、急速に視界が開けた。

 上流にある沼に出たのだ。沼を一気に直進すると、その先に古びたコンクリートの建物群が見えた。

 六カ所村の原子力研究施設だ。

 エルキャックはなだらかな湖岸に乗り上げ、そのまま施設のコンクリート舗装路まで侵入していった。舗装路はひび割れ、その間から雑草が生い茂っている。それでも、周辺に比べれば人間の活動の痕跡が残っている。さらに先には、いくつかの建物も目視できた。

 船体の下から砂埃を激しく巻き上げながら、道路沿いに進む。大きな倉庫風の建物に100メートルほど近づくと、そこでエンジンの回転が下がった。急速に騒音が弱まって船体が沈み込む。膨らんでいたゴムのチューブが萎んで、地面に着いた軽いショックが船体に伝わる。周囲を警戒して、あえて倉庫には近づきすぎない手筈になっていたようだ。

 兵士たちが立ち上がってヘッドセットを外すのが見えた。

 タケルもナナミから手を離し、立ち上がらせて耳栓を外してやる。

「着いたよ。下は陸地だ。もう怖くない」

 ナナミは目を開いた。今までずっと、固くつぶっていたらしい。

「まだ、こわいおと、する」

 ガスタービンの騒音は小さくなったが、完全には停止していない。待機状態らしい。

「心配いらない」

「こわくない?」

「怖くないよ。オレが一緒だ」

 ナナミは不意に真顔で尋ねた。

「みんな、ナナミ、きらい?」

「嫌いなんじゃない。アカゴのことをよく知らないだけだ。でもナナミは、彼らが困った時は助けるんだぞ。そうすればきっと、みんなナナミが好きになる」

「わかった」

 ナナミはようやく騒音が弱まったことにも気づいたらしく、呼吸も穏やかに変わる。かすかな笑顔を見せた。

 前方でショウヤの命令が聞こえた。

「全員、下船を開始する!」

 兵士の1人が操作すると、前部の壁が倒れてタラップに変わる。兵士たちは副官のサチを先頭に駆け降りていく。手信号で合図を交わしながら周囲を警戒し、素早く倉庫に向かった。 

 ふらつきながら立ち上がったナオキも、アキに支えられながら彼らに続いた。アキは、タケルに目を向けようともしなかった。

 タケルたちも彼らに続く。

 部下を送り出したショウヤが、最後尾のタケルに命じる。

「お前たちは俺と一緒に来い」

 タケルはショウヤの後について地上に立った。ナナミはタケルの腕にしがみついている。

 兵士たちは小走りに大型の建物に向かっていく。倉庫は、周囲を高い木に囲まれている。

 タケルは尋ねた。

「何を警戒している? ここも危険なのか?」

「心配するな。通常の手順だ」

 タケルたちも彼らの後を追った。

 倉庫に近づくと、前面のシャッターがわずかに開いているのが分かった。奥に、数人の男女が待ち構えているようだ。大きなシャッターがさらに巻き上げられ、兵士たちが入っていく。

 技術者らしい数人が、外に出て迎える。

 部下に合流したショウヤが前に出た。

「苫小牧から来ました。運ぶ機材はどこに?」

 先頭の老人が倉庫の奥を指さす。

「この中に用意してある。移動用のトレーラーが2台。その船にすぐに乗り込める。我々も同行したいが、構わないか?」

「そのように指示されています」そしてサチに命じる。「トレーラーを誘導しろ」

 その瞬間、彼らの背後で大爆発が起こった。轟音があたりを包み込む。

 兵士たちが爆風に煽られた。ナナミは轟音に押されるようにして膝をついた。

 振り返ったタケルは、炎を吹き上げるエルキャックを見た。

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