第ニ幕 そのあやかし、憂う

 日菜乃を伴った烏の診療所の帰り、すずみ屋の前に小さな人影があった。距離的に遠いために不的確だが、それでも建物はすずみ屋に違いない。カーテンに閉ざされたガラス越しの休業のプレートが視界にあるはずだが、引き返さずにそこに佇むのには理由があるのだろう。


 「稚児、先に行くぞ」と日咲と雅盛が駆けていくのを見据え、古川の腕のなかにいる日菜乃は「速ーい!」と手を叩いた。彼女はまだ精神的に不安定なため、定期的に診療所にお世話になっているというわけだ。


 日咲たちは依頼人となる者と話をしていることだろう。数分遅れてすずみ屋にたどり着いた古川が聞いたのは、件の依頼人がすずみ屋にちょこちょこ遊びに来る【猫又】――小町こまちと飼い主らしい若い女性である梅森うめもりだということだった。


 初めて会ったときに、【猫又】はこの界隈を散歩コースにしていると言っていた。日咲や雅盛は四足歩行で闊歩かっぽする白猫を何度が見ていたらしいが、古川としてはいましがた出会ったとしか言いようがない。赤い首輪をした青い目の白猫は『小町』と名乗り、『今後ともお見知りおきを』と挨拶をして帰っていったのである。そして次の日から、小町は遊びにくるようになったのだ。


「拝み屋さん、こんにちは」

「こんにちは。いま開けますので、少々お待ちくださいね」


 重なる声に会釈しつつ日菜乃をその場に下ろしてやれば、日咲や雅盛がそれぞれ日菜乃の手を握りしめる。そして雅盛が「小町は餌ねだりだろ~?」とからかうように問えば、小町はそれを否定するように手を招いた。


「違いますよ~。この姿人型で餌をねだるわけがありません。今日ここへ来たのは、拝み屋さんに少し相談に乗ってほしいことがあるからなんです」

「相談ですか?」


 開錠した入り口の引き戸に手をかけた古川が肩越しに問えば、小町と梅森は見計らったように同じタイミングで「ええ」と神妙に頷く。


 ゆっくり開けられる引き戸では、紐を通した吸盤で貼りつけた休業のプレートがガラスに当たり、かたたんと小さくも軽快な音が上げられた。




【 そのあやかし、憂う 】




 運ばれた緑茶を飲みつつ、お茶請けのカステラを口に運びながら小町はつらつら語り始める。どうやら友人、いや、友猫ゆうびょうに関して、思うところがあるらしい。


 まず、その友猫は散歩仲間であり、小町と同じ【猫又】だという。名前は獅子山ししやまというようだ。虎柄であるがために、雌にも拘わらず呼ぶ方も呼ばれる方も獅子山がしっくりくるらしい。小町は親しみを込めて「しーちゃん」と呼んでいると言う。ソファーの横に立ったままの日咲と雅盛の「獅子はライオンだぞ」という突っ込みは「まあまあ、そこは重要ではありませんから。固執するのはよくありませんよ」との言葉にかわされる。


「雅盛も日咲も突っ込みは自重な。続きをどうぞ、小町さん」


 古川がそう促せば、小町は続けていく。飼い主であった老夫婦が相次いで亡くなり元気がない――と。最初は元気そうに振る舞っていたが、それはやはり虚勢で、日が経つに連れて笑顔が消えていったようだ。最近では、不快を表す以外は能面に近いと言う。


「つまり、小町さんは獅子山さんに元気を取り戻してほしいということですね?」

「そういうことです。ですがねえ、ひとつ問題があるんですよ」

「問題とは?」

「家は取り壊されたようで更地になったんですが、そこから動こうとしないんです。丸まって、一歩も動かないんです。見る度にやつれていくしーちゃんが心配で、見ていられないんです……!」

「私にはやつれているようには見えませんでしたが、小町が言っているのなら本当だと思います。お忙しいとは存じますが、どうか拝み屋さんにお力添えをお願いします」


 深々と頭を下げたふたりを見据える古川は、「顔を上げてください」と呼びかける。そうして緩やかに顔を戻した彼女たちに対し、「事情は解りました」と笑みを浮かべた。安堵したふたりの前に、「稚児」と差し出されたファイルを広げていくのは依頼を請け負ったためだ。


