第4話
静かな時間だった。
風の音も、土の匂いも、己の鼓動すらも消え失せたそこは、真に無音であった。
死とはこういうものなのか。
しかし、生前の所業を考えればこんなもので良いのかという疑問が沸く。
幾千もの命を手にかけたのだ。
そのことに後悔はないが、怨嗟の声に満ち満ちているべきだ。
これでは報われぬだろうに。
無限に落ちて行く感覚。
闇の中に深く、深く。
リュウはその漆黒を真っ直ぐに見据えていた。
行き先は地獄なのだろう。
己という個が継続して存在するとも思えぬが、続くのであればそれはそれで面白い。
地獄に居るという恐ろしい獄卒を相手取るというのも良い。
若返ったかのような覇気。
ただ前へと、歩を進めていた時分の感覚。
呵呵と笑う。
今更だ。
リュウ=イーロンは死んだのだ。
全ては無に還った。
なんと女々しいことか。
ついぞたどり着けなかった武の頂。
死した身で想って何とする。
未練、断つべし。
「喝ァッ!」
轟、と風が巻いた。
匂いが鼻につく。
明確な違和感だった。
「…む」
自然と開いた目蓋に光が射し込む。徐々に慣れてきたところに、抜けるような青空が写った。
むくりと身体を起こす。
動く身体に少々驚くが、目だけで周囲を伺う。
「これはまた、面妖な」
そこは見渡す限りの草原だった。
リュウの国にはここまで広大な草原はなかった。山岳地帯の中にある猫の額ほどの平地に民が集まっていたのだ。
ならばここは何処なのか。
力強く脈打つ己の鼓動に首を傾げつつ、リュウは立ち上がった。
またも違和感を感じる。
寝起きには節々に痛みがあったものだが、今は何も感じていない。己の手をまじまじと観察すれば、ごつごつとした如何にも武術家然とした指が見える。ふしくれ、肉の落ちた枯れ木の如き手足は幻だったのか。
死する前の夢だとでも言うのか。
わからぬことはわからぬと、リュウは結論を先送りにした。
とりあえず、といった体で彼は歩き出した。既に死した身なれば、何を考えることもない。
死後の世界と言うのならば、見て回るのも一興。
腰の後ろで手を組み、広がる草原を散歩する。
爽やかな陽気である。暑くもなく、寒くもなく、まさに春と言った風情。時折吹き抜ける風は心地よく、草花の香りを運んでくる。空を見上げれば番だろうか、鳥が歌いながら飛び回っていた。
ここまで平和な景色は見たことがなかった。リュウの知る世界が狭いだけなのかもしれないが。
一刻も歩いただろうか。丘陵を越えた先に小川が見えた。少しばかり喉に渇きを覚えている。死後の世界で渇くなどありえるのか、と奇妙にも思えるが。
やがてたどり着いた小川で渇きを癒す。水に中るなどという考えはリュウにはなかった。
一心地ついたところでリュウははたと気付いた。水面に映った己の顔を見て、なるほどと頷く。
「三十を越えたあたりか」
その姿は、リュウが齡三十の頃と相違なかった。過剰な筋肉と離別し、最も均整の取れた体型へと移行を始めた頃だ。
今は衣服を着ているからわかりづらいが、無駄を削ぎ落とした鋼の如き肢体に変化を遂げていた。道理で活力が漲っている。
しかし、水面に見える眼にはまだ違和感があった。が、その疑問もすぐに腹落ちした。
(眼は精神を映す鏡。年老いたものだ)
湖面の如き静謐さを湛えた瞳。若い頃の苛烈さはなりを潜め、凪ぎだけがそこにはある。
悟りを開いたわけでもあるまいに。
自嘲の苦笑を浮かべると、リュウはまた歩き出した。
更に半刻ほど。
風に乗って何かが聴こえてきた。聞き慣れたそれを無視することは容易である。己には関係がないことだ。
しかし。
見えてしまえば放っておくのも寝覚めが悪いのもまた事実。
仕方なしに、リュウは音の方向へと歩みを進める。
「オラッ! 抵抗すんな!」
男が三人、女を襲っているところのようだ。いずれの男も薄汚れた服装に浅黒い肌。農業従事者か、それとも物盗りの類いか。何にしろ、多数で女を食い物にするのはいただけない。
(ほう?)
どうしたものかと思案しながら近づいた時、覆い被さっていた男が吹き飛んだ。リュウの頭上を飛び越え、小川へと着水する。
リュウは足を止めた。
「覚悟は出来ているのでしょうね」
ゆっくりと身を起こした女は燃える瞳で残る二人を見据える。すらりと長い手足は女らしい柔らかな曲線を描き、男一人を吹き飛ばせるとは思えない。まだ見たこともない理があるのかもしれぬと、助けることも忘れて女を観察するリュウである。
狼狽える男に向かって女が一歩を踏み出す。そして大仰に手を振れば、その手には槍が握られていた。
(手に伸縮する槍を仕込んでいたか? いや、継ぎ目は見えぬ)
流石のリュウも度肝を抜かれた。
無から有は生まれない。
それは万物の法則であり、覆せぬ真理のはずである。リュウを襲った魔弾でさえ、錬金術の産物であり、そこには理合いが存在する。
だが、目の前の女のそれは理がみえない。
「は…!」
不自然な足運びから一足飛びに間合いを詰めた女の槍が喉笛を穿つ。ぐるりと回転したかと思えば横殴りの一撃が最後の一人の頭蓋を砕いていた。
そして、その槍がリュウに向けられた。
「貴様も仲間か」
「いいや、儂は通りすがりよ」
女は槍を構えたまま、リュウは腰の後ろで手を組んだまま、互いの目を見つめ合う。ちりちりとした殺気がリュウの鼻っ面を刺激するが、努めて受け流した。やり合うことに否やはないが、もう少し見極めておきたかった。
「………そう」
頭を振って視線を落とした女はしかし、槍を振りかぶった。大きく一歩を踏み出し、膝、腰、肩と美しく力が伝達する。十二分に加速した力で、槍が女の手から飛び立った。
対するリュウは不動。
殺意の塊は狙い過たず。
リュウの肩を掠めて後方へと飛翔した。
大気が切り裂かれる金切り声を乗せ、逃げようとしていた男を槍が貫く。
なかなか見事なものだと、リュウは感心した。
「見事」
「それはどうも」
リュウも女も、互いを観察していた。
女が訝しむのも当然のこと。
少しでも投擲の角度がずれていれば肩を抉られていたのに、目の前の男に怯えはない。人が殺されたところを目の当たりにしてもなお、この余裕はなんだ。胆力が並外れているのが、単純に事態が飲み込めていないのか。
女から見れば、得体が知れない。
「一つ、質問を良いだろうか」
「………何か?」
警戒を解かない女に、リュウはのんびりとした声で話しかけた。
「ここは何処だろうか」
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