後編・デートと約束

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 彼女は、幽霊である。でなければ病人である。もしくは病人の幽霊だ。そうでないと、彼女の体温は人間が恒温動物である事実と矛盾する。

 故に私は落胆した。相手が幽霊では恋に落ちることも恐怖することもできるが、きっと交際することはできないから。

「ここはさぁ、キッズルームだったの。ちびっこたちがテレビに群がってさ、アンパンマンとか見てたなぁ」

 既に廃墟以外の何物でもない空間を次々と指差し、彼女はその空間が元はどのような場所だったのか説明していく。雑多な記憶を、丁寧に整理整頓しているようだった。

「ホヤちゃんはさぁ……あっホヤちゃんって呼んでいい?」

「どうぞ」

 言っておくが海鞘ホヤではなく火屋ほやだ。そうそう実名とは思われないので気楽にアカウント名として使っている。

「ありがと。ホヤちゃんは入院ってしたことある?」

「……そういえばありませんね。二十五年生きてきて、たぶん、一度も」

「羨ましいなぁ。私は結局死ぬまで、この病院まで出られなかったよ」

 あぁ、やはり。

 彼女はそうなのだ。

 けれどこの実感は。体温で勝手に判断したときよりも、直接こうして教わったときの実感は、ひどく寂しく、切ない。

「だからね、この病院のことは誰よりも知ってるの。私より長く居たお医者さんもナースさんもいなかった、もちろん患者さんも。私が一番の古株」

 言いながら声量を落とし続けた彼女は最後に「あぁ」と呟き、「着いちゃった」と笑った。

 その部屋も、これまでの何処と変わることなく廃墟の一言で済ますことができる荒れ模様だ。

 ベッドやテレビ台など、一目で病室とわかる物体は軒並み撤去されており、割れた窓ガラスから生ぬるい風とあざといくらいに眩しい月明かりが入り込んでいる。

「ここでね、死んじゃった」

 彼女の生が、死が、途端に現実味を帯びて、私は繋がれていた手を初めて握り返し、引き寄せ、抱きしめた。

「へくち」

 魂と魂の間に流れる断層があまりにも冷たくて、くしゃみが出る。

「無理しなくていいのに」

「それは私の台詞だよ」

「……?」

「あなたはさっきから笑ってばっかり。無理しなくていいよ、怖くないから」

「……本当?」

「本当」

「もう、ブザー鳴らさない?」

「鳴らさない」

「スタンガンもバチバチしない?」

「しない。あれは驚いてしまっただけ。遠くから近づいてきてくれたら、最初からこうやって抱きしめてた」

「嘘ばっかり」

 嘘ばっかり。もう一度そう言って、彼女の声が、肩が震える。

「好きって言ったのに。ずっと一緒って言ったのに。……あいつは退院して……一度も会いに来てくれなかった。私はこの窓から空ばっかり見て、何度も何度も記憶を反芻して……反芻して……何度も何度も死にたくなって……気づいたら……」

 冷たい彼女の指先が、私の皮膚に食い込む。痛みはない。痛覚が麻痺してしまっているのだろう。

「ねぇ、ホヤちゃんは私のこと、好き?」

「うん。一目惚れ」

「そっか、じゃあ呪うね」

 彼女は耳元でそう言うと、私から離れて窓際へと歩いていく。

「……あの人のことをこんなに……ずっと待ってたのに……バカみたい。ホヤちゃんみたいな子に……こんな簡単に救われちゃうなんて」

「私みたいな子で悪かったね。それで? どんな呪いかけたの?」

 窓枠から一歩踏み出した彼女は、あざといくらいに眩しい月明かりの道に降り立ってこちらへ振り返った。

「しばらく私のことが忘れられない呪い。あ、あと全然マッチングしなくなる呪い」

「それは困るなぁ」

「じゃあ呪うのやめる。その代わり二つ約束して」

「いいよ」

「まだ何も言ってないのに……。一つは、今日くらい月明かりが眩しい夜は、きっと月を見て。私を思って」

「わかった。ついでに愛も囁いちゃう」

「ステキ。もう一つはね……ホヤちゃんがコッチに来たら、今度は私から抱きしめさせて」

「わかった。ついでに私も抱きしめちゃう」

「ステキ。ふふっ……あぁ、こんなにステキな気持ちになるのはいつぶりだろう。なんだか……少し、懐かしいや」

 それから私に背を向けて彼女はゆっくり、ゆっくりと天へと昇っていく。

 私は彼女の満足気な声と微笑みに耳を傾けながら、彼女が月と混ざり合うまでを見届けて、彼女の説明を思い出しながら廃墟を眺めつつ車に戻った。


×


 呪われた。完全に呪われた。

 あれから彼女以外の子と全然マッチングしない。これは私のプロフィール画像や自己紹介文が悪いのではなく、呪われているからに違いない。流石は虚無僧や修験僧が裸足で逃げ出す平常京病院跡地の幽霊だ。

 だから私は、今晩も月を眺めて語りかける。

「そっちはどう? ちゃんと暖かくしてる?」

 あの夜の出来事は、彼女の顔は、声は、体温は、まだまだ忘れられそうにない。

 すなわち、私はこの厄介な呪いと共にしばらく生きていくことになりそうだ。

 だから、なんとなく。

「今晩、会いませんか?」

 私達を繋いだメッセージを、ぽつりと夜空に囁いてみる。

「へくち」

 不意に、くしゃみが出て。少し、笑って。それから、月明かりが涙でぼやけた。

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マッチングアプリで出会った子との初集合場所は廃病院でした 燈外町 猶 @Toutoma

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