 いの一番に必要なファイルを持ってこられたことで上機嫌な日咲と自分が持ってこられなかったことで実に悔しそうな雅盛に挟まれた日菜乃は、どうしたものかと困惑の色を浮かべている。キツネミミもしっぽも垂れ下がり、元気がない。


 「依頼料の相場はだいたいこれくらいですね」と代金について説明する傍ら、古川は雅盛にもうひとつファイルを持ってくるように指示した。「あい、解った」とすっ飛んでいく雅盛のしっぽは左右に元気よく揺れている。


 その様子を眺める梅森は目を細め、感心したように「拝み屋さんは【あやかし】に好かれていますよね」と笑みをこぼす。すかさず「稚児は愛らしいからな」と自慢げに胸を張る日咲のしっぽも、緩やかな半円を描くように行ったり来たりしていた。もちろん、日菜乃も元気を取り戻してたようで、「かなちゃんといるとほんわかする」と笑っている。


「ほんわかで思い出しましたよ! 小町から拝み屋さんは『不思議と安らぐ人』だと聞いていたんですが、たしかに安らぎますねー」

「そうなんですか?」


 勢いよく両手を合わせる梅森に答える古川だが、いまひとつ解らないといった顔をしている。そんな彼に助け船を出すかのごとく、小町が「そうですよ~。拝み屋さんの近くは温かいんです」と続けた。ファイルを片手に戻ってきた雅盛までもが「それは稚児だからだな」と、誇らしげな顔をしている。


「俺だからって、どういう意味なんだ?」

「稚児は優しい子だ。心も清い。それらが染み出た稚児の傍はとても温かくて安らぐんだ」

「なるほど。オーラみたいなものか」

「まあ、似たようなものだ」


 古川は手渡されたファイルを開き、そこから契約書と記された用紙を取り出す。机上に広げられたファイルの横へとそれを置き、「依頼料にご納得をいただけた場合は、こちらにサインをお願いします」とひと言添えることも忘れない。


 すずみ屋の依頼料は相場に合わせているが、内容によっては多少変動することもある。そんな説明を交えつつもすみから隅までファイルを読み込んだ梅森はふたたび頭を下げた。――「よろしくお願いします」と。


「こちらこそ、よろしくお願いしますね」


 笑みで返した古川は、署名された契約書を片手に部屋の隅に置かれた複合機へと歩み寄った。排出されたコピー用紙を梅森に渡せば、小町は【猫又】の姿へと変貌し、彼女の膝に丸まる。「ありがとうねえ」と一度頭を下げて。そうして安心しきった顔で、「お嬢と拝み屋さんのお蔭で、安らぎが二倍だねえ」と大きなあくびをひとつする。【あやかし】たちも釣られて、少しの間、あくび合戦が繰り広げられていたのは言うまでもない。


 談笑を終え、小町を従えてすずみ屋をあとにする梅森は、みたび頭を下げて引き戸を閉めた。


 ひとりと一匹の気配が完全に消えたあと、古川はさっそく【妖狐】たちを呼び寄せ、「頼むな」とそれぞれの頭を撫でていく。それだけで【あやかし】たちはやる気を上げ、『任せなさい!』と言うように胸を叩いた。


 ――拝み屋の看板を掲げる店は数あれど、そのなかでもすずみ屋は特異である。先代の教えであった『【あやかし】とともにあれ』が受け継がれているのだ。『人間にもいろいろあるように、【あやかし】にもいろいろある。その【あやかし】の立場になって考えてみれば、なにかが見えてくるだろう』――と。


 逆の立場に立って考えることは簡単なようでいて実に難しいが、古川はそれを信条になるべく依頼を断らないようにしていた。不貞腐れる【妖狐】たちに手を焼くことはあるが、それはそれで楽しいものである。




