第18話
何の抵抗もなく、小石に躓いたように体勢が崩れ、気付けばくるりと一回転して尻から着地していた。痛みも当然あるが、何よりも驚きが先に来る。
押していたのはイリーナであり、飛ばされるのはリュウの方だ。何故、あれだけの動きでこんなことができるのかわからない。
「もう一度だ」
「どうぞ」
再度リュウの肩を押す。動かない。手を添えられた。手応えが薄くなった。
何かを押すとき、手で押したとしても肩に力が入る。当然押される側も拮抗するために力が入るはすだ。
だがどうだ。
リュウの肩はまるで力が入っていない。肘も、イリーナの腕に添えている手も、だらんとしているようにみえる。完全に脱力しているのだ。
力とは筋力だ。力を入れなければ出力は強くならないはずだ。だから女は男に勝てないと言われる。体格も筋力も基本的には男の方が勝るのだから、当然と言えば当然なのだ。
しかし今、その常識とは別の何かを見せられている。いや、体験している。リュウと出会ってから何度目かの衝撃だった。
「円ができているな」
「私と、貴様の腕で」
「そう、そうだ。ここで力が循環している」
「……して、いる……のか?」
「わかりにくいだろう。わかりやすくするのであれば、また円を切れば良い」
「手を離せば切れるのか?」
「それでも切れる。が、歪めて切れば先程と同様のことが起こる」
「よく、わからん」
「ならば軽く押す程度に加減してもらえるか」
「うん」
イリーナは素直に従った。軽く肩に触れて、僅かに重心を傾けた程度。ひたりとリュウの手が腕に触れると、また手応えが薄くなった。
「循環している、という状態は何となくわかった」
「うむ。これはこれで拮抗している。押している力が五とすれば、この円全体で五となる。ここに外圧が加われば歪む」
「………?」
「すこうし歪めようか」
リュウの手が少しだけイリーナの肘を押した。え、と思う間も無く、イリーナはふらりと体勢を崩した。押された方向に流れる身体を支えるように後ろ足を動かすことになる。
反動も何もないからか、ごくごく自然に崩されていた。己の身に起きた事が不思議でならない。
「どうだ」
「なる、ほど。なるほど。歪んだ通りに身体が動いたということか」
「左様。切れれば当然」
「飛んでいく、か」
要するに、拮抗している力の方向をずらしたということだ。当然力を強く出した方の反動が大きくなり、歪ませた方向に動いてしまう。その時、もうひとつの力も上乗せするのであれば然もあらん。
理屈はわかる。理屈だけは、わかる。
「なぜ拮抗する?」
「受け止めるのではなく、受け流すのでもなく、流れを変えて返すのだ」
「さっぱりわからん」
「力の衝突が起こらなければ、流れをある程度操れるものだ」
「衝突していないのに拮抗はおかしくないか?」
「便宜的に拮抗と言った。正しくは円として完成していた」
「力の流れとして円がうまく成っていた、ということなのか?」
「そう。気付いたかはわからんが、あそこから力を入れる事も手を離す事もできなかったはずだ」
そういえば、仕切り直した時も手は離れなかった。その時離そうとは思わなかったが、あれは離せたのだろうか。またやってみなければなんとも言えない。が、全容は全く見えてこない。
「大事なことは脱力することだ。必要なところで必要なだけの力を入れる。そこがわかれば理解もできよう」
「いや、力を抜いたら押されるだけではないか?」
「軸だ。体軸が強くなければ受け止められん。軸があればこその脱力である」
「なるほど、なるほど。だから基礎と言っていたわけだな」
「軸は簡単にできるものではない。日々の修練の積み重ねでこそ成るものだ。身に付けるのであれば、これ以上はないものになるだろうよ」
「武人とは、全員こうなのか?」
「さて。儂も立ち方の重要性に気付いたのは最近でな。思い返してみれば強かった者は皆恐ろしく重かった」
「重いとは?」
「当たってみてわかる重さよ。どんなに強く当たっても全く崩れぬ体幹、逆にこちらがよろめくほどだ。地の底にあるかのような重心の深さを感じた。重さとはそういうものだ」
「貴様も重いのだろう?」
「そうありたいとは思っているがね。まだ遠かろうよ」
なかなかに濃い会話は延々と続いている。予想外の姉の姿に目を白黒させるウルだったが、これはこれで良いことだと思い直してまた馬歩を始めた。
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