2・惨劇

『――ZVの発症率はおよそ5割とまでいわれた。発生直後はまだ世界中の通信網が機能し、情報も大量に流れこんでいた。むしろ、恐怖を煽るような大袈裟な映像が氾濫していた。日本での発症者は怯えてうろたえるだけで、各地の体育館に収容されて大人しく自衛隊に従う者がほとんどだと報道されていた。

 しかし海外ではオニが凶悪な暴徒となり、ハガネを襲って喰い始めていた。アメリカでは互いに銃で殺し合い、暴動と略奪が重なって瞬く間に社会が崩壊したという。中国ではZVに対処すべき軍が暴走して、真っ先に人民を襲い始めたようだ。ドイツではイスラムやアジア系を標的にした虐殺をシステマティックに行おうとしたが、言い争っているうちに喰い合って滅んでいった。フランスは革命騒ぎに湧いたものの、内部分裂で共倒れになっていった。英国では国を捨てて船で逃げ出したものも多かったというが、彼らとて着ける港はないだろう。南米・アフリカ・中東は一瞬も立ち直りを見せることなく崩壊し、ほんの数日で情報すら送って来なくなった。

 世界は、1週間も持ちこたえられなかった。

 辛うじて国家の形を保てたのは、自衛隊が先導した日本だけだった。だがその報道も、すぐに大半は嘘だったと暴かれた。

 自衛隊は実の所、凶暴化したオニを小銃で射殺するしかなかったのだ。私自身が、その先頭で引き金を引いていた。実力行使に反対する者も多かったが、いざ目の前にオニが現れると例外なく自衛隊の陰に逃げ込んできたものだ。

 しかし戦闘は、弾薬の供給もないままでは続けられない。誰の決断だったのかは今もって不明だが、可能な限りの人間を連れての北海道への移動が始まった。見方を変えれば、手が届かない場所は切り捨てるという判断だ。自衛隊が守れる範囲は決して大きくはないのだ。多くの人々が本州に取り残され、自力でオニと戦うことを強いられたのだった。当然、大半がオニに喰われた。だがあの決断がなければ、人類は全ての生存圏を失っていたはずだ。

 一方で、ZVはヒトに別種の能力を与えることがあると確認された。ZVを発症した者は理性を失う。それは理性の制御を外すことでもある。ヒト本来の潜在能力、進化の過程で封印してきた力を開花させる可能性も秘めていたのだ。

 副作用として、サヴァン症候群のような特殊な能力を持つ者たちが発生し始めた。とてつもない記憶力や計算能力、常人を超える身体能力を発現する者もいた。渡り鳥のように地磁気を明確に感じ取ったり、テレパシーのような超能力を発現する者もいた。大半の者が単に退化としか見えない状態に陥った中、ほんの一握りのアカゴが特殊な能力を発揮したのだ。それはおそらく、大脳との接続の一部が回復した証なのだろう。その繋がりが限定的で、しかもいびつで異常なために、大脳に隠されていた機能が暴走しているのだとも考えられる――』


 評議会が始まった。かつて「とまりん館」と呼ばれた、原発の広報に使われた建物だ。原発の本体からは数100メートル離れた場所にある。そのオリエンテーションルームが、評議会が開催される場所だった。200程の座席が傾斜状に並んで、前方のステージでの議論が見下ろせる形になっている。

 だが、傍聴席は半数ほどしか埋まっていない。

 前方で10人の評議員たちが議論を始める。タケルが彼らに農産物の育成状況を説明するのは、おそらく1時間後ぐらいになるだろう。それまでは後方の座席で待機していろと長老から指示されていた。

 だが、タケルの頭に議論は入らない。ノートの記述で満たされていたのだ。そこには、これまで疑問だった事柄への回答が溢れていた。

 疑問の1つは、ナナミだ。

 ナナミは18歳になったばかりのアカゴで、言葉も満足に話せない。成長は遅く、体も小さく細いので幼く見える。理解力も幼児程度でしかない。タケルからの指示も少し複雑になると、困惑してその場で動けなくなる。だが、異様なほど詳細な記憶力を持っていた。

