第2話

「職を辞せ」

侘しい東屋に二人の男がいた。小さな机を挟んで差し向かいに座った両者の間に親密な空気は感じられない。

開口一番に退職を勧めた若者は、その切れ長の瞳に冷涼な気を乗せていた。

もう片方の男は小さな茶碗に注がれた茶をちびりと啜り、小さく息を吐き出した。


それは小柄な老人だった。

生の気配は薄く、しかし清冽な空気をまとっている。

ゆったりとした動きにはしかし、少しの老いも感じさせない。


若者と初老の男は真っ直ぐにお互いを見つめている。余人には預かり知らぬ空気がそこにはあった。


開け放した窓から爽やかな風が通り抜けた。少しの時間を置いた後、初老の男がようやく口を開く。


「老骨はいらぬと」

「時代は変わった。貴公の名が有用だったのも既に過去のこと」

「そうか」


かたり、と茶器を置いた音が虚しく響く。また、両者は口を噤んだ。

そこに悲壮感はなく、静かな空気が横たわっている。


どちらにもわかっていたことだった。

激動の時代は終わり今はその傷を癒すため、国は内政に力を入れている。

現王の治世下にあっては戦など起きようはずもなく、武に生きた者は無用となっていた。

など、時代が許さぬのだ。


国も人も、いつまでも同じ時にはとどまれぬものだ。

刻一刻と変化を見せ、取捨選択を繰り返して最適化を進めて行く。

人はそうして長い時を歩んできた。

今回は、捨てられる側に初老の男がいただけの話である。


「リュウ殿、魔槍と呼ばれし人よ。貴公が居なければ我が国は成立し得なかった。その功はわかるものにはわかる。だが」

「構わんよ、ジーク。私は私のために槍をしごいていただけにすぎん。たまたま、そこに屠るべきものがあっただけのこと。それを功などと、過分に過ぎる」

「貴公、貴公は…。いや、そういう方であったな」

「なに、気にすることはない。良くしてもらった。礼こそ言えど、恨み言などどうして言えようか」

呵呵と笑うリュウに、ジークは珍しく苦笑した。

二人の付き合いは長かった。

共に戦場を駆け、酒を酌み交わした。

その道は武と文に分かれようとも、心では確かに繋がっていた。


ジークとて、リュウを追い出すような真似はしたくなかったのだ。

しかし、これから続く太平の世に高額な維持費を垂れ流すだけの武器は置いては置けない。

録を減らせば飼っておくこともできただろう。減額しようと、リュウは笑って許すはずだ。

しかしそんな不誠実なことはジークにはできなかった。

そして、飼い殺すことが良いとも思っていなかった。


彼は槍なのだ。

どこまでも真っ直ぐに、己を貫く槍。

他を寄せ付けぬ絶技を持ちながらも、常に先を目指す求道者。

止り木で少しの間休むのは良い。

だが、それはあくまでも本人の意思による小休止であるべきだ。

国は報いるのが難しいほどの献身を受けた。

ならば、誰が何を言おうとも、リュウの旅立ちを助けるのがジークの仕事なのだ。


「つまらん役回りをさせてしまったか」

「何のことか?」

「戯れ言よ」


リュウは正しくジークの献身を受け止めていた。

悪鬼羅刹と言われようと文句は言えない生き方をしてきたが、この歳の離れた友のなんと高潔なことか。

この男がいれば、確かに老兵はいらぬ。


(洟垂れ小僧が、良くも成長したものだ。士官などくだらぬと思いもしたが、良い時を過ごした。ああ、良い時だったとも)


リュウが茶を飲み干したのを見て、ジークは立ち上がった。

一歩、二歩と下がり、深々と頭を下げる。

万感の思いがあった。

決意してもなお、目頭は熱くなり、声が震えそうになる。

歯を食い縛り、意思の力で全てを捩じ伏せるのだ。


「師よ、友よ。貴方の道行きに幸多からんことを」

「うむ。縁があればまた、また会おう」


好好爺然と笑うリュウ。

二度と逢わぬだろうと理解していても、なお清々しい。

自身をろくでもない無頼漢だと理解しているリュウには、ジークの気遣いが有り難くも面映ゆかった。


暫く頭を下げていたジークが東屋を去った後、リュウは大きく息を吐き出した。

なかなかに充実した十年だった。

己に師事するものなど出てくるとは思ってもいなかった。

あれが師事と言えるのかは少しばかり疑問は残るが、ジークが師と言うのであれば師事なのだろう。

己が不要と言うのであれば不要なのだ。

ジークという男は優秀だ。

まだ三十路に入ったばかりで既に国の中枢に入り込んでいる。

これからどんどん出世してゆくのだろう。

居ても武働き以外に役立たぬ老人など、いないほうが良い。

彼の将来を思えばこそ、憂いなく、揚々と旅立てると言うものだ。


どれ、と小さく声を出して立ち上がる。

少しばかり節々が痛むが、近頃はそれも楽しく感じていた。

遠い遠いと感じていた頂は案外近くあるのかもしれぬ。

十年の歳月は、リュウの価値観を変えていた。

我一人。

而我一人に非ず。

人というものの理を、今更にだが、朧気に理解したのである。

なるほど、武とは矛であり、盾でもあるのだ。

技ばかりに気を取られ、本質を理解していなかったのだから、頂など望むべくもなし。

実に、実に遠回りをしたものだ。

ジークが勤める王城の方向へと頭を下げ、魔槍と呼ばれた男は東屋を辞した。

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