第8話

当事者であるはずのイリーナは、一歩も動くことができなかった。時間にすれば数分のことだが、数秒とも数時間とも思えるような、狂った体感時間だったように思う。

音に聞くアレハンドロの実力を、正直過小評価していた。勝てはせずとも逃げおおせるくらいはできると踏んでいたのだ。蓋を開ければ死出の旅の一歩手前。リュウがいなければ何もできずに殺されていただろう。


「ッ! リュウ!」


そのリュウが戦っていた事を思い出した。そこまで離れていないが、砂塵が煙幕の如く視界を遮っている。凄まじい轟音が何度か聞こえたが、いずれにしろ無事とも思えない。会ったばかりで特段思い入れなどないが、自分を庇って死なれたのでは寝覚めが悪いものだ。

砂塵が薄れると共に、戦場の異様さに息が止まった。平らだった森にイリーナの倍以上の高さの壁が聳え立っている。しかもその壁からは千を超すような鋭利な槍が生えていた。

ごくり、と生唾を飲み込み、震える足で歩いた瞬間、何かに足を取られる。


「なんだ、これは…」


地面に走った亀裂が小さな段差を作っていた。こんなものはなかったはずだ。これもアレハンドロの力なのか。

そんな男に命を狙われている事実に、イリーナは震えた。


「おお、無事だったか」


意識が飛びかけていたが、突然かけられた声に跳び跳ねんばかりに驚いた。

声の方向を見れば相も変わらず後ろ腰で手を組んだリュウが近づいてくるところだった。


「生きて、いたのか」

「微妙なところよな。一度は死んだ身ゆえ、今は生きていると言うのだろうか」


ふざけているのだろうか。ふざけているのだろう。直接見てはいないが、大きな爪痕を残す激戦の後とは思えぬとぼけ振りである。

気を張り詰めていた自分がバカらしく思え、イリーナは苦笑した。


「まだその設定を引っ張るのか田舎者め」

「いやいや、儂は事実しか話しておらんよ」

「こうして生きているのにか」

「ふむ。確かに。死んだ死んだと騒いだところで、証明できねば意味がない」

「今のところ反証だらけだがな」


然り、と相槌を打ちながら、リュウは呵呵と笑う。笑い飛ばすと言うよりは、先程の激戦など本当に気にしていないのだろう。あれがリュウの日常なのか、それとも狂人なのか、イリーナには現時点で判断はつかなかった。

ふと視線を地面に向けてみれば、リュウの足首が少しばかり腫れている。


「おお、興が乗りすぎた。加減を誤ったようだ」

「アレハンドロとやり合ってこの程度の負傷というのがまずおかしい」

「うん? かの御仁から受けた傷はない。これは自傷だ」

「………何と言うか、呆れるばかりだ」


あの激烈な攻めを受けきったのか、それとも避けきったのか、どちらにしてもイリーナの理解が及ぶところではない。しくしくと痛み始めた頭を軽く振り、彼女はリュウの足元にしゃがみこんだ。


「なに、軽い捻挫だとも。しばらく安静にしていれば」

「この程度ならすぐ治せる。少し動くな」


首を傾げるリュウを無視してイリーナは患部に手を翳した。ぽ、と緑色の光がリュウの足首を覆う。

当のリュウは目を丸くして驚きを露にするが、動くなと言われたからには身動ぎもできない。ややもすると鈍痛は徐々に薄れてゆき、やがて消え去った。


「これで良いだろう」

「忝ない。しかし、アレハンドロ殿も不思議な力を使っていたが、これはどういうものだね」

「精霊に力を借りているだけだ。精霊術と一般的に呼ばれている」

「ほほう。理を超えた業とみえる。これはまた、ますます儂の暮らした世とはかけ離れているなあ」

「精霊術もない田舎だったのか」

「もう田舎者で結構」


精霊術などという人智の及ばぬ業には出会ったことがなかった。リュウが見聞きした世界が単純に狭かったのだろうか。しかし、イリーナの口振りを見る限りは誰でも知っているようなものらしい。

そんなに知恵の回る方ではないリュウは、自分は田舎者だということにして思考を放棄した。

そのうちどこかで何かしらわかることもあろう。

細かいことを気にしない爺だった。


「ところでイリーナ嬢、被り物が取れたままだが」

「ああ、まあ、良いだろう。私が何かもわかるまい?」

「わからぬ。さして興味もない」

「それはそれで微妙にイラつくな…」

「我が儘なお嬢さんだ。美しき者は懐が広いと聞くが、貴女はどうか」

「怒れば良いのか? ん?」


びしりと足を叩かれるリュウだった。


「それで、その耳は生まれながらなのかね」

「ああ、我が一族にしか現れない徴だ」

「ふむ。美麗な一族なのだろう」

「あ、う、まあ、うん、そう、だな?」


何とも微妙な反応ではあるが、失点は取り返せただろうと爺は判断した。若い衆との会話はなかなかに気を遣うが、あまり擦れていなさそうで少しだけ心配になる。嘘を見抜けるとも言っていたから、悪意には敏感なのかもしれない。


「嘘を見抜けるのも精霊術とやらか。見抜けていたのかね」

「今までに嘘はなかったはずだ」

「なるほど、だからか」

「このっ! このっ!」


一言多い爺は何度か叩かれた。案外腰が入っていて痛かったが、言わぬが花というものだ。


「さて、厄介事もなくなった。情報料の前払いもできたと見ていいだろう。色々と教えて貰えるか」

「完全に貰いすぎだな。私が知ることならば何でも教えよう。…が、まずは場所を移そう。アレハンドロが帰ってこないとも限らない」

「そうさな。任せよう」


イリーナは先に立って歩き出した。たまたま出会っただけの男だが、最高の拾い物になりそうだった。うまく事を運べれば、一族に大きな利益をもたらすだろう。知れず、イリーナは拳を握りしめていた。

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