 タケルがそれに気づいたのは、農作業の管理中に独り言を発した時だった。

「去年の今頃はどんな天気だったかな……」

 傍にいたナナミは、瞬時に答えた。

「あさから、おおあめ。ひるから、はれて、よるは、かいせい」

 ナナミは、気候に関する語彙はそこそこ扱えたのだ。

 タケルは、反射的に尋ねた。

「覚えてるのか?」

 ナナミはうなずいただけだった。

 タケルが試みにランダムに日付を指定すると、ナナミはためらうことなく気候の変化を明言した。のちに農業記録で精査したが、全ての答えが正しかった。さらにトウモロコシの生育状況を尋ねると、ナナミはそれを拙い絵で表現した。それも全て記録と矛盾しなかったのだ。

 タケルはナナミが異常な記憶力を持っていることを疑わなかった。風景や生物も、『覚えろ』と命じた瞬間の〝情景〟を細部にわたって脳に焼き付け、〝絵〟として表現する能力を持っていたのだ。画力が伴わないために解釈には困難が伴う。しかし、同じ記憶を引き出すように指定すれば、何度試しても寸分違わぬ絵を描いてみせた。

 ナナミの脳には、確かに記憶を写真のように定着させる回路が出来上がっていたのだ。

 サヴァン症候群というものをタケルは知らなかったが、特殊能力がナナミに宿っていたのは間違いない。それは長老のノートの記述と一致する。

 それ以後タケルは、ナナミに画力を高めるように指示してきた。まるで写真のような記憶が、共同体の存続の役に立つという直感が働いたのだ。実際、広大な農地を巡回しながら生産活動を管理するタケルにとって、ナナミの記憶力はとても役立っている。ナナミを連れて歩くだけで数カ所の生育状況を細部まで比べられるために、資材や堆肥を効率的に分配することもできた。もはや手放せない助手になっていたのだ。

 ナナミは本来、農業生産の拡大の補佐役としてタケルに預けられたアカゴの1人だった。共同体の重要部分を担うハガネには、通常10人前後のアカゴが〝従者〟として割り振られた。1つの班として各種の作業を進めているのだ。

 タケルの班では管理する地域も広く、実際の農作業はさらに多くのアカゴたちが行う。従者はタケルの指示で彼らを動かす〝管理職〟として、比較的理解力が高い者が選ばれていた。それは、アカゴに高度な役割を与えて人材を育成しようという試みでもあった。その多くは、女だった。ナナミはその中で、7番目に預けられた女だ。

 共同体にとっての人口減は、切実な問題だった。完膚なきまでに破壊された文明社会を復興するには、ハガネの増加を促さなければならない。婚姻の倫理も変化し、家族という概念も希薄化した。暴力を伴う行為は防衛隊が処罰することもあるが、基本的に〝交配〟は自由で、出産は歓迎された。生まれた子供たちは育成班が管理し、可能な限りの教育を行なった。本州行きに同行する予定のアキは、その班の管理者だ。

 当然ハガネ同士の交配は広く行われた。できるだけ多くの子供を産むことが正しいという〝倫理観〟も定着している。タケルもアキとの交配は何度も行なっていた。ハガネ同士から生まれた子供がハガネであることが期待されたからだ。だが、アキは不妊だった。大気中に蔓延する放射線の悪影響なのか、女の半数近くは子供を宿せないのだ。

 しかもハガネから生まれた子供の大半が、ZVに抵抗力を持っていないことも分かっている。逆に、アカゴの中から生まれる子供にも抗体を保持する者が発生する。新生児が耐性を有するか否かは、運に任されていたのだ。法則性はいまだに発見されていない。

 だから、生まれた子供が凶暴性を発揮した時点で、共同体としての決断がなされる。防衛隊が密かに〝処分〟することが通例となっているのだ。抗体保持者の発見、そしてオニの発生を見逃さないことは、タケルを含めたハガネ全員の役目だ。

 しかし、その事実が公に語られることはなかった。誰もが薄々知りながら、触れたがらないタブーだった。

 タケル自身も感付いていたが、あえて確かめようとしたことはない。長老が語ったように、ムラを壊す恐れがあると感じたからだ。それでもアキは、責任者として全ての処分を承知し、多くの現場に立ち会っているはずだった。

 ハガネの男のもう1つの任務は、ナナミを初めとする女従者に子供を産ませることだった。ハガネ発生のメカニズムを解明するために、逆に従者はリーダー以外とは肉体関係を持ってはならないと規定されている。タケルは特にナナミに目をかけ、常に身近に置いてきた。ナナミの中に知性に似たものを見出し、その変化を観察していたのだ。しかしまだ、ナナミには妊娠の兆候は見られない。今後妊娠が可能かどうかも、不明だ。

