崩れゆく世界で

岡 辰郎

1・指令

『――異変の発生は20年前に遡る。発端は中華人民共和国と呼ばれた地域での、奇病の発生だった。罹患した人間は理性を失い、凶暴化して他者を襲い、犯し、殺し、喰った。彼らはまるで、当時娯楽として濫造されていたゾンビ映画の怪物のように振る舞った。当然、俗にゾンビと呼ばれたが、不死身ではない。傷つけられれば痛みにのたうち回り、逃走しようともする。心臓が止まれば2度と起き上がらず、腐っていく。映画のように、脳が破壊されるまで動き続けるということはなかった。それでも、腐肉を喰らう彼らの姿は、空想上のゾンビそのものだった。そしてその奇病ZV――ゾンビウイルスは瞬く間に中国大陸を席巻し、数ヶ月で地球全体を覆い尽くした』


 古ぼけたノートの文字を追うタケルは、自分の手が震えていることにすら気づかなかった。それは、〝この世界〟の成り立ちを示した記録だ。そして、生まれてから30年間近く、教えられてこなかった歴史だ。

 タケルはノートから目を上げた。黄ばんだ大学ノートは角ばった手書きの文字でびっしり埋め尽くされている。書いた人間の、誠実で几帳面な性格がにじみ出ていた。タケルには読めない漢字や意味の分からない単語も多かったが、おおよその内容は理解できたと思う。

 続きを読まずにはいられない。


『奇病の正体が判明したのは、人類の約半数が喰らいあった後だった。正体は兵器用に開発されたウイルスだとも噂され、驚くべきことにBBB――ブラッド・ブレイン・バリアと呼ばれる血液脳関門を突破して、脳幹に達する力を持っていた。そして大脳と小脳の結束点に作用し、その連携を破壊した。結果、人体は大脳による理性の抑制を失い、小脳に宿る原始的な本能にのみ従うことになった。

 発症者の行動原理は単純だ。喰らい、繁殖し、君臨する。彼らには、言語さえ存在しなかった。なのに、脳の最深部に収納されている海馬には記憶が残っていたようだ。人としての記憶を理解する能力を失ったゾンビ――今では〝オニ〟と呼ばれる種族は、理解できない記憶を持て余し、苦悩し、苛まれ、さらに凶暴になった。

 だから彼らは、より多くの他者を犯し、殺し、貪ったのだ。

 地続きの地域は、ほぼZVに席巻された。極端な高地などには〝人類〟の生き残りがいるといわれたが、それはすでに確認不可能な伝説となっている。惨禍を逃れたのは、物理的にオニの排除が可能な島国だけだった。しかも日本と台湾には、特異な発症例が現れていた。罹患者の中に、凶暴性を持たない者がいたのだ。彼らも理性や言葉を失って本能を剥き出しにはしたが、穏やかで協調性を保ち、むしろ従順だとすらいえた。

 彼らは「神がもたらした無垢な子供たち」という意味で〝アカゴ〟と呼ばれた。対して、感染後も症状も発しない健常者には、いつの間にか〝ハガネ〟という呼称が定着した。ウイルスに対する強靭な体質を称賛する呼び名だ。

 病変である以上、一定の割合で耐性を持つ者は発生する。ZVの抗体を持ち、オニの襲撃から逃れられたものは次第に日本に集まった。だがその数は、決して多いとはいえない。そして従順なアカゴを働き手として、日本列島から台湾にかけて新たな生活圏を構築した。その台湾も、大陸を席巻したオニの集団に襲撃を受けているようだ。大陸由来の外省人の多くがオニ化し、その排除に失敗したという風説もある。だが、電子機器を中心とした文明が潰えたために、もはや確かめる方法はない。

 近年では、オニを統率するリーダーが生まれていることも疑われる。ZVへの完全な耐性を持たないまでも、単純な言語や思考力を維持できている個体もいるに違いない。中国由来のオニたちがかつての独裁体制を再現したなら、強力な軍隊に変わる恐れも大きい。

 それを裏付けるように、彼らは主に九州から日本に侵入して勢力を広げてきた。東京以西は、もはやオニの領域に変わったといっていいだろう。日本は二分された。惨禍から20年がすぎ、この北海道だけが世界から孤立した。泊原発からの電力供給を基盤にして東京以北は死守してきたが、それがいつまで続けられるかは不明だ――』


