消せない過去

 夏祭りの後、ふとした瞬間にゆかりさんの顔が頭をよぎった。

 最低な別れ方をしたのだから、彼女のことはもう忘れろと自分に言い聞かせたが、翌日、僕は河川敷や神社に足を運んだ。結局、彼女の姿は見当たらず、自習でもして帰ろうと塾に向かった。

『お盆休みのお知らせ』

 塾の玄関に貼られた紙を見て、しまったと思った。身を翻したその時、誰かが「うわっ」と言った。目の前にいたのは、同じクラスの男子だった。

天城あまぎも間違えて来たのか」

「あ、ああ」

「なんか意外。優等生のお前でも間違えることあるんだ」

 早くこの場から立ち去りたいと思ったが、彼が出入口に立っているせいで逃げることが出来なかった。

「そういえば、昨日夏祭りに行ってただろ?クラスの連中と自撮りしてた時に、偶然お前の姿が映っててさ。ほら、これ」

 彼のスマホ画面には、金魚すくいの桶の前で楽しそうに笑う僕が写っていた。見た瞬間にゆかりさんがポイを一瞬にして駄目にした時の写真だと分かったが、隣にいたはずの彼女は写っていない。

「お前、ひとりでめちゃくちゃ楽しそうに金魚すくいしてるからさ。なんか声かけづらくて」

 彼女の隣にいた小学生とその母親らしき人物ははっきりと写っているのに、ゆかりさんだけが写真から消えていた。

「・・・・・・おい、天城あまぎ。お前、顔色悪いけど大丈夫か?」

「どいて」

「え?ああ、すまん」

 同級生が出口を開けてくれたおかげで、閉鎖的な空間から抜け出すことが出来た。最寄り駅の改札まで全力で走った。心臓がバクバクと鳴り、吐きそうになった。

 朝比奈ゆかり。彼女は、一体何者なのだ?


◆◇◆◇◆◇◆


 リビングの扉を開けると、母親の後ろ姿が見えた。

「おかえり」

 振り返った彼女の手には、見覚えのある帽子が握られていた。僕の視線に気づいた母が、手の中の物を愛おしそうに撫でた。

「一昨日、優人ゆうとが川に落ちたと聞いて、押し入れの中から引っ張り出してきたの」

 首をかしげる僕を見て、もう時効よねと、母は言った。

「十年前、海に攫われたあなたを助けてくれた人がいたのよ」

 十年と聞いて、胸がざわついた。頭の中で警報音が鳴り響く。それ以上は深入りするなと、もうひとりの僕が言った。

 母は僕の顔をじっと見た後、リビングの引き出しから小さく切り取られた新聞記事を取り出した。見出しには、『救助で海へ 女子生徒死亡 流された男子無事』と書かれていた。死亡した女性の名前を見た瞬間、僕は呻いた。

 朝比奈あさひなゆかり。

 昨日聞いたばかりの名前だ。これは偶然か。いや、きっと違う。

『久しぶりの海はどうだ?』

 彼女は確かに僕にそう言った。彼女は、僕を知っていたのだ。

「あ、ああ、あああ・・・・・・」

 海に浮かぶ帽子。蒼白い顔で横たわる女性。繰り返される暗示の言葉。

 封じ込めていた暗い過去がフラッシュバックし、目の前が真っ暗になった。


◆◇◆◇◆◇◆

 

 三人で暮らしていた頃、父はよく海の話をしてくれた。彼はサーフィンが大好きで、結婚前は暇さえあれば海に通っていたと言っていた。

「いつか優人ゆうとが大人になったら、一緒にサーフィンしような」

 約束だ。そう言って指切りをした数週間後、父は家を出て行った。

 海に行けば父親に会えるんじゃないかと思った僕は、母親に何度も海に連れていって欲しいと頼んだが、母は仕事が忙しいから無理だと言った。

 夏休みも終盤に近づき、このままでは一生父に会えないのでは思った僕は、仕事から帰ってきた母を前に泣き叫んだ。

「母さんは、僕を父さんに会わせたくないから、僕のお願いを聞いてくれないんでしょ?」

 その日、はじめて僕は母親に叩かれた。翌日、僕は母方の祖父母の元へと預けられた。祖父母は僕が海に行きたいと言うと、すぐに近隣の海に連れて行ってくれた。

「飲み物を買ってくるから、ここでおとなしく待っているんだよ」

 貝殻集めに夢中で祖父母の言葉を聞いていなかった僕は、案の定、迷子になった。ひとりパニックになって泣いていると、後ろからぽんぽんと肩を叩かれた。

 後ろを振り向くと、白いワンピースを着たお姉さんが立っていた。

「迷子になったの?」

 僕が頷くと、「じゃあ、一緒に探そっか」と僕の頭を優しく撫でてくれた。

「その帽子、格好いいね。とてもよく似合ってるよ」

 海辺を歩きながら、お姉さんがそう言った。誕生日に父親が買ってくれた帽子を褒めてもらえたことが嬉しくて、僕は彼女に父の話をした。

「お父さんのこと、本当に好きだったんだね」

「うん。だから、この帽子は世界で一番大事なものなんだ」

「そっか。じゃあ、ずっと大事にしないとね」

 元気よく返事をする僕を見て、お姉さんは嬉しそうに笑った。

 数分後、遠くで僕の名前を呼ぶ祖父母の姿を発見した。

「お姉さん、ありがとう。またね」

「またね」

 お姉さんと別れの挨拶を交わしたその時だった。突風に煽られ、被っていた帽子が海岸から随分離れた場所に落ちてしまった。

「帽子が!」

 僕は波が荒れていたにも関わらず、海の中へ飛び込み、いつの間にか気を失っていた。

「坊主、気が付いたか」

 目を醒ますと、見知らぬ男が僕の顔をじっと覗き込んでいた。

「ほら、帽子だ。大事なものなんだろ?」

「ありがとう。・・・・・・あれ?お姉さんは?」

 男は気まずそうな顔で僕から視線を逸らした。辺りを見ると、海の家の近くに人だかりが出来ていた。その中央には、蒼白い顔をしたお姉さんが横たわっていた。それから間もなく、お姉さんが亡くなったことを僕は知った。

 僕のせいで、お姉さんが死んだ。僕は何度も自分を責めた。

 溺れそうになっているお姉さんが僕の足を掴むなり、力づくで僕を海へ引きずり下ろす夢を毎晩のように見た。その度に僕は叫び声をあげ、祖父母をひどく心配させた。

「僕のせいだ。僕が殺したんだ」

 精神的に不安定になった僕に、祖父が暗示の言葉をかけた。

『お前は何も悪くない』

『僕は悪くない』

『お前のせいじゃない』

『僕のせいじゃない』

『他人と必要以上に関わるな。お前はひとりでも大丈夫』

『僕はひとりでも大丈夫』

 祈るように、何度も何度も、祖父の言葉を唱え続けた。長い時間を経て、僕は海での出来事を忘れた。忘れなければ、生きていけなかった。

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