 今もまたタケルはナナミを補佐に選び、あらかじめ指示を与えていた。

『評議会に何か異変が起きたら、その状況を覚えろ』

 評議会と長老の間には、明らかな軋轢がある。オヤジは長老を疑っている。長老も、評議会に敵対意識を抱いている。長老から直接与えられた指示も、規範から外れる上に曖昧だ。

 評議会長の疑念も無理はない。

 タケルは直感していた。

――何かが起きている。

 彼らの不和が表面化すれば、共同体の命運に関わる。ましてや長老が本州勢力と通じて何かを企んでいるなら、タケル自身の生存を左右する恐れもある。

 青函トンネルはいまだに維持され、本州側との交通の要衝になっている。しかしそれも、泊原発からの電力供給が断たれれば湧き水を排出できずに、ものの1週間で水没してしまうだろう。本州の部隊を引き上げてトンネルを封鎖しようという議論は数年にわたって繰り広げられている。評議会は封鎖に積極的だが、それを長老が説得するという状況が続いていた。

 長老の意見は簡単だ。

 オニが完全に本州を制圧すれば、いずれは勢力を拡大して北海道に侵攻してくる。今は大掛かりな海上移動ができなくても、数10年後もそのままだという保証はない。事実、荒廃した大陸から耐性保持者が渡って来ているといわれて久しい。大陸に〝ハガネ〟が発生しない理由はないだろう。彼らが大陸的な〝侵略志向〟を保持していると恐れるのは、奇異ではない。オニを軍隊化するという危惧すら拭えない。

 しかも本州の各地に、まだオニ化しない日本人の集団が孤立しているという可能性が残る。人口を維持するためにも、可能な限り彼らを救わなければならない。そのためにも東北に守備隊を置いて緩衝地帯とし、定期的に捜索隊を送り出しているのだ。

 それは人類の存亡をかけた使命だ――と。

 対して評議会は、すでに本州を切り捨てている。

 本州にオニの集団が蔓延り、その勢力を拡大しているという見解は一致している。烏合の衆ではなく、命令に従う野盗のような群れが出没しているという報告も共有している。生き残ったハガネの発見もわずかになり、その救出はさらに困難になってる。北海道を完全に隔離して、北海道の守りに専念すべきだとの主張だ。

 タケルにはどちらが正しいかは分からない。だが、決断すべき時が近づいていることは感じられた。

 そして、もう1つの事実がある。

 これまで生き残りを率いてきたのが長老だということだ。

 東北守備隊への攻撃は過去に何度も行われてきたが、長老の直感的な判断によって回避されてきたのだ。長老は泊ムラにいながら、的確な指示を送ってトンネルを守り続けた。朽ちかけた大型漁船で函館を攻められたこともあるが、その際にも長老の指揮が巧みにオニを排除した。守備隊からの細かい報告を分析してオニの行動を予測する手腕は、追随を許さない。評議会もその実績を認め、長老の立場を奪うような愚行は犯さなかった。そもそも、長老の統率力がなければ防衛隊は充分に機能できない。

 タケルはそこに、評議会長の不安を嗅ぎ取っていた。

 長老の〝直感〟こそが、評議会の疑惑の原因なのだ。まさに超人的な洞察力の積み重ねが、疑心暗鬼を煽っている。

 評議会は動揺している。

 長老は何らかの方法でオニたちと通じ、泊ムラの奪取を企んでいるではないか。小さな実績を重ねて油断を誘い、オニの軍勢が強大化した時に一気に呼び込もうとしているのではないか――と。