 タケルにノートを手渡した〝長老〟が言った。

「タケル……お前は、この世を襲った大災害ののちに生まれた世代だ。この記録を記し始めたのが、ちょうどお前が生まれた頃になる。それからもう、何10年も過ぎてしまった……。なぜこれまでこの事実が隠されてきたのか――不思議に思うかもしれない。むろん、惨禍を切り抜けてきた旧世代たちは全てを見てきた。だからこそ、知らせられなかったのだ。ZVは今でも我々の中に生きている。幸い多くのアカゴには凶暴性が現れないが、それがいつまで続くかも分からない。稀に暴れ出す者がいたが、彼らは〝防衛隊〟が密かに処分してきた。だから、軽々しくは話せなかった。事実が知られれば、ハガネとアカゴがとともに暮らしていくことは難しい。そして、ムラが崩壊する。我々の個体数は、それほど少なくなってしまった。ZVの研究者も、もはや絶えたといっていい。この奇病を抱えながらムラを維持していくには、隠しておくしかなかったのだ……」

 タケルは、秘かに長老を訪ねるように指示された時から、疑問を抱いていた。長老の部屋は原子力発電所の〝所長室〟にある。そこに招かれたのは、初めてだ。しかも、迎え入れたのは長老ただ1人だった。

 それ自体が、事の重大性を示している。

 タケルの記憶には、長老が数人の取り巻きと行動を共にしている姿しかない。泊のみならず、北海道全域の守備に責任を持つという長老は、身辺の警護にも気を遣っていると耳にしたことがある。本州で勢力を拡大するオニたちが、北海道に刺客を送り込んできているという噂も絶えない。それだけに、無防備な長老を見たことが意外だったのだ。

 とはいえ、原発深部は一般のハガネが入れる場所ではない。長老と10人ほどの評議会議員、そして装置を保守する班員以外は、特別の許可が必要だ。施設内外を問わず、戦闘力が高い旧自衛隊員が万全の警備体制を敷いている。それだけに、内部の荒廃度合いは少ない。大災害から半世紀が過ぎても、まだ文明の香りを漂わせている。

 ムラだけではなく、北海道全体の維持に欠かせない電力を供給する泊原発は、最重要施設なのだ。核燃料が尽きる前に永続的な燃料を得るために、高度な開発力を持つ人的資源は苫小牧に集中している。備蓄基地のタンクに大量に保管されていた原油の精製、天然ガスや油田の掘削、水素や二酸化炭素の利用などに多くの電力が投入されている。羊蹄山を中心に広がる農地の維持にも、少なくない電力が必要になる。その間の送電網や道路の維持にも資源が集中的に投下されていた。しかし、その事実は泊ムラの住民の多くには知らされていない。

 タケルも例外ではない。勝手気ままに居住地を移動しないように権利は規制され、情報の管理が徹底されていたのだ。生存の基盤すら不安定な状態では、冒険心や好奇心はトラブルの元にしかならないという判断だった。

 原発から一歩出れば、かつての建築物の多くは朽ち、ひび割れ、崩れ、蔦や雑草に覆われている。保守する必要がないとみなされた遺物は、荒廃するに任されている。泊と苫小牧を結ぶ複数のラインは最低限の通行が確保されているが、かつての中心地であった札幌や旭川は旧自衛隊施設を除いてほとんど廃墟になった。共同体の維持に最も力を尽くしたのは旧自衛隊員たちで、今もそこでは基礎的な医薬品の製造などが研究されている。

 それでも最も重要なのは、主にタケルが管理する食料生産だった。原発をから洞爺湖方面に向かって広大な農地や牧草地が広がっているものの、生産効率は決して高くない。点在するムラで数多くのアカゴが生産に従事しているが、動力の主力は人力と牛馬だ。一部の用途のために重機や農耕車両、そしてトラックなどが保管されているが、そもそも燃料の使用が制限されている。それらを運転する技術を持つ者も、タケルや防衛隊員の一部しかいない。

 各地に散らばる住民や東北守備隊の胃袋を満たすことが優先され、文明生活の保持が疎かになるのは仕方ないことだった。

 タケルは目を上げて長老を見た。

「オレを呼んだのは、これを見せるためか?」

「お前に引き継ぐためだ」

 タケルの目に明らかな驚きが浮かぶ。

「これ、大切なモノでは?」

「むろんだ。私自身が命を守りながら書き記した記録……多くは秘密の内容だからな。誰にも見せたことはないし、誰にも明かさなかった事柄も記した。だから、手渡されたことも秘密だ。内容は誰にも話すな。ショウヤにも、だ」

