第三章 第三話 魔術師シャンタル・ドゥシエラ/鴻星の神
「何処に行っておったのか・・・待っておったぞ、シャンタル・ドゥシエラ、よ!」
シャンタル・ドゥシエラが魔術局の部屋に戻ると、”彼”は百名以上の魔術局が誇る精鋭魔術師によって、彼らの力の限りを尽くしてようやく、辛うじて部屋の中央、中空に浮くように、百枚以上の魔術シールドで留め置かれているように見える。
煤けた暗い紫色の靄に包まれた、禍々しいその姿ながら、しかし折り目正しい純白のシャツを着こなし、細身の純白のスラックスを履き、そして濡烏色のスエード調のトレンチコートを羽織っている”彼”。
その身長がゆうに二百センチを超えていてガタイの良い、女性が好みそうな実に端正な顔の”彼”は、シャンタル・ドゥシエラが席を外している隙を狙い澄ましたかのように、イメルント帝国が誇る、魔術力では世界中でも最強かつ最先端の力を持つ、そして帝国内でも最高の術式で護られている筈の、魔術局の部屋の中央付近の空中に、突如として浮き出る様に現れた。
騒ぎに駆け付けた大人数の騎士や衛士、そして大人数の魔術師に包囲されて百枚以上の魔術シールドで拘束されていてもなお、”彼”は不適な笑みを浮かべ、泰然自若としてシャンタル・ドゥシエラが部屋に戻るのを待ち構えていた。
「拘束術式を解除してください。いや、駄目です!私が解除いたします」
シャンタル・ドゥシエラは周囲の魔術師にそう言う。
「しかし・・・拘束を解いて暴れられては・・・」
魔術師の一人は心配そうにそう返答した、が。
「問題ありません。そもそも今も彼は拘束されておりませんし、彼はいつでもあれらの拘束術式を解除する事も無く、術式の外に出てくる事が出来る状態です」
驚いた表情でその魔術師が身体をのけ反る仕草を見つつ、シャンタル・ドゥシエラは続ける。
「あなた方・・・いえ、この私も含めて対等に応対、対処できる相手では到底ありません。彼に術式を強制解除されては、あなた方も私も無傷、無事では居られません」
そう言うと彼の返事を待たず、シャンタル・ドゥシエラが小さく呪文を呟く。
”彼”を拘束していた魔術シールドが全て消滅し、シャンタル・ドゥシエラはその反動を受けて、突き飛ばられた様に尻餅をつき、その場に座り込む。
シャンタル・ドゥシエラが着ていたベージュ系色のワンピースチュニックと細めのシルエットのロングパンツには無数の穴が開き、彼女の頭の先からつま先までの身体全体には無数の傷を受け、周囲に非常に多数の鮮血が飛び散る。
「局長!大丈夫ですか?!お怪我されてます」
「動くなっ!」
魔術師ローブを羽織った女性が一人、慌てて駆け寄ろうとするが、シャンタル・ドゥシエラはそう言いながら、彼女の行動を簡易シールドを使って制止する。
「全員動かないで!慌てないで、そのまま、そのままで!」
部屋の中で誰かが、周囲に居る全ての人に聞こえるように叫んでいる声が、シャンタル・ドゥシエラにも聞こえる。
「私は大丈夫です。此方に近づくと死にます。其処に居て下さい」
シャンタル・ドゥシエラはそう言うと、ゆっくりと立ち上がり、パタパタとロングパンツに付いた埃を払い落す。
中空に浮かんでいた”彼”は床にゆっくりと降りて姿勢良く立つ。
「流石よな、シャンタル・ドゥシエラ。賢明な対応に感謝する」
”彼”はやや高めのトップテノールの音域、しかし物凄い威圧感の籠った声でシャンタル・ドゥシエラだけを見て、そう言い放つ。
「チュニックとパンツ、掘り出し物・・・一品物でとてもお気に入りだったんですよ・・・残念。でも、地下室に行く時に横着してローブを着なかった罰、が当たりましたよ!全くっ!」
そう言うと、シャンタル・ドゥシエラは、”彼”の目を強圧的な視線で睨み付けてから、周囲に詰めかける騎士や衛士、魔術師を見渡す。
「無駄な血を流したくありません。申し訳ないですが、騎士の方々、衛士の方々、魔術師の方々、全員、この部屋をご退出下さい。この方には私が対応いたします」
シャンタル・ドゥシエラの強い口調の声に従って三々五々、部屋に詰めかけた騎士や衛士、魔術師、事務方それぞれ全員が部屋から出て行く。
続けてシャンタル・ドゥシエラは、”彼女”のその後ろ姿を見つけると、その彼女に向かって言う。
「ウォルフィントン卿、貴方にアンカーボルト、お願いできないかしら?ついでにこの部屋を内側から保護、お願い出来ますか?」
「もちろん。分かりました。私なら適役ですね。務めさせて頂きましょう」