 講堂の最後列に座ったタケルは、こっそり読んでいたノートから目を上げた。

 隣に座るナナミにかすかに袖を引かれたのだ。

 顔を上げると、反対側の席にアキが座った。

「タケル、どうしてアカゴを連れてるの?」

 アキの言葉には不快感が滲んでいた。

「いけないか?」

「アカゴの来るところじゃない」

「長老の許可は得た」

「そんなにナナミがお気に入り?」

「役に立つから、連れてきただけだ」

 アキは不満げにつぶやく。

「近ごろ、わたしを避けていない?」

 確かにタケルは、アキから距離を置いていた。アキが時折アカゴに対して見せる、高圧的な態度に馴染めなかったのだ。理屈っぽい冷静さが好きになれない。

 タケルは、アカゴたちには気を使わずにすむ。自分を偽らずに、自然体でいられる。あれこれ考えなければならないハガネたちより、はるかに楽に付き合えた。

 だがアキは逆に、彼らの裏表のなさを嫌っているように思える。

「忙しいだけだ」

 アキが身を寄せてささやく。

「あなたも本州に行くのよね。帰ったら、また抱いてくれないかな。あなたの子供が欲しい」

「産めるのか?」

 アキの返事には明らかなトゲがあった。

「あなたまでわたしを責めるの? わたしを求めるのは、年寄りばかり。子供ができないと決めつけて、みんな無視していく。あなたも年上は嫌なの? 従順なペットが欲しいの?」

 タケルは、アキがナナミを嫌悪する理由を察した。タケルに特別扱いされていることが不満なのだ。

 タケルには、ナナミを特別視しているつもりはない。与えられたアカゴとは均等に交り、実際に何人かの子供を産ませている。それがムラのためであり、正しい行動であることを疑っていない。

 活性化した精子を保っていることが確認された男は、貴重な存在でもある。

 しかし10歳年上のアキには、旧世代の倫理観がわずかながら残っている。幼い頃に〝家族〟という単位の実体験を持ち、無意識の底に記憶が沈澱していると感じることがあった。今は決して得られることのない関係だ。その欠乏感が、〝特別な異性〟を求めさせるようだ。そのアキからは、ナナミはタケルのお気に入りに見えるのだろう。

 タケルにとっては、理解はできても実感が湧かない感情だ。むしろ、自分を縛る煩わしい関係でしかない。

 10歳という年齢差は大きい。その間に、共同体の倫理観は著しく変化した。たったそれだけの歳月で、人々の感覚も断絶せざるを得なかった。先に産まれた者は、過去に縛られる。後に産まれた者は、過去を疎ましく思う。その間には、大きな壁が立ちはだかっている。世代間の考え方の違いなどという生温い差異ではなく、異生物にすら近い。

 だから、互いを理解する手がかりを見つけ出せずにいる。

 ウイルスは、危機を生き抜いたハガネ同士さえも分断してしまったのだ。アキは他の年長者と同様に、ZVパンデミックに精神を蝕まれた犠牲者でもあった。

 アキはかつて、自分の役目に疑問を持っていることを打ち明けたことがある。子供たちが10歳を過ぎてハガネの個性が発現し始めると、どこにあるかも分からない「学校」へと移送されていく。数年が過ぎるとそのうちの何人かが泊ムラに戻って各種の作業に従事する。戻らない子供たちがどこで何をしているかは、はっきりと知らされたことがないのだという。戻った子供たちの話によると、選別試験があって防衛隊に編入されたり別の役目を与えられているらしい。だが、それも定かでないという。

 防衛隊や評議会には、秘密が多かった。長老にそれを問いただしたアキは『我々が自由に生きるには、まだ障害が多いのだ』と誤魔化されたと語った。アキは泊のハガネの中心の1人でありながら、多くを知らされていない現実に孤独感を深めていたのだ。

 なにより、子供を育てる立場の自分が子供を産めないことに、引け目を感じているようだった。

 同情はできる。だからといって、アキと交配する気にはなれない。

「気にするな。お前は立派に子育ての役目を果たしている」

「タケルとなら、今度こそ子供ができる気がするのに……」

「帰ってから考える」

 タケルの返事の素っ気なさに、アキは体を離して顔を背ける。

 タケルは前方に目をやった。

 席から立ち上がった評議員たちが、長老と防衛隊代表たちに詰め寄っていた。本州遠征後の対応について、白熱した議論が交されている。長老も立ち上がって、評議員の集団からわずかに離れた。

 気になる動きだ。

「ナナミ、記録を始めろ」

「なんまい?」

「まず100枚」

 ナナミは記憶する〝写真〟を、枚数としてカウントすることを覚えている。それは、本の余白に書いた絵を動かす『パラパラ漫画』の要領で動画に近い記憶に変わる。

 ナナミは規則的な感覚で瞬きを始めた。瞼を開いた瞬間の光景を脳に焼き付けるのだ。何も起きなければいったん記憶を消し、新たに上書きすることも可能だと、タケルは知っている。ナナミの記憶の上限がどこにあるかは、試したことがない。