    ★




 本来ならすぐにでも行動に移す古川であるが、件の更地に足を踏み入れたのは依頼を請け負った一週間後であった。【妖狐】たちは古川の命に従い、先に獅子山の様子を見に行っているが、それは怖がらせないように遠くからであるので、あまり意味を成していない。たしかに【妖狐】たちに言われたとおり、雑草だらけということはなく、砂地の四隅に草がちょこんと生えているだけである。


 大学と臨時顧問を終えてのジャージ姿であるが、砂地ということで却ってよかったかもしれない。「こんにちは、獅子山さん」と挨拶をするのは、膝をつきながらなのだから。


 古川を一瞥してすんと小鼻をひくつかせた獅子山は、「若いのは拝み屋か」と警戒するように低い声を上げた。不快だとでも言いたげに茶色の目をすがめ、今度はふんと鼻を鳴らす。


「なにをしに来たのかは知らないが、用がないのなら帰ってくれないか?」

「今日はピクニックをしに来ました」

「夕刻にピクニックだと? 若いのは頭のネジをどこに落としたんだ?」


 怪しむ獅子山に対し、古川は皮肉混じりに肩を竦める。「綺麗じゃないですか、夕日。この時季だと肌寒いのが難点ですがね」と。


「笑わせてくれるな、若いのは」


 「にゃははは」と乾いた笑いを上げた獅子山であるが、「まあ、いいだろう。せっかくのピクニックだ、楽しんで帰っておくれ」と古川たちを受け入れた。まるで世界を隔てるようにそっぽを向いてではあったが、そうさせたのは古川だからであろう。


「では、お言葉に甘えさせていただきますね」


 「お口に合えばよいのですが」と先に獅子山の前に賄賂――購入した餌入れと水入れに並べて注いだクッキーと緑茶――を供え、【あやかし】たちとともに敷いたビニールシートに座り、緑茶をお供にクッキーを頬張り始める。【妖狐】たちは相変わらず頬袋を持つ動物のようになっていたが、やはりとても愛らしい姿だ。


「はあ~、稚児のクッキーはうまいのひと言に尽きるな」

「固すぎず柔らかすぎない絶妙な固さだ」

「かなちゃんのご飯はどれもおいしいよねー」


 日菜乃の言葉に日咲たちは「うむ」と声を重ね、「ただ」とクッキーに描かれた〈顔〉を揃いも揃って眺めた。狐は今日も〈狐にあらず〉である。


「絵は壊滅的だ、な」

「壊滅的じゃあ、かなちゃんが傷ついちゃうよ! 美術的価値はあるって言わないと!」

「ないだろう。わしから見ても下手だぞ。幼子が初めて描いた絵に似ているな」

「うん、絵のことはいいから。さんざん突っ込まれたあとなんだよ、俺は」


 話を変えろと言いたげに手を打つ古川に【妖狐】たちはへにゃんと笑う。慌てる姿が堪らないとでも言いたげに。


 賄賂の匂いを嗅いだはいいが、口をつけずまた丸まり、そのまま【妖狐】たちを観察していた獅子山は目を細めていた。その瞳には懐疑の色が浮かんでいる。


「ずいぶんと【あやかし】がなれ親しんでいるが、どんな風に手懐けたんだい?」

「稚児を愚弄するのなら許さんがな、稚児を見てみろ。愛らしいだろう。ああ、実に愛らしい。染めたことのない髪は、【烏天狗】に引けをとらず艶やかだ。触り心地もよい」

「顔は人並み――……、まあ、おれたちに言わせると少し幼いが、それが稚児である証だ。可愛らしいだろう?」

「わたしは少ししかかなちゃんといないけど、病院にも毎回付き添ってくれるんだよ」

「わしらは稚児がガリガリに痩せようとも、ゴリゴリの筋肉野郎になろうとも愛せるぞ。稚児とはそういう存在だ。――お前にもいたはずだ、獅子山」

「いない、と言えば嘘になるか……」


 獅子山は遠くを眺め、なにを思ったのか嘆息を吐く。「愛した者は旅立つばかりだ」と紡いで。どうやら過去を振り返っていたようである。


「私はいつもいつも看取る側でしかない。【あやかし】であるが故に、看取られることはあり得ないんだ。母であった者も父であった者も先に逝き、私を飼った者さえも私を遺して逝ってしまう。例外はないんだよ」