大柄な女性魔術師、シャンタル・ドゥシエラよりも少し年上のウォルフィントンはアルト音域の、低めの声でそう返答すると部屋に舞い戻り、急ぐ様子も無く、自席に立ち寄って手際よく魔術師ローブを羽織り、魔術杖を手に取る。
そしてそのまま即座に彼女が術式を呟くと、二人と”彼”以外、無人となった魔術局の広大な部屋の四方の壁には無数の光の文字列が出現して壁一面が無数の淡く光を放つ文字で埋めつくされる。
時を同じくしてシャンタル・ドゥシエラはウォルフィントンに向けて術式を組み上げる。
シャンタル・ドゥシエラとウォルフィントンとの間に、常人には見えないが、それぞれの小指同士が一本の、ピンと張った、光輝く紐で繋がれる。
この紐は、シャンタル・ドゥシエラの魂が、相手の強大過ぎる魔力によって一気に別世界に持って行かれるのを防ぐ為の繋げられた絆の紐であり、其れにはアンカーボルト役が必要となるが、その役には誰でも良いと言う訳でも無い。
その適任者足り得る為には先ず、本人の持つ魔術エレメント量が溢れるほどに豊富であり、しかもこの場合、シャンタル・ドゥシエラと強い絆、信頼関係で結ばれている必要がある。
「さて、ヴァルドゥル・ホイアー殿・・・このようなタイミングで、”鴻星の神”たる貴方が一体、如何なる用向き、なのかな?」
シャンタル・ドゥシエラは、彼女がヴァルドゥル・ホイアーと呼んだ”彼”の目を射抜くような、強い意志ある視線で見つめると、言葉遣いも変わり、声のトーンもいつもの話し声のメゾ・ソプラノ音域では無く、アルト音域よりも更に低いテノール音域、と随分低くなり、強い口調でそう、彼に話し掛ける。
「新皇帝陛下の戴冠式の翌日、とは余りにもタイミングが良すぎる、なのだが?」
「ふん・・・高貴高潔たる余が、矮小なる其方に逢いたいと考えるのに、何か特段に理由が必要、か?」
ヴァルドゥル・ホイアーは一瞬でシャンタル・ドゥシエラの傍まで近づき、彼のその口を彼女の耳元、殆どゼロミリメートルまで近づけてそう囁く。
「ただ、その美神の傑作である其方の美しき顔と、柔らかくてしなやかで全世界の至宝たる其方の肢体を近くで見たい、そう思うただけの事よ」
「ほざくな・・・お前は出会う全ての女性にそう囁くのであろう?過去何百万年何千万年に渡り、出会ってきた全ての女性の耳元でそう、囁いて来たので、あろう?」
シャンタル・ドゥシエラは両腕をグイッと押し出してヴァルドゥル・ホイアーの身体を遠ざける。
「用が無いのならさっさと此処から立ち去るがよい。新しき皇帝陛下がご降臨された戴冠式の翌日だ。矮小たる私も仲間も今日は特に、とても忙しい、忙しいのだ。今は貴殿の相手をしている暇は、無い」
「ほざくな・・・か。かれこれ三百万年ほどになるか・・・その間に、余にそのような言葉を吐いた人間は誰一人として、生き永らえる事は無かったのだが・・・此れも余と其方の契約ならば・・・そうよな」
そう言うと、何故かヴァルドゥル・ホイアーは小さく哂った。
「その言葉をそっくりそのまま、余からその言葉を其方に返してやる。そもそも余は其方の・・・」
そこまで言うとヴァルドゥル・ホイアー言葉を止めてニヤリと、ほくそ笑む。
「まあ良い。其方は既に気付いておろう。それで充分である。契約に従い、これからは毎日いつでも、余は其方の傍に居るが故に、な」
そう言い残すと、ヴァルドゥル・ホイアーの姿は、音も無く空間の中に溶け込むように消える。
「解っている・・・否、解っていた筈だった。そう、私は”二十歳”を迎えていたのに、今の今まで”其れ”を忘れていた」
シャンタル・ドゥシエラはそう小さな声で呟くと、深く、深く溜め息をつき、苦悔の表情を浮かべて天を仰ぐように顔を上に向ける。
「そうだ・・・私は、二十歳を迎えていたのだ・・・。そうだった・・・。何故、”其れ”を忘れていたのか・・・?」
無数の穴だらけとなった血塗れの、シャンタル・ドゥシエラが着ているワンピースチュニックを貫いて、彼女の左側の肩に向けて新たに二本、いつの間にか、非常に鋭い牙による噛み痕、が顕れていた。
その様子、一部始終を傍で見ていたウォルフィントンだったが、敢えて彼女はシャンタル・ドゥシエラに何も聞こうとしないし、先に話し掛ける事もしない。
シャンタル・ドゥシエラから何れ、話しをしてくれるその時まで、気長に待つつもりである。
ウォルフィントンは黙ったまま優しく、シャンタル・ドゥシエラの細く柔らかく、小さなその身体を包み込むように抱く。
弱っているに違いない、彼女の魂を持って行かれない、その為にも。
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