 タケルの直感は最初の〝録画〟で的中した。長老の体が離れた瞬間、講堂が大きな爆発音に包まれたのだ。

 爆発は評議員の周辺で起こり、しかも数回続いた。短い間隔で、3回ほどか。爆発音は渾然と重なり、はっきりと区別できない。

 壁が崩れ、辺りが白い埃に包まれる。

 タケルは身をすくめた。

 アキがしがみつく。

 だがナナミはじっと評議員たちの方向を見ながら、瞬きを続けていた。身をすくめ、耳を塞ぎ、硬直している。表情にも恐怖が浮かんでいる。それでも記録を止めずにいた。

 タケルには、何が起きたのか理解できなかった。気づいた時には、評議員たちが血まみれになって折り重なっているようだった。

 講堂の前方は粉塵と硝煙、そしてうめき声に満たされている。前方にいた傍聴者の中にも、倒れた者がいるようだ。舞い散る埃で何が起きたがはっきりは見極められない。だが、あちこちに鮮血が飛び散っていることは見てとれた。

 と、背後に叫び声が起きる。

「こっちに来い!」

 振り返ると、いつの間にか数人の防衛隊員が現れていた。その場から脱出しようとしている。先頭に立っているのはアキと同年代のショウヤだ。長老の息子だ。副官の女兵士、サチも混じっている。彼らは戦闘用の迷彩服を着込んで、それぞれ背嚢を背負っていた。

