空蝉と蛍
「
目を開けると、蒼白い顔をした母が僕の顔を覗き込んでいた。
「・・・・・・ごめん」
「どうしてあなたが謝るのよ」
手に重みを感じると思ったら、彼女の手が僕の手を覆うようにして握っていた。母の手をそっと除け、ソファから立ち上がった。
「行かなきゃ」
「こんな時間にどこへ行くの?」
「会いたい人がいるんだ。いま行かないと一生後悔する。だから、行かせて」
母の怯えた表情を見た瞬間、父が出て行った日のことを思い出した。
「必ず帰ってくる。約束する」
いま出来る精一杯の笑顔を彼女に向けた。母は何かを言いかけたが、その口は静かに閉じられた。
玄関先で靴ひもを結んでいると、母が後ろからやって来た。
「待って。これ、忘れ物よ」
母の手には僕の携帯が握られていた。受け取った携帯をズボンのポケットに入れ、玄関の扉を開けた。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
何年ぶりだろう、母の笑った顔を見たのは。
ガチャンと玄関の扉が閉まる音を合図に、僕は炎天下の中を走り出した。
◆◇◆◇◆◇◆
ゆかりさんが神社や公園にいないことを確認した後、休むことなく河川敷へと向かった。喉が枯れそうになるまで彼女の名前を呼び続けていると、どこからともなく彼女が姿を現わした。
「ゆかりさん!!」
縋りつくように彼女の元へ駆け寄り、腕を強く握りしめた。
「少年?」
「ゆかりさん、ゆかりさん、ゆかりさん!」
「落ち着け。いつもの君らしくないぞ」
「答えてください。あなたは、十年前、僕を助けてくれた人ですよね?」
彼女は特に驚きもせず、静かに頷いた。
「・・・・・・やっぱり、そうだったんですね」
頭の中で暗示の言葉が蛆虫のように這いずり回る。
『お前は何も悪くない』
『僕は何も悪くない』
『お前のせいじゃない』
『僕のせいじゃない』
「違う。違う。違う。違う!!」
僕が海に行きたいなんて我儘を言わなければ、僕が迷子にならなければ、僕が帽子の話をしなければ、僕が海に飛び込まなければ、ゆかりさんは死ななかった。
全部、僕のせいだ。僕が悪いのだ。
「少年」
「触るな!」
ゆかりさんの手が僕に向かって伸びてきたのを見て、反射的に払いのけてしまった。
「僕はあなたを忘れたかった。自分のせいであなたが死んだことを受け入れたくなくて、忘れようとして、そして本当に忘れていた。こんな僕を軽蔑したでしょ?許せないと思ったでしょ?僕は、あなたが思っているよりもずっと最低な人間なんです。助ける価値のない人間だったんです」
「ゆうと」
再び彼女の手が僕に向かって伸びてきた。彼女の手を振り払おうと思えば振り払えたのに、赤くなった彼女の手を見た瞬間、身体が金縛りにあったみたいに動けなくなった。
頼むから何も言わないでほしい。彼女から発せられるどんな言葉も、今の僕にとっては凶器そのものだ。
「私は君を最低な人間だなんて思っていないし、助けたことを後悔していないよ」
「そんなの嘘だ。だって、僕はあなたを殺したんですよ?許される訳がないじゃないですか」
ゆかりさんは僕の頬を優しく撫でた後、ぎゅっと抱きしめてきた。
「君が自分を許せなくても、私は君を許す。なんていったって、私は君のお友達第一号だからな」
「なんで、そんなに優しくしてくれるんですか」
わあわあ泣く僕に、ゆかりさんは「君は相変わらずだな」と笑った。
◆◇◆◇◆◇◆
ゆかりさんはポカリスエットを持って、河川敷に座っている僕の隣に座った。
「ほら、買ってきたぞ」
「・・・・・・ありがとうございます」
冷えたポカリスエットを口に含んだ。冷たい水が心地よかった。
「あの、どうして会った時に、ゆかりさんのことを僕に教えてくれなかったんですか?」
「あなたは私のことを覚えていますかと尋ねたところで、私は君を困らせるだけだろう?君が私のことを忘れているのなら、それでよかった。君にとって、あの出来事が良い思い出ではないと分かっていたから」
僕はなんと言えばいいのか分からなかった。口をモゴモゴさせている僕を見て、ゆかりさんは困り顔で笑った。
「君が私に構ってくれるのが嬉しかったんだ。長い間、ずっとひとりでいたから。困らせてごめん。でも、今日で最後だから」
「今日で最後って、どういうことですか?」
「毎年お盆の時期になると、こうやって現世に帰れるんだが、通常、私の姿は誰にも見えない。いま私の姿が君に見えているのは、君の年齢が私が亡くなった年齢と同じだから。おそらく波長が合ったんだと思う。だから、私と君がこうして話が出来るのは今年限り。そして、今日がその最後の日だ」
彼女は話している最中、ずっと空を見上げていた。彼女の顔をはっきり見ることは出来なかったが、どことなく泣くのを我慢しているように見えた。
「今日で最後」
「そう。今日で最後」
ゆかりさんが、はああと深いため息を零した。
「私の我儘に散々付き合ってくれてありがとう。君に会えて、本当に良かった」
「やめてくださいよ。まだ僕は、何もあなたに返せていない。このままさよならだなんて、嫌ですよ。なにか僕に出来ることはありませんか?なんでもいい。お願いだから、あなたの望むことを何でも言ってください」
「ふふっ、随分懐かれたものだな」
「ゆかりさん!」
「分かった。それじゃ、私のお願いを聞いてくれるか?」
僕は頷いた。たとえどんな無理なお願いであったとしても、絶対に叶えてみせると心に誓った。
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