夜に詰める
摂津守
夜に詰める
私は夜食を食べない主義だ。
そんな私だがある夜、突如としてカレーを食べたい衝動に駆られてしまった。
午前零時。カーテンを開ける。窓の外には初冬の冷たい夜が広がっている。
夜食は食べない主義だが、それ以上に私は我慢をしない主義だ。夜にカレーを食べたところで誰に迷惑がかかるわけでもない。
というわけだから早速、寝間着から着替え、二十四時間営業のスーパーまで愛車(ロードスター)を走らせ、ホビットの死体くらいしか入れられないほど小さなトランクに食材を詰め込んで帰宅。
最初は軽い気持ちだった。玉ねぎ、人参、じゃがいもを切り刻み、鶏肉を入れて中火で軽く炒める。
私は鶏肉派なのだ。牛肉もわかる。豚肉はわからない。豚肉の油はカレーに合わない、というのが私の持論だ。さっぱりとした鶏肉の方が、カレーのスパイスがよく沁み込む気がする。
とにかく、そう、お手軽で簡単ななんの変哲もないカレーを作るつもりだった。だが炒めているときに気付いてしまった。
「物足りないな」
買ってきた食材はリビングのテーブルに無造作に置かれてある。既に炒めた肉と野菜を包んでいたプラごみと今から入れる予定のルー。あとはもうルーだけなのだ。
物足りない、そう思ってしまった。なんとなく生じた感情がやがて衝動へと変わるのにまばたきほどの時間もいらない。
物足りないという感情は、必要なものを強く希求する欲望になった。私は我慢しない主義だ。欲望は、それが公序良俗に反しない限り達成せられてしかるべきだ。
愛車(ロードスター)を飛ばし、とはいってもアクセルをどんだけ踏み込んでもこいつの一.六リッター百二十馬力の心臓はビーストとは程遠く、老女をエスコートする紳士もかくやというほど物腰柔らかであるため、飛ばすという表現が適当であるかは甚だ疑問ではあるが、少なくとも気分の上では、たしかに私は愛車(ロードスター)をぶっ飛ばしていた。
りんごとはちみつのペースト、固形タイプではない粉タイプのルー、ビターなチョコレートとヨーグルトを愛車に詰め込んで帰宅。
ようやくカレーを煮込む段階へと突入した。やや弱めの中火でじっくりと。チョコとヨーグルトはほんの少しでいい。隠し味というのは隠れてなければならない。でなければ派手な忍者、水着並の面積の鎧をきた戦士並にナンセンスだ。
ひたすらことこと煮る。しっかりと煮詰める。肉と野菜にカレーの味を深く浸透させる。夜と香ばしさが深まる。
火刑の鍋の横で本を読む。『星の王子さま』。そういえば『星の王子さまカレー』なんていうのもあったな。象を飲み込んだボアの絵を大人たちは帽子だと言っている。大人は子供並ほど想像力はないかもしれないが、子供並に率直だったりするから厄介だ。子供の率直さは可愛げだが、大人の率直さは思慮に欠ける。ただ老いるのではなく、よく老いねばならない。腐るのではなく老成だ。
そこで私はまたも気がついてしまった。
「カレーしかないな」
カレーを食べるのにカレーしか食べないとはなんという味気なさ。味気ないを通り越してつまらないし芸もない。カレーだけを食べている絵面は優美とは程遠く、お遊戯じみている。
またまた私は愛車(ロードスター)を走らせた。ケール、レタス、かいわれ、トマト、白ワインビネガー、レモン、を愛車に詰め込み帰宅。
火刑の鍋の横で、早速ケール、レタス、かいわれ、トマト、レモンを切り刻み、ケール、レタス、かいわれ、トマトを盛り付ける。別途器にレモンの絞り汁、白ワインビネガー、こしょう、塩、オリーブオイルを混ぜドレッシングの完成。つまりサラダの完成だ。
完璧だと思った。だが甘かった。甘すぎた。塩を舐めたあとの砂糖よりも甘い。バブル時の銀行ほどではないにせよ。
ワインが足りない。カレー、サラダを用意して飲み物がないとは思わず笑ってしまう失態だ。デートの前日、完璧な準備を済ませたと思ったらその晩興奮して眠れず遅刻してしまうくらい滑稽だ。
再三、愛車(ロードスター)の出番だ。駆け、適当なチリワインの赤を詰め込む。カレーのワインは赤がいい。それもまろやかなやつだ。色が濃厚なやつだ。
もはや夜じゃない。東の空が白み始めている。私の頭の中も白み始めていた。
帰宅。よく煮詰まったカレー、サラダ、ワイン、ようやく完璧な仕上がりになった頃には早起きな鳥が外で鳴き始めていた。
食べる。不味いわけがない。カレー、サラダ、ワイン、どれも最高だ。
きっとこれを食べ終わる頃には夜の興奮は覚め、宵は明け、アルコールのもたらす酔い、徹夜の疲労感と満腹感と満足感に打ち倒されるだろう。若い頃のようにはいかない。
夜食は夜と朝の狭間にあった。軽い微睡みを覚えながら食べる、これもまた一つの幸せだ。次回起床時に、この代償を払うことになるのは目に見えている、だが、それでいい。世の中には失ってしか得られないものが数多くあるのだから。
夜に詰める 摂津守 @settsunokami
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