 すでに遠征に出発する準備が整っているようだ。

 アキが議場の混乱から目を離せないままつぶやく。

「助けなくちゃ……」

 ショウヤがアキの腕を掴んで立たせる。

「無駄だ! あれはクレイモア地雷だ」

 タケルが問う。

「クレイ……なんだ、それ?」

「馬鹿でかい散弾銃のようなものだ。しかも3発以上炸裂した。誰も助からない」

 アキはサチに預けられた。アキは前方を見つめていたが、抵抗もせずに背中を押されていく。

 タケルは叫んだ。

「オヤジもいるんだ!」

「だから、もう助からない。長老もだ! とにかくこっちに来い! そのアカゴは置いていけ!」

 ナナミは硬直したままだ。しかし目だけは混乱を記録し続けている。必死に命令を守っている。

 タケルはその健気な姿に動揺して、ナナミに命じた。

「もう記録はやめていい!」

 ショウヤがタケルの腕を掴む。

「置いていけ! すぐ出発する!」

「そんなことできるか! だったらオレも行かない!」

「とにかく出ろ!」

 タケルは強引に引っ張られて講堂を脱出した。アキの後を追う。ナナミも従った。

 外に出ると、爆音を聞きつけた群衆が周囲から集まるところだった。動揺を隠せない群衆を、防衛隊員たちがなだめている。

 ショウヤは彼らから身を隠すように建物を出て、原子力発電所本体の背後に回った。

 タケルが問いただす。

「なぜそっちへ⁉ 誰かから逃げてるのか⁉」 

 群衆から離れるとショウヤは言った。

「そうだ。多分奴らの中に、爆発を企てた一味も混じっている。俺たちはすぐに本州に向かうぞ」

「襲撃されると分かってたのか⁉」

「疑ってはいた。確信はなかったが、準備はしていた」

 タケルは改めて防衛隊の一群を見回した。

 ショウヤの他は5人で、うち1人はサチだ。

「長老の命令で動いているのか?」

「お前の警護を任されている。だが今、変更になった」

 タケルに疑問が湧く。オヤジは長老が良からぬ計画を進めていると疑っている。そして、現実に評議会が襲われた。長老の息子であるショウヤが同時に行動を起こした。

 結託していると疑うのが自然だ。

「変更ってなんだよ⁉ 長老と何かを企んでいるのか⁉」

「俺と長老は関係ない。防衛隊の命令だ」

「だが長老は、防衛隊の幹部だ」

「防衛隊だって1つじゃない」

「どういうことだ⁉」

 周囲の混乱と叫び声が高まる。

 アキがタケルにしがみつく。

「そんなことより、早く逃げよう! なんか、怖い!」

 タケルもうなずき、仕方なくショウヤたちに従う。ナナミがついてきていることを確認して、走りながら改めて問う。

「目的地を知っているのか?」

「六カ所村」

「それも変わるのか」

「目的は同じだ」

「目的はなんだ?」

「ある装置を受け取りに行く」

 そこにも変化はないようだった。

「同行しろと命じられたんだが――」

「俺たちが警備する。回収部隊であり、戦闘になったら盾になる」

「やっぱり危険なのか?」

「オニがどこまで侵食しているかが不明だ」

「それでも行かなければならないのか?」

「ムラの行く末がかかっている」

「何を取ってくるんだ⁉ 装置って、なんだ⁉」

「着けば分かる。ナオキはもう待っている。すぐに出る」

 タケルはショウヤを試すように言った。

「ナナミも連れて行く」

 ショウヤが立ち止まってナナミを見る。

「不要だ」

 タケルはナナミの手を取って、力強く引き付けた。

「だが、襲撃を記憶した。ここに残していきたくない」

 タケルは何が起きたのか、ナナミの記憶で確認したかったのだ。それによって長老の正体が見極められるかもしれない。その情報を加味すれば、ショウヤの立場を明らかにできる可能性もある。

 本州へ向かうにしても、ナナミを手放すわけにはいかない。

 ナナミの特殊能力は、大勢が知っている。ショウヤも聞いたことがあるはずだ。

 ショウヤは疑い深そうな視線をナナミに向けた。

「こいつ、本当に記憶力がいいのか?」

「見てはいた。じっくり確かめたい」

「時間がない。詳しい話は後だ。お前がそういうなら連れて行く。だが、責任はお前が取れ。モタモタしていたら邪魔が入る」

 タケルはショウヤの慌てように疑念を深めた。素直に従うのは危険すぎる。

「長老を探して、指示を確認したい」

「あの場にいたんだぞ。もし助かっていても、大怪我を負っている」

「オヤジの安否も――」

「そんな暇はない! すぐに出発しなければ、邪魔される!」

 怒号が飛び交う建物の混乱は、外にいても感じられる。評議員にも多くの死者が出ているはずだ。誰かが評議会に反旗を翻したのだ。

 共同体の命運を左右する大事件だ。

 タケルにとって泊ムラはかけがえのない世界だ。というより、他の世界を知らない。だから泊ムラを守るために力を尽くしたかった。それは、自分自身を守ることと同義だ。

 救助を手伝えるなら、参加したい。だが、防衛隊員は他にもたくさんいる。この場の対処にふさわしい人材は揃っている。農業専門のタケルが足を引っ張る恐れもある。

 一方でショウヤは、誰かに出発を妨害されることを異様に恐れている。明らかに、彼らの本州行きを阻もうとしている者たちがいるのだ。

 ムラは今、大きな対立に引き裂かれようとしている。

 誰が正しいのか、今は分からない。何が正しいのかも分からない。だが、それを確かめなければならない。このままムラを分裂させるわけにはいかない。

 もし長老がショウヤと組んでムラに危害を加えようと企んでいるなら、阻止しなければならない。実態を暴けるのは、すでに計画に組み込まれているタケルだけかもしれない。

 混乱を致命傷に変わらせるわけにはいかない――。

 何が起きているのか確かめる必要がある――。

 タケルは心を決めた。

「分かった。従う」

「こっちへ」

 ショウヤに先導されてムラ外れの倉庫に入る。

 中には防衛隊のトラックが用意されていた。大きな幌で荷台を囲った、旧自衛隊の装備だ。燃料不足が深刻な近年では、物資の運搬には牛馬が用いられていた。防衛隊が集中する泊ムラ周辺ですら、滅多に見かけなくなった車両だ。

 タケルは驚きを隠せない。

「こんなもの、まだあったのか⁉」

「古い兵器を整備して保存している場所がある。そこから運んできた」

「燃料は⁉」

「それも保管している。充分ではないがな」

「だが、出発は岩内漁港からの計画だろう? すぐそこなのに、わざわざ貴重品を使うのか?」

「経路を変更する。計画が漏れている。漁港は敵の監視下だろう。俺たちも襲撃される危険が高い」

 はっきりと〝敵〟という言葉が出たことに驚く。

「敵? 誰かがムラを襲うのか? 誰が?」

「本州勢力だ」

「オニか⁉」

 ムラは常にオニの襲撃に備えていた。函館近辺の海岸周に小舟で乗り込んでくるオニの情報も増えている。しかし、実際に彼らが原発に接近できたことはない。防衛隊が的確に対応していたからだ。