「ショウヤはあんたの息子だろう? しかも防衛隊の中心だ。みんな、いずれはあんたの跡を継ぐと思っている。それなのに?」

「それだから……かもしれない。それに血筋や家族関係は、もはや大した意味がない」

 長老の歯切れの悪さに、触れてはならない部分だと察する。

「でも、なぜオレに? 今まで、挨拶しかしたことがないのに」

 長老の返事は、そこに迷いはなかった。

「話はせずとも、行動は見守っていた。評議会の要請に充分以上に応えていたことも知っている」

「見張っていたのか?」

 タケルは平素から、評議会と長老が微妙な対立関係にあることを察していた。自衛官出身の長老が電力供給と防衛体制の中枢を手放さないことを、評議会全員が苦々しく思っているようなのだ。仮に対立が激化するなら、タケルは評議会の配下に組み込まれるものと考えていた。

 タケルを育ててきたのは、主に今の評議会長だった。その頃はまだ、家族や家庭という概念の残滓があったのだ。実際にタケルは、評議会長を〝オヤジ〟と呼んでいる。しかも農業生産に関する要求や指示は、評議会から送られてくる。仕事の上ですら、長老と直に接した経験はない。

 とはいえ、タケルにとって〝家族〟という実感はないに等しい。同年代のハガネは、みな同じだろう。あえていうなら、ムラ全体が1つの家族なのだ。

 長老も、タケルの立ち位置は承知しているはずだ。

「人類はその数を減らしている。誰がどんな能力を有しているかを見極めるのは、指導者の務めだ。それがたとえ、私を快く思っていない者でも、だ」

 やはり長老は、タケルを〝敵〟と想定した上で何かを語ろうとしている。この状況こそが尋常ではない。

「だからオレをこっそり呼んだのか?」

「私を排除したいと願っている者も多いだろうからな」

 タケルは、長老の意図を正しく知りたいと思った。

「なぜ、防衛隊は評議会と対立する?」

「お前には理解し難いことかもしれないが、パンデミック以前の関係が今だに尾を引いているともいえる。評議会の多くは、かつての政治家たちだ。対して防衛隊の中心は、自衛隊員だった。いわば、兵士だ。互いに不信感を抱く間柄だったのだ」

「災害から50年も過ぎている。そんなことを今でも根に持っているのか?」

「旧世代は皆そんなものだ。心の底に染み付いた悪しき縄張り意識だとは分かっている。だからといって、簡単には忘れられない。だが、泊ムラを維持するためには政治力が必須だ。だが、政治力は北海道の隅々までは届かない。中央部を除けば人口はまばらだし、かつての中心地だった札幌もオニとの激戦で廃墟になった。逆に自衛隊の基地は辺縁部に多く、そこには旧世代の兵器や資材、そして工兵隊員たちの技術があった。オニとの戦闘が激しかった頃は、民間人の避難所として独立した街にもなっていた。戦闘がひと段落して電力が供給されるようになり、北海道の中心は泊ムラに移った。自衛隊は防衛隊に名を変え、警察業務とオニの掃討、そして外部からの攻撃に対処する役目を担った。各地に残っていた共同体も連携したが、自衛隊の傘下にあった街までは評議会の思い通りにはならない。結果、疑心暗鬼と対立感情が消えないままになってしまった」

 タケルの脳裏に、次々に疑問が湧く。

「だったら、どうしてトマリの長があんたなんだ?」

「原発が最重要施設だからだ。何があっても守り通さなければならない。評議会だけでは、防衛隊を管理しきれない。散発的だとはいえ、オニたちは攻撃を仕掛けてくる。特に泊はロシアが近い。飢えに駆り立てられる彼らを跳ね返すには、軍事的センスが必要だ。海に面している原発の警備には、防衛隊の能力が不可欠なのだ。電力供給網を維持するにも、工兵部の技術が欠かせない。だからといって、全てを委ねれば防衛隊に実権を奪われる――と、恐れているんだろう。旧世代からの政治家の習性といっていい。だからムラ全体は評議会が管理し、私を形ばかりのトップに据えて原発だけを守らせようとした。防衛隊も不要な疑念は持たれたくない。その結果が、今の状態に落ち着いた」

