第六章 第二話 アグナバル洞窟の主(前)/若き皇帝の戯れ

 政府庁舎に勤める各局各部署の、職員殆どが昼食を終えた穏やかな昼下がり。

 

 一息ついた後の、一番落ち着いてゆったりと仕事をしたい時間帯。


 「ドゥシエラ魔術局長は、ご在席ですか?」


 そう言いながら、四階の魔術局の部屋に姿を見せたのは誰有ろう、寧ろ吃驚するほど素朴なデザインの、純白で薄手の正絹製ワンピースドレスとロングソックスに身を包み、帝国の長たる身分を示す、艶やかにして豪華絢爛な意匠のティアラを頭に載せた百三十二代皇帝エメリヒ、その美しく女神の様な神々しさを醸し出す小柄で細身な姿であった。


 誰一人そして予想だにしていなかった、思いもよらぬ皇帝エメリヒの登場に、魔術局の中で業務に当たっている魔術師一同、上へ下への大騒ぎとなり、慌てて仕事の手を止めて全員が最敬礼でその場に傅く。


 数人の魔術師は、中断する事が出来ない術式を組んでいる途中であり、ジタバタと慌てふためきながらも、出来るだけ失礼が無いように、と最敬礼の姿勢を取ろうと試みる。


 「構いません。己が業務を続けて貰って良いです。気にせずとも構いません」

 皇帝エメリヒがそう言ってから、ようやく魔術師全員は再び、自身が抱える業務に戻って行く。


 「陛下御自ら御出で賜り、小職をご指名賜ります事、甚だ光栄では御座いますが、一体、如何なるご用向きでしょうか?」

 シャンタル・ドゥシエラはそう言いながら、自席を立ち、皇帝エメリヒの元に足を運ぶ。


 だが、シャンタル・ドゥシエラは、皇帝エメリヒの背後に居並ぶ顔ぶれを見て思わず、うわあ、と露骨に嫌そうな表情をする。


 「なるほど・・・。ギルド長。貴君が我の力添えを欲した、その理由が判明しましたわ」

 口調をいきなり変えると、皇帝エメリヒはクスクスっと悪戯っぽく笑う。


 「何だ・・・。ギルド長のご指名か、ならば、あの件だろう、何度来られようと、断る」

 素っ気ない態度でシャンタル・ドゥシエラがそう言い放つ。


 「いえいえ、此れは皇帝エメリヒからの依頼、そうですねギルド長」

 そう言って皇帝エメリヒはギルド長に視線を送る。


 ギルド長が答えに窮するのを見て。


 「此れは正真正銘、わたくしからドゥシエラへの、お願いです。本当ですよ?本当ですからね?」

 そう言うと、皇帝エメリヒはまたクスクスと微笑む。


 「とにかくお話しを聞いて下さい、ドゥシエラ。国難です。是非とも、我が豪華絢爛たる、自慢の部屋まで御同道下さいな」

 そう言いながら、皇帝エメリヒはクスクスっと笑い、イタズラ子猫の様な仕草と表情で、シャンタル・ドゥシエラの槐黄色のワンピースチュニックの右腕の袖を、美しく細長い右手で掴んでチョンチョンと可愛い仕草で引っ張る。


 「さあ参りましょう?ウフフ。想像してたのよりずっと、面白くなってきましたね」

 其処に皇帝エメリヒは居らず、未だ未だ遊びたい盛り、十六歳の少女エメリヒが居た。


 そう、皇帝エメリヒは、『未だ未だ遊びたい盛り、十六歳の女の子』に過ぎない。


 シャンタル・ドゥシエラが、その事実に気づいておれば良かった、のかも知れない。


 もしも、そうだったのなら、その後の展開が、もっと良い方向に変わった、のかも知れない。


 ◇ ◇ ◇


 政府庁舎八階には、おおよそ三百人の魔術師が日夜、業務に従事している、その四階の魔術局と同じ広さを誇る、皇帝エメリヒの私室が其処には有る。


 四隅の壁には適度の大きさの窓が多数、設置されており、特に日の当たる南側と東側には、足元まで開けられた大きな掃き出し窓が、壁の強度限界まで迫るギリギリの数だけ設けられており、室内はとても明るい。


