第26話
エイブラハムが剣を持った。それが真剣ならずとも、空気が一気に張り詰める。真剣であろうとなかろうと、エイブラハムが剣を持つということが彼自身の雰囲気を変えた。薄い笑みを張り付け、リュウと相向かう姿は狂気を孕んでいる。
対するリュウもまた、笑みを浮かべたまま。ようやく本番だとでも言いたげに、だらりと下げていた指を微かに動かした。
「――――や、あ――――」
殺し合いでもするつもりか、とイリーナは止めようとした。しかし、声が出ない。尋常ならざる達人の立ち合いに、完全に飲み込まれていた。
止める者などいないまま、二人は自然体のままで間合いを詰めてゆく。やがて、ぴたりと歩みが止まった。傍から見ればまだ剣の間合いからも遠い距離。しかし、リュウは足を止めていた。
剣の長さは幸いなことに見えている。真剣での立ち合いであればやすやすと間合いを教えたりはしないだろう。隙あらば一刀両断せんとする剣気を放ちながらも、技術交流の体を保とうとしているらしい。
「―――」
とりあえず仕掛けるか、と踏み出そうとしたリュウの足は意に反して動かない。目付けと、リュウの察知できぬ何かで抑え込まれた。動きを読まされているわけでもなく、ただ足が前に出ない。どうしたものか、と思うのも束の間、エイブラハムが動いた。
す、と一歩だけ踏み出し、僅かに腰を落とす。だらりと下げていた剣は上段に構えられていた。振り下ろされる直前、リュウは違和感に気付く。
(いつ、腰を落とした?)
リュウは自身の視点が僅かに下がっている事に目を細めた。エイブラハムの動きに釣られたのか。いや、そうではない。これはそういう技術だ。
ふ、と短く鋭い呼気を一つ。起こりもなく振り下ろされた剣を右に体を捌いて避ける。ほう、と感心するような吐息が聞こえてきたが、気にせず更に足を下げて二歩ほど後ろへ。鼻のすぐ前を返す刀が通り過ぎていた。
踏み込むか迷うが、迷ったことこそが誤りであると判断したリュウは更に一歩後ろに下がって見に回る。
「いや、いや。まさか避けられるとは。ご存知でしたか」
「偶然、ですな。まさかこのような技術があろうとは」
「なんと。初見とはまた、自信を失いそうです」
傍で見ているイリーナは今の攻防に何があったのかがわからない。見ている限りでは、ゆったりとした動きだったとしか思えないのだ。とりあえず一瞬の交錯で死人が出なくて良かったと安堵した程度である。
「いやしかし、間合いが詰められん」
「そう簡単に懐には入れられませんなあ」
良くわかっていないイリーナを尻目に、親爺どもは楽しそうに笑っている。どちらも並ぶ者がいない程の剛の者。互いの技を比べ合えること自体が稀なのだ。武に生涯を捧げた者同士にしかわかり得ないものがある。
そこで両者が初めて構えらしきものを取った。正眼に構えるエイブラハムに対し、リュウは右半身。そして、またも示し合わせたかのように動き出す。
(いつ、切り上げた?)
エイブラハムの初手は斬り下ろしだったはずだが、そこだけコマを落としたように動作が消えていた。イリーナの目には、突然切り上げた姿だけが映っている。動作自体は速くないはずなのに、何がどうなっているのかわからない。リュウは既にエイブラハムの剣の内に身体を滑りこませている。これも目で追えていない。
リュウはエイブラハムの剣の結界とも言える間合いの内に踏み込んだ。自由に剣を振らせてはならぬと超至近距離を選択。しかしエイブラハムがそのままにするわけもなく、膝を打つ気配を見せる。対するリュウは踏み込んだ足でエイブラハムの前足を外へと押した。ほんの僅かにエイブラハムの身体を押せればそれだけで膝を封じる事ができる。
同時に肘を入れようとしたところで、直上から突きが落ちてきた。切り上げた剣をそのままにするとは思わなかったが、エイブラハムは逆手に持ち替えての突きを放ってきたのだ。リュウは頓着することなく腰を落とす。更に重心を前へ。突き殺される前にエイブラハムを吹き飛ばせば良い。
「ぐう―――」
エイブラハムの身体が浮き上がる。果たして賭けはリュウの勝ちで終わった。普通であれば突きを回避するために立ち回るところだが、構わず前に出た。回避するだけならばできるが、それではまた懐に潜り込むという分の悪い賭けが発生する。ならば前に出るしかないと判断したのだ。
結果として見れば、リュウの脳天を狙った突きは額を掠めるだけに終わった。が、一歩間違えれば頭を割られている。命を奪い合うような立ち合いではないが、あまりに無謀とも思える行動だ。
「うまく避けなさる」
「なんのなんの。かわすのであれば二の太刀で、と思いましたが」
派手に飛ばされはしたものの、エイブラハムもまた事もなげに笑みを浮かべている。しかし、彼の胸中は驚愕に彩られていた。上手く力が抜けてくれたのは良いが、それは狙ってやったことではない。
あの状況でも前に出てきたリュウの肘に腰が引けたのだ。
そのため突きの狙いは逸れていた。しかし、腰が逃げたお蔭で強烈な肘の直撃を避けられたのだから、命拾いしたとも言える。
何とも恐ろしい攻防。
それにしてもどれだけの死線を潜り抜けてきたのか。一瞬の判断、危機への嗅覚が常人の域を大きく逸脱している。腕に覚えがある者ですら溝を開けられているだろう。
(なるほど、アレハンドロでは勝てぬわけだ)
世界は広い。
リュウもエイブラハムも、太い笑みを浮かべた。
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