「評議会は防衛隊をどうしたいんだ?」

「それはお前の方が詳しいだろう。知らないのなら、評議会長に聞けばいい」

「オヤジとはしばらく話をしていない」そして最大の疑問に切り込む。「長老は、オレを味方にしたいのか?」

 意外なことに長老は微笑みで答えた。

「率直だな。新世代は概ね屈託がないが、お前は特に真っ直ぐなようだ」

「難しいことは分からない。だが、オヤジの言いつけは守ると決めている」

「泊ムラは、いつまでもこのままではいられない。原発燃料も尽きる日が近い。その先の世界は、旧世代の知恵や常識が全く役に立たないものになるだろう。私はすでに遺物だ。未来を切り開いていくのは、タケル、お前たちだ。過去の規範にとらわれず、世界の変化に柔軟に対応していく力と創造性が必要になる。それを一番備えているのは、お前だと思っている」

 タケルの警戒心は消えない。長老が何を言わんとしているのか、全く理解できない。

「オレは主にオヤジの指示で動いている。これからも評議会の命令に逆らう気はない」

「それで構わない。今は、だがな。旧世代は急速に老いている。地球は放射線だらけの世界に変わったからな。この均衡が崩れるのも、そう遠い未来ではない。その時は、さらに先のことを考えて決断して欲しいのだ」

「評議会に従うな、と?」

「タケル自身の頭で考えて、決断してほしい」

「なぜ? オレは作物を作っているだけだ」

「それが重要なのだ。私たちは結局、世界の変化に対応し切れなかった。アカゴとのつながりもうまく作れなかった。なのにお前は、彼らを上手に組織し、共同体維持の要になっている。お前がいなければ農産物の供給体制も今のように順調にはならなかっただろう。食い物は生命維持の基本だからな。馬や羊の繁殖や利用も巧みだ。アカゴに慕われ、ハガネとの仲立ちにもなっている。これだけ人口が減少した世界で、反目や差別を生むことは自害行為に等しい。その摂理を受け入れ、自然に実行しているのはお前だ。次のリーダーは旧世代の幻想から抜けきれない評議会ではなく、お前が組織するべきだと考えている」

 意外な発言だった。

「オレをリーダーに……? だが、あんたにはショウヤがいる」

「血が繋がっているからといって、リーダーの素質があるとは限らない」

「でもオレ、電気のことは何も分からない。防衛隊のことも知らない。評議会がいなければ、機械も動かせない」

「原発は、今ある燃料が尽きれば二度と動かせない。そのために苫小牧を中心に石油や天然ガスを採取できる体制を進めてきたが、原発の休止前に安定採掘を可能にできるかどうかは確信が持てない。石油備蓄にも限りがあるからな。万一エネルギー供給が断たれれば、その先の世界は今と全く違うものになる。そんな過酷な環境で仲間を導けるのは、お前しかいないと思っている」

 タケルは食糧生産に関しては中心的なハガネだが、苫小牧については噂以上のものは知らない。初めて教えられる情報を咀嚼できない上に、過大な要求を突きつけられた気がする。

 タケルの目に不安が浮かぶ。

「オレ、そんなことはできない」

「今すぐ、というわけではない。だがおそらく、数年のうちには大きな変化が訪れるだろう。その前提で世界を見渡し、自分で考え、時が来たら決断してくれればいい。だが、目前の問題もある。その対応を頼みたいのだ」

「なんだ?」

「数人のハガネと共に、ここへ行って欲しい。防衛隊の護衛部隊が同行する」そして長老は、1枚の紙を出した。「行先は本州だ。六カ所村という場所に原子力施設がある。そこからあるものを取ってきて欲しいのだ」

 渡された指示書を読みながらつぶやく。

「ホンシュウ……?」

 それは、鬼門とも言える言葉だった。

 青函トンネルでの通行は、泊原発からの電力供給で維持できている。食料や物資の輸送も滞りなく行われ、東北地方はまだ日本の支配領域だった。青森守備隊を中心にした情報収集の拠点にもなっている。だが、オニたちがじわじわとその境界を侵食していることは誰もが知っている。オニが生き残りを捉えて食糧にしているという噂も耳にしている。

 長老は済まなそうに続けた。

「何を運ぶかはまだ教えられないが、それを知っている者に同行してほしい」

「ショウヤたちか?」

「そうだ。危機に対処する能力は、彼らの部隊が一番高いからな」

「そんなに危険なのか?」

「本州なのだから、絶対に安全だとはいえない。だが、やらねばならないのだ」

「トマリの警備は手薄にならないのか?」

「周辺の防衛隊基地からすでに援軍を呼んである」

「もう決まったことなんだな……。評議会も知っているのか?」

「彼らと協議した結果だ。まずは船で六カ所村に乗り込む。現在の情報ではオニの心配はないようだ。そのまま船で戻れば、数日で泊に帰れる。詳しい行程はその紙に記してある」