 だがショウヤは厳しい表情を崩さない。

「奴らの手先はすでにあちこちに浸透している。さまざまな場所に潜伏して、決起の機会をうかがっているかもしれない。統率する組織もあると考えた方がいい。電力供給の中心である泊を無傷で奪取したいんだろう」

 オヤジは、オニを呼び込んでいるのが長老かもしれないと疑っていた。

 確かめなければならない。しかし、慎重に――。

「海路を使わずに、どうやって本州に? トンネルか?」

「それは出発してから説明する」

 彼らはトラックの荷台に乗り込み、出発した。海沿いではなく、山へ向かって行く。

 ショウヤは幌をわずかに開き、後方を確認している。追跡を恐れているようだ。

 幌の隙間から見える風景は、タケルには見慣れたものだ。周辺には管理を任されている農地が広がっている。明らかに羊蹄山の方向へ進んでいる。

 タケルがつぶやく。

「どこへ向かっている?」

 ショウヤは振り返りもせずに応えた。

「まだ言えない」

 だが、ようやく安心したかのように、幌を閉じる。そして部下たちが並ぶ隣に座った。タケルたちと対面する。6人の小隊だ。

 タケルの両脇にはアキとナナミが腰を下ろしていた。2人とも不安を隠せないままだ。少し離れた場所に、ナオキがいた。最初からトラックの中で待っていたのだ。いつもとは違い、防衛隊の迷彩服を身につけている。

 ナオキは原発の運転や送電を中心にエネルギー関連を統率する班の長だ。工学系の頭脳を持ち、冷静な判断力を認められている。アキより少し年上だが、多くの部下を育ててきたために後継者には事欠かない。エネルギー供給を差配する重要部門の中心で、評議会入りするのも間近だと見られている。だが職務の性質上、部下のほとんどが理論的な思考が可能なハガネで占められ、閉鎖的な集団だともいえた。

 そもそもナオキは、タケルと同様に評議会長に育てられた男だ。旧世代の考え方に従えば、タケルの兄だともいえる。しかしタケルにとっては馴染みやすい相手ではなかった。評議会の指示で原発を運用するナオキはほとんど屋内にいる。評議会とほぼ一体化しているのだ。

 屋外でアカゴと働くことが多いタケルとは接点が少なかった。時たま行われる評議会で顔を合わせても、軽い挨拶を交わす程度だ。タケルが苦手とする、冷たい印象の性格でもある。ハガネの間では人当たりのいい温厚な男だとみられているようだが、タケルには計算高くて暗い男だとしか感じられない。

 逆にナオキも、アカゴたちと屈託なくコミュニケーションを取るタケルを避けているようだった。しかもナオキは、まだ子供を産ませていない。自身の精子が不活性なことが負い目なのかもしれない。優越感と敗北感が入り混じった目でタケルを見下ろすことも、ある意味当然かもしれなかった。

 ナオキもまた、旧世代の尻尾を引きずっている自分を現実に折り合わせることができずに、苦しんでいるのだろうか。

 ショウヤが言った。

「奥に迷彩服を用意してある。お前たちも着替えてくれ」

 タケルたちは命じられるままに、揺れるトラックの中で迷彩服に着替えた。3人とも、着たことがない服だ。まさに、戦場に赴く兵士の緊迫感が満ちる。

 それまで無言だったアキが、うつむいてつぶやく。

「戦争に行かされるのかな……」

 タケルが小声で応える。

「断れなかったのか?」

「あなたも断っていない」

「オレは、知りたいことがある」

「わたしは、命令に従う。それしかできない。それしか役に立てない……」

「アキは役に立ってる。子供をいっぱい育てている」

「そう命令されてきたから、やってただけ。それだけ」

「好きではないのか?」

「今まで、言われたことしかしてこなかったもの……。それに、もうわたしがいなくても、子供たちを育てる仕組みは出来上がっている。むしろ今じゃ、仕事が少なくて余計なことばかり考えてしまう。自分の子供がいれば、こんな気持ちにもならないだろうに……」