「なるほど、お前は感傷に浸っているわけだな」

「貴様になにが解る!」


 日咲の横柄な物言いに対し、獅子山は声を大にした。完全な臨戦態勢であり、辺りに響き渡るほどだ。日咲は驚きに目を見張ったが、しかしすぐに顔をひそめ、「わしにお前の考えが解るわけなかろう」と淡々と続けていく。


「人間と比べられぬほど、【あやかし】というのは長寿だ。人であろうが物であろうが、失うことは必然だろうよ。お前だけではない」

「――帰ってもらおうか、【妖狐】たちよ。私の視界から消えてくれ!」


 その叫びは、全身の毛を逆立てたままに放たれる。ふたつのしっぽを揺らしたままなのも、猫である習性からであろう。つまりは、不快や怒りを表しているのだ。


「解りました、今日のところは帰りますね。嫌な気持ちにさせてしまい申し訳ありません」


 渋面なままの日咲をひょいと抱き上げた古川は頭を下げるが、反して日咲は「おい、獅子山!」と暴れだした。「愛しい人を失ったのは自分だけだと思うな!」と声を荒らげて。


「帰れ!」


 互いに睨み合う【あやかし】たちをよそに、わたわたと急いで片し終えた【妖狐】二匹の方はといえば、上着の裾をそれぞれ引っ張った。それを合図に古川は「では獅子山さん、また」と、再度頭を下げる。「二度と来るでない!」という怒鳴り声を背中に受けたのは至極当然であろうか――。


 日咲は腕のなかでぷりぷり怒ったままであったが、すずみ屋に近づくにつれて肩口に顔を埋めていた。「みな、すまぬ」と口にして。


「獅子山の言うことも日咲の言うことも道理であるから難しいな」

「【あやかし】の悩みの種だよね」


 両隣を歩く雅盛と日菜乃の言葉に対し、古川は「人間も同じだぞ」と付け加える。「【あやかし】であれ人間であれ、失うことからは逃れられない」と。


「わしらも何度看取ったか解らんというのに、自分だけが傷を負ったと嘆く姿に我慢ならなかったのだ」

「まだ悲しみが大きいんだよ。夢ならいい――そう思って寝て、目が覚めて虚無感に襲われる。空いた穴は埋められなくてさ、どうしたらいいか解らなくなるんだ」

「ああ、稚児おおおお! わしが悪かった! つらいことを思い出させてしまったのう!」


 沈んだ声の古川に慌てだした日咲は頬ずりを繰り返し、その度にキツネミミが鼻先を掠めていく。「ぶっ、ちょっ、日咲っ」とこちらも慌てたように日咲を引き剥がした古川は、「稚児ぉ」と涙目になる日咲を抱き直した。「落ち着け」と宥めるその手の心地よさに目を細めた【あやかし】は「うむ、取り乱してしまったな、すまぬ」と、顔を上げる。


「続きだけどな、悲しみに押し潰されそうになっても、それを小さくできたのはみんながいたからだよ。ありがとうな」

「見ろ! わしはいま稚児の笑顔を独り占めしているぞ!」


 「ははははっ」と高らかに笑い、しっぽを揺らす日咲に恨めしそうな目を向ける【あやかし】たちは、「稚児!」「かなちゃんっ!」と足元に飛び付いた。構われないのは不満だと、そう顔に書きながら。


「そろそろおれも構え、稚児」

「わたしもっ、わたしも頭撫でてほしいっ!」

「はいはい」


 日咲を下ろし、雅盛と日菜乃も順番に抱き上げて腕のなかに収めていく。自分を見てくれる者がいるというのは、心穏やかになれるものだ。


「――獅子山さんは気づいてないんだよな」


 小町の相談内容からもしやと思い、一週間ほど待ったが、疑惑は確信へと変わった。しかし、肝心の【あやかし】は気づいていないようである。世界を拒絶し、自身の殻に閉じ籠ってしまっているのだから。――自分がそうであったように。