「なぜ、オレに?」

「信頼できる人物に託したいからだ。お前は若い。だが、判断も早く的確だ」

 タケルは指示書から目を上げた。

「アキとナオキも同行するのか?」

「彼らの知識も必要なのだ」

 彼らはタケルと同じハガネで、やはり中間管理職のような役目を担っていた。アキは主に子供たちの育成を行い、ナオキはエネルギー全般の差配を受け持っている。

「荷物を運ぶだけなのに、か? アキは女だ。しかもオレより10歳は年長だ。力仕事は無理だろう」

「力仕事は望んではいない。君たちは次の世代の中心になる。だから本州の現状を実際に見てきてほしいのだ。本州に残っているハガネたちの役に立つなら、知識や技術を与えてきて欲しい。これも評議会と協議の結果だ」

「アキに学校を作らせるのか? ホンシュウに移り住め、と?」

「安全な定住が可能なら、それも考える。北海道は、君たちの力で安定した。後を継ぐハガネもどんどん成長している。北海道の守りを堅固なものにするには、できれば東北地方は勢力下として守り通したい」

「ホンシュウはすでに危険だと聞いている」

「それを確かめてきて欲しいのだ。だから、ショウヤたちが警護に付く」

「これは、試験のようなものなのか?」

 長老がニヤリと笑う。

「お前のその洞察力が未来を切り拓くのだ。2時間後に定例評議会が開かれる。今回はお前も出席する予定だろう?」

「農業生産の状況を説明しろと言われている」

 さらに数10分、長老からの依頼を聞いたのちに、タケルは農作業管理に戻ろうとした。

 全てに納得できたわけではない。だが、命令には従うという覚悟もできていた。評議会と半目していようが、長老は泊ムラを治める最高責任者なのだから。

 原発の建物を出たタケルに、背後から声がかかる。

「タケル。長老と何を話した?」

 タケルの親代わりになってきた評議会長だった。北海道庁出身の、老人だ。

「六カ所村への遠征の件だ」

 嘘ではない。

 だが、評議会長が訝しげに眉をひそめる。

「それだけだったのか?」

 過去を記述したノートを受け取ったことは口止めされている。

「それだけだ」

 その答えは長老の指示ではあったが、タケルも同意していた。

 たとえ相手が親代わりであっても、ノートの件は話したくなかったのだ。じっくり読みたいという誘惑には勝てない。だから、長老室を出る前にシャツの下に隠してあった。

 評議会長は声を落とした。

「それだけではないだろう? 2人きりにしろと、わざわざ周囲に指示していたそうだ。お前はこれまで長老に呼ばれたことはあるのか?」

 明らかに、評議会長は長老の狙いを探ろうとしている。

 中身を全部読むまではノートは手放したくない。だからタケルは、あえて遠征の詳細を明かす決心をした。そもそも、同行する必要性に納得できていたわけではない。自分が指名された理由も納得できないままだ。

「本州に何かを取りに行けと命令された。評議会とは協議した、と言われたが?」

「お前たちを同行させろと言ってきたのは長老の方だ。評議会は防衛隊の警護を依頼しただけだ」

「そうなのか?」疑問を抱いたタケルは長老からの指示書を手渡す。「この指示に従えと命じられた」

 評議会長は指示書に目を通しながらつぶやいた。

「長老には、悪い噂がある」

 タケルも自然と身を寄せる。

「なんだ?」

「本州に勃興している勢力と裏取引をしているかもしれない」

「それは、オニたちのことか⁉」

「そうかもしれない。あるいは、本州守備隊が反乱を企んでいるのかもしれない。どちらにせよ、言いなりになるのは危険だ」

「だが、長老の命令は評議会より上ではないのか?」

「本州は危険な場所だ。共同体の利益になるなら、防衛隊を使うことは当然だ。だが、なぜタケルたちまで行かせようとする? 真意が不明だ。良からぬ企みがあるのではないかと思えて仕方がないのだ……」

 それはタケル自身の疑問でもある。

「オレにも分からない。実は、オレも行きたくはない。収穫の手配が必要な作物も多い」

「私が話をつけよう。長老は評議会を無視して、裏で危険な計画を進めている可能性もある」

「この件はオヤジに任せたい」

「長老の暴走を諌める時が来たのかもしれないな……」

 そして評議会長は、指令書を自分のポケットにしまい込んだ。

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