 その東側と南側の眼下には、透明度の高いユングバリ湖の広大な湖面が遥か視線の先まで拡がり、今日はキラキラと青陽からの眩しい光を反射しながら、水面には穏やかな波が揺らめいている。


 皇帝とは言え、未だ未だ遊びたい盛り、十六歳のエメリヒの部屋は、凡そ全ての壁や調度品が帯紅色にまとめられており、各所各所には、様々に色とりどりの花や草木が、大きな鉢や大型ポットに植えられ、置かれている。


 広大な床は、此方もまた、帯紅色のとても小さな硬質タイルが非常に多数、敷き詰められており、それ等の硬質タイルは顔が映り込む程までピカピカに磨き上げられている。


 部屋の四隅には小鳥の止まり木が置かれており、色鮮やかな様々な種類の、大人の手を拡げたぐらいの大きさの小鳥が数十羽、自由に飛び交っている。


 魔術師三百人が集う四階の魔術局の部屋も充分な広さを感じるが、それと同じ広さを誇る、その余りに広くそしてとても明るい室内。


 そのど真ん中に、メスのザンザ牛のお腹側の柔らかな皮だけを使用して張ってある、純白の十人掛けの大仰な意匠のソファセットが置いてあり、真ん中には全面強化ガラス張りの大きな長方形のテーブルが置いてある。


 上座側には皇帝エメリヒが一人で座り、その対面にシャンタル・ドゥシエラが坐し、シャンタル・ドゥシエラの左側、一番下座に当たる場所にギルド長が座っている。


 最上席、シャンタル・ドゥシエラの右側は本来、皇帝エメリヒの定席であるが、彼女がシャンタル・ドゥシエラに気を使って、意図的に空けている。


 皇帝エメリヒの背後には、二人の女性衛士が、胸当てと胴回りを護る様にプレートアーマーを着用し、腰に太刀を携えて壁際近くに立哨している。


 シャンタル・ドゥシエラの背後には、騒ぎを聞きつけてシャンタル・ドゥシエラの後ろから勝手に付いてきたウォルフィントン卿が、若木色のワンピースチュニックを着て、此方もまた壁に沿う様にして立っている。


 ギルド長の背後には少し離れて、ギルド庁幹部の五名が起立して、不安そうな表情を隠す事無く、成り行きを見守る。



 「ドゥシエラ殿には改めて、アグナバル洞窟第二十二次遠征隊に、エンチャンタとして御同道頂きたいと考えております」

 ラウレンツ・ヴェルケーはシャンタル・ドゥシエラの目を見て、意を決して重い口を開く。


 シャンタル・ドゥシエラは露骨に嫌な表情を見せ、即答する。

 「お断りします」


 ラウレンツ・ヴェルケーは、如何にも残念な表情を隠す事無く、ガクッと頭を下げる。


 クスクスっと、さぞ可笑しそうにエメリヒは満面の笑みを浮かべる。

 「なるほど・・・よく解りました。なるほどなるほど・・・ふふふっ」


 「ではドゥシエラにお尋ねします、わたくしがその遠征隊に参加するならば、どうなさいますか?」

 エメリヒは、いかにも意地悪そうな表情で、シャンタル・ドゥシエラの顔を覗き込むように見つめる。


 「仮定のお話し、有り得ないお話しにはご返答のしようも御座いません」

 シャンタル・ドゥシエラは毅然と言い放つ。


 「仮定のお話し、ですか?有り得ないと言いましたね?」

 少しふくれっ面をして、しかしエメリヒは負けじと、毅然とそう言った。


 「ではギルド長、わたくしエメリヒを、ヒーラーとして契約の書に登録なさい。持ってきているのでしょう?」


 ギルド長は答えに窮し、困り切ったような表情で、下を向く。


 「陛下、それは絶対になりませぬ。ご寛恕賜りたく何卒、何卒」

 このタイミングで丁度手が空き、ギルド長を見送ってから案じていた件がどうなったか見届ける為、皇帝私室に入室してきた聖天司祭太師ウィンプフェリングが真っ青な表情で、大慌てで皇帝エメリヒの元に駆け寄る。


 皇子時代から、エメリヒは一度言い出すと、後に引かない癖は在った。


 其れを周囲は理解していたが、まさかこのような事になるとは、この時は未だ誰一人、思っていなかった。

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