 小さな虎柄の【猫又】は、愛する人を失ってもなお――。




    ★




 夕飯を終えたあとの一服時に、無駄になったクッキーの処理を終えた【妖狐】たちは満腹だと頬を緩めた。そうして今現在、寝る間も頬が緩みきっている。ベッドの上で三人並んで気持ちよさそうな寝息を立てながら。狸寝入りをしていた古川が後ろ髪を引かれながらも寝室を抜け出したのは、深夜を回った時間だった。


 夜の冷たい風が容赦なく顔を攻撃してくるが、季節柄それもしかたがないことだろう。だが、寝間着にコートを羽織った姿には堪え、もう少し厚着をするべきだったかと反省する。しかし、ゆっくりしていれば【妖狐】たちに感づかれて終わりだ。古川には電話機横に置かれたペン立てにあるペン型のライトを片手に、さっさと家を出る他なかったのである。


 目前には街灯があるが、更地のなかまでは照らしはしない。足元を照らす明かりと鼻を啜りながら「こんばんは、獅子山さん」とかけられた声に、丸まる【あやかし】は億劫そうに顔を上げた。「二度と来るなと言ったがな」と敵意を向けて。肢体の横にある賄賂には、どうやらいまだに一切手をつけていないようである。


「そうもいかない事情があるんですよ」

「若いのの事情など知らんよ」

「隣、いいですか?」

「話を聞かない奴だな」


 腰を下ろした古川に呆れた【猫又】は、しっぽを揺らす。小さく素早く。すぐさま伸びた手に頭を撫でられ、びくりと躯が跳ねた獅子山だが、払い除けることはせずに身を任せていた。久方ぶりの温もりに。


 そうするうちに不機嫌さはなくなり、しっぽやミミは普段どおりになる。そうして、数分間続いた無言を切り裂いたのは獅子山の方であった。根負けと言えばいいだろうか、獅子山はくしゃくしゃの顔を上げたのだ。


「……解っているんだ、私だけではないことは。【あやかし】も人間も、愛しい人を失えば傷つく。頭では、理解しているんだ」

「はい」

「……しかし、な……、私はもう限界だ……! 嫌なんだよ、もう嫌なんだ! 引き裂かれそうな思いをするのは、もうたくさんだ! 私は! あと何度失えば……っ!」


 古川が相槌を打てば、獅子山は感情を爆発させた。嗚咽とともに頬を伝う大粒の涙はあとからあふれ、地面を濡らしていく。頭を撫でる手を止めた古川は、震える【猫又】を胸に抱いた。知らず頬を寄せる獅子山はいっそうむせび泣くように、「みゃぁあぁあ」と鳴いて鼻を啜る。


「残念ながら、どう足掻こうとも失うことからは逃げられません。毎日どこかで誰かが亡くなっていて、毎日どこかで誰かが泣いています」

「ああ……、若いのの、言葉通りだ」

「自分だけ生きていていいのかと何度も思いました。悲しみに押し潰されそうになり、いつも暗い顔になっていました。……笑顔を忘れそうになるほど」


 はっきりと語られる古川の言葉はなにをもたらしたか。「若いのも亡くしていたのだな」と、小さく言った獅子山は、ふたつのしっぽで冷えた手の甲を擦り始める。


「施設にいた俺を引き取って育ててくれた、大好きな人たちです」

「そうか……」

「暗い日々のなか、日咲と雅盛――【妖狐】たちは言いました。『知っているか? 悲しみに暮れていては、成仏ができないそうだ』と。本当かどうかは解りませんが、残された者が悲しめば悲しむほど、故人はこの世に囚われるそうです。成仏したくともできずに、さ迷うことになる――」

「……では、愛した者は囚われているというのか?」


 不安げにしっぽを見上げる獅子山に古川はあっけらかんと言った。「どうでしょうね、確認する術はないので解りません」と。【あやかし】はその言葉に茫然とするが、畳み掛ける古川からは視線を外さなかった。