「妊娠しないのはアキだけじゃない。戻ったら、代わりに好きなことをすればいい」

 アキの言葉にトゲが混じる。

「今さら、何をしろって?」

 タケルはその時、自分がアキに馴染めない本当の理由が理解できた気がした。

 意思が欠けているのだ。生命力が希薄なのだ。だから、アカゴとともに過ごしている時のような楽しさを感じない。喜びや高揚感がない。

 アキに応えることはできなかった。

 ナナミに目をやる。

 ナナミは初めて着る迷彩服に苦戦しているようだった。タケルの見真似で着られはしたものの、サイズがやや大きい。

 タケルはナナミの服を整え、袖や裾を折り曲げて調整した。ナナミは穏やかな表情でなされるままに委ねている。迷彩服を着ることが何を意味するのか、理解できていないのだろう。

 アキは2人に背を向け、無言で席に戻った。その視線が一瞬、羨ましげにナナミに向かったことにタケルは気づかなかった。

 その空気を察したのは、ナオキだけだ。

 タケルたちも席に戻る。正面のショウヤに言った。

「まだ行き先は言えないのか? もう教えてくれてもいいだろう?」

 今度はためらわなかった。

「苫小牧だ」

 意外な答えだった。

 洞爺湖周辺にまでは広大な農地が広がっていて、タケルは定期的に巡回している。太平洋側に出るとしても、洞爺湖近辺の海岸だろうと予測していたのだ。それですら、足を伸ばしたことはない。タケルにとっては未知の場所なのだ。

 北海道の大まかな地形は知っていた。苫小牧まで行くには洞爺湖から海岸沿いに進むか、峠を越えて支笏湖方面に向かうしかない。いずれも道路が荒れるにまかせ、整備が不充分だと思っていた。苫小牧の現状も詳しく聞かされたことはない。供給される燃料は防衛隊が備蓄していたものだと信じ込んでいた。長老のノートの記述が知識の全てだ。

「太平洋側……だよな? まだ生きている街があるんだな?」

「燃料は苫小牧から来る。旧世代の原油備蓄がわずかに残っているし、原油と天然ガスの採掘も細々と続けているそうだ。詳しい原理は俺には分からないが、CCSプラントという施設で水素と二酸化を作って、イーフューエルという燃料にしているという説明も聞いた」

「行ったこともあるのか?」

「何度か。エネルギー生産が安定化すれば、泊の次の中心地になるだろう。そこから六カ所村へ向かう。岩内漁港から海路を取れば、津軽海峡を廻って行くことになる。時間がかかるし、そもそも岩内には必要な大型船がない。苫小牧からなら時間がずっと短縮できる」

 それはつまり、出発地は最初から苫小牧だったということを意味する。タケルたちには計画の核心が隠されていたのだ。

 長老たちの策略に利用されているのではないか――。

 タケルの不安が高まる。

 いったいどうして、自分が引き込まれたのか……?

 タケルは農業生産にしか従事してこなかった。アカゴたちを仕切るのには慣れているが、共同体を奪い合うような陰謀とは無縁に思える。

 タケルはショウヤの真意を見抜こうと、質問を続けた。

「トマコマイへはどの道で行くんだ?」

「峠を越える。海岸沿いは時たまオニが上陸してくる。計画が漏れているなら、襲撃される危険がある」

「こんな大きな車が通れる道がまだ残っているのか?」

「最低限の整備は続けている。だから今までもムラに燃料が運べたんだ。今は泊ムラがエネルギー供給の中心だが、今後は苫小牧に移るかもしれない。その可能性に備えて、道路整備には重点的に資材を投下してきた。それに周辺にはかつての自衛隊の基地が散在している。武器や弾薬もまだ保管されている。太平洋岸は、次の世代の北海道の生命線だ」

 ナナミは席に座った途端に、ぐったりと首をタケルに預けた。トラックの揺れに誘われて、一気に緊張が解けたようだった。軽い寝息が聞こえる。まるで、赤ん坊そのもののように無防備だ。タケルはナナミの肩を抱き寄せて、かすかに笑った。

 対照的に、アキは無言だった。その横顔は、無表情だ。

 タケルは、アキから拒絶されていると感じた、だが、内心が穏やかではない理由は、そこにはない。

 苫小牧という場所がそれほど活発に活動している事実は、これまで知らされてこなかった。おそらくムラの住人のほとんどは知らないだろう。あえて秘密にしているとしか思えない。知っているのは防衛隊と評議員程度だろう。

 そこがどんな場所で、何が行われているのか、知りたかった。なぜ隠す必要があるのか確かめたかった。

 好奇心が抑えられない。

 苫小牧を見たいという欲望は膨れ上がる一方だった。

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