愛玩子の苦しみ
こんにちは。鳥兜レイと申します。
今回は「愛玩子の苦しみ」について書こうと思います。
※虐待の描写を含みます。フラッシュバックの恐れがある方はご注意ください。
毒親育ち界隈では、「搾取子」の対になる言葉として「愛玩子」という言葉がよく使われています。
「搾取子」とは親のストレスのはけ口にされる子どものことで、Twitterでも暴力や暴言を受けてきた、家族全員分の家事をさせられてきた、という話をよく聞きます。
一方で、「愛玩子」とは親に可愛がられペットのような扱いを受ける子どものことです。このタイプの毒親育ちは親からたっぷり愛情を注がれて育てられたように見えるため、その苦しみが理解されづらいように思います。
そこで、かつて「愛玩子」だったわたしの苦しみを書こうと思います。
ここで、一点注意していただきたいことがあります。先ほど“かつて「愛玩子」だった”と書きましたが、わたしは物心ついた頃から愛玩子だったわけではありません。むしろ小学生の頃は親に暴力を振るわれたり無視されたりと搾取子のような扱いを受けていました。
わたしが「愛玩子」として扱われるようになったのは中学生以降、特に高校生になってからです。その理由は単純で、わたしが「子どもみたいに反抗するのはやめて大人になろう」と親に逆らうのをやめたからです。
思春期以降、「愛玩子」として扱われていたわたしは、生活費も学費も全て親に払ってもらっていました。そればかりか、ときおり百万円単位でお小遣いをもらっていたので、お金に困ったことは一度もありませんでした。実家を出て親と縁を切った時点で数百万円もの貯金があったため、車や家具、家電といった生活必需品を揃えるのにも苦労しませんでした。
ではなにが苦しかったのか?というと、ひとことで言えば「“自分”を殺さざるを得なかった」ことです。
わたしには、自分の意思も感情も分からなかったのです。
大学受験の時には、親に負担をかけないようにと実家から通える国公立大学を志望しました。
自分が何に興味を持っているか分からなかったので、高校時代に得意だった教科を大学の専攻分野にしました。
病気の母が話を聞いて欲しそうにしていれば、深夜2時3時まで付き合いました。
わたしが「なにも知らない無知な娘」を演じていれば、父がわたしを馬鹿にして喜ぶのを知っていたので、知っていることでも知らないふりをしていました。
父や母の言うことに違和感を感じても、決して反論したりはしませんでした。
研究室の同期に内心イライラしていても、口では全然平気だと言っていました。
・・・
例を挙げればキリがありませんが、つまりは本当の自分を完全に見失っていたのでした。
そんな状態で生きる希望を見出せるわけもなく、いつしかわたしは「死にたい」という気持ちで頭がいっぱいになっていました。研究室に来ていても、死にたい気持ちと戦うので精一杯で、研究など隙間時間を使って辛うじて進めている程度でした。
やがてわたしは自殺方法を具体的に考えるようになり、実行する一歩手前まで来ていました。その期に及んでようやく自分の親が毒親であることに気づきはじめ、Twitterやいろんなサイトを通じてたくさんの知識を身につけ、九死に一生を得たのでした。
では親に反抗し続けて「搾取子」になっていた方が良かったのか?というと、そうも思えないのです。
実家を出る間際まで親にとっての「良い子」であり続けたからこそ、親に怪しまれることもなくスムーズに縁を切れたのだと思いますし、就職して間もない頃に経済的に余裕があったからこそ今の生活があるのだと思います。
わたしがとった選択は、絶望的な状況下での“賢い”選択であり、最善手だったのではと思えるのです。
つまり、現在の日本では毒親の下に生まれてしまった時点でどんな道を選んだとしても地獄であり、逃げ道はなきに等しいのだと思います。
わたしは、そんな状況を変えたい、少しでもマシな社会にしたいと思っています。
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