第六章 第五話 アグナバル洞窟の主(前)/気の置けない彼女

 ギルド庁で、セフィランサス千株の緊急クエストを発注したシャンタル・ドゥシエラが、政府庁舎四階の魔術局の部屋に戻った時には夜は充分に更け、部屋の中はもう真っ暗となって誰一人、残っていなかった。


 発注金額が相場より少し高かったからだろう。

 夜分にも関わらず、直ぐに遠征パーティが決まり、出発していったようだった。


 シャンタル・ドゥシエラは自席の椅子に座ると、その身を深く、局長席の柔らかな椅子に委ねる。


 「おい」


 「明日にしてくれ」

 シャンタル・ドゥシエラは、直接脳に聞こえてきたその声の主が誰か分かっている。


 だから断りを入れた。


 「おい」

 二回目から七回目まで、シャンタル・ドゥシエラは徐々に大きくなり、徐々に怒気を含んで聞こえてくるその声を無視した。


 「おい」

 八回目になって、シャンタル・ドゥシエラはその回になって何故か、怒気が全く無くなった声の主に、遂に折れた。


 「何か?」


 「この余を無視とは言語道断、たいした身分になったモノよ・・・まあ良い」

 そう言いながらも、ヴァルドゥル・ホイアーの声を聞く限り、機嫌は悪くなさそうに聞こえる。


 「アグナバル洞窟では、余は一切関わらぬ。覚悟しておけ」


 「分かっている。最初から期待などしてはおらぬ故、安心されたい」

 全く気の籠もっていない声で、シャンタル・ドゥシエラが返答する。


 「ふん。其れは助かる」

 ヴァルドゥル・ホイアーはつまらなそうにそう答える。


 「だが、念押しの為、此れだけは言っておく。かの洞窟の主と余が戦闘となった場合、何れが勝利を収めるにしても、後には草木一本、虫けら一匹、人一人として、残らぬ」


 「いずれにせよこの度の事、あやつは人が相手に出来る存在にあらず、平身低頭して願いを請うのが関の山であろう。余が姿を現す事で、反対に彼の地の主は大いに機嫌を損ねる。故に余は、一切力を貸さぬ」


 「承知した」

 シャンタル・ドゥシエラは返答する。


 「局長、お疲れ様でした」

 椅子に深く腰を掛け、疲弊しきったその顔を上に向けて目を瞑ったまま微動だにしないシャンタル・ドゥシエラの瞼の上に、とても気持ちの良い、温かく柔らかなタオルがそっと置かれたのを感じた。


 「ウォルフィントン卿、か。お疲れさん」

 シャンタル・ドゥシエラはそう言って身体を起こそうとする。


 「そのまま。そのままで良いですよ、シャン」

 そう言いながら、ウォルフィントンは何かの術式をシャンタル・ドゥシエラの身体に掛けたのだろう、シャンタル・ドゥシエラは身体を何かに支えられたような感覚、例えば身体全体を水の中に横たえたような感覚、で動けなくなる。


 「ふふふ。シャン。か・・・君からそう呼ばれたのは果たして何年ぶりの事かな?ウォルフィントン卿?」

 

 「でしたら、卿、は無いでしょう?シャン」


 「そうだった。すまない。フィン」

 シャンタル・ドゥシエラはようやく気づいて、ウォルフィントンにそう答える。


 「懐かしいな、フィン。あの頃に戻りたいものだな」


 「そうですね・・・。でも私は今のこの時間も好きですよ」

 ウォルフィントンのその言葉に嘘偽りは、一切感じられない。


 「シャンが大師のお部屋に入ってくるまでに、私の方にも、誘いがありました。ですから、シャンが参加されるのならば私も参加します。そうお伝えお答えしました」


 シャンタル・ドゥシエラの身体を支えていた、まるで水の中に身体を横たえて浮かんでいるような感覚が、スッと無くなる。


 ハーブの良い香りがする。

 「ハーブティ、か?ありがとう」


 「ええ。あの頃、シャンが一番好きだと言ってた、あのハーブの香りですよ。覚えていますか?」


 「忘れたりしない・・・もちろん。今でも其れは、変わらない」

 シャンタル・ドゥシエラは身体をそっと起こすと、めったにお目に掛かれないような、高級職人が創った逸品と判るティーカップの取っ手に、手を伸ばす。


 「とてもおいしい。思わず本当にあの頃に帰れそうな気がしてきた。ありがとう」


 「この件が片づいたら是非、学生時代によく行ってたザンガレ市場に、一緒に行きませんか?」


 「そうしよう。約束だ、必ず」


 「あの、とっても不思議な雰囲気のお店・・・覚えていますか?」

 そう言ってウォルフィントンは悪戯っぽく微笑む。

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