「【妖狐】たちはこうも言いました。『泣いて気が済むのなら、泣けばいい。泣き止むまで傍にいるぞ』と。我慢できずに部屋で忍び泣く俺を影ながら見守ってくれました。あるときに、『もしも、もしもだ。あとを追いたいと思っているのならやめてくれ。いくら死を見てきたといっても、今度ばかりは耐えられぬ。稚児を失うのはごめんだ』と言われました。――その言葉で気がつきました。愛してくれたのは故人だけではないと。日咲も雅盛も、同じように愛してくれているんだと。だから俺は、泣くことよりも笑うことを選んだんです。切り替えに時間がかかりましたがね。いくら望んだとしても、故人が生き返ることはありません」


 顎を伝い額に落ちる涙。獅子山は口を開くことなく古川の話を聞いていた。いや、開けなかったのだ。その内容に、震える声に、涙を流す姿に、【猫又】は微動さえできずにいた。ようやく「言いたいことは、なんだ?」と絞り出せただけなのである。


「獅子山さんにもいるということです」

「なにが、とは言わない方がいいか、若いの」

「ええ」


 獅子山がぎこちなく首を動かした先には――白い猫がいた。しなやかな躯は巧く物陰に隠れているようだが、覗く顔が街灯に照されており、青い綺麗な目がはっきりと解る。


「小町……」

「小町さんの話から、七日ほど様子を見させていただきました。小町さんはことあるごとに獅子山さんの様子を見ていました。土浦つちうら夫妻もそうです。心配だからと、時間を割いて来ていましたよ」

「……ああ……」


 「知らなかった」と漏らされた言葉に古川は小さく笑みを浮かべた。「知ることができたじゃないですか、今夜」と。


「若いの。――どうやら私は、大馬鹿者であったようだ」

「獅子山さんは生きています。この花野町で。いままでも、そして、これからも。あなたがいなくなると悲しむ者と一緒に」

「そうだな……、そうだったな……。立場が逆であったなら、私も悲しいよ、とても」


 とととと、小走りに近づく白い猫は二本のしっぽをピンと立てている。「小町」と呼ばれ、青い目を細めた彼女は「なんだい?」といつもの調子で笑みを浮かべた。


 地面に下ろされた獅子山は「すまなかった、心配をかけたな」と頭を垂れるが、「いいんだよ。私も梅森を失えば塞ぎ込むだろうし、お互い様だ」と小町の方はあっけらかんとしていた。――が、すぐに渋い顔になる。


「だけどねえ、やっぱり、心配だったんだ。しーちゃんを失うのは怖いよ」

「ああ、私も小町を失うのは怖い」


 二匹は「ははははっ」と笑い声を上げ、寄り添うように躯をくっつけあった。しっぽを相手のしっぽに絡ませながら。


「拝み屋さんに依頼するほど心配だったんだよ」

「若いのが来たのはそういう理由からか」


 獅子山の納得した顔は、タオルハンカチで涙を拭う古川に向けられる。瞬間、遥か上空から「いだあああああ!」と涙に濡れた重なる声が響いた。


「うおぅ!?」


 「なんだ、どうした!?」と慌てるより前に、空から小さな黄金色の物体が降ってきた。それもみっつ。古川めがけてとなれば、本人はそれが【なにであるのか】早々に理解する。胸のなかで「稚児ー!」「いなくなるのは反則だー!」「かなちゃんのバカああああ!」と泣き喚く【小狐】たちの背中を撫でながら、「悪かった」と詫びを述べた。


「出かけるなら出かけると、書き置きを残してくれえええ」

「雅盛の言うとおりだ、心臓に悪いぞ!」

「かなちゃんまでいなくなったら、どうしたらいいか解らないよう……」


 切実な涙声に「悪かったよ」とふたたび謝辞を述べる古川に対し、【猫又】たちは「熱烈だな」「拝み屋さんはとても愛されてるねえ」と含み笑いをする。


「当たり前だ、稚児だぞ、稚児! こんなに可愛い奴はそうそうおらんわ!」

「愛さない理由がないな」

「大好きだよーっ」


 涙を浮かべながらも頬ずりを繰り返す三匹の【小狐】に「ありがとう。俺もみんなが大好きだ」と返した。もちろん、背中は撫でたままで。古川のはにかみに黄金色の毛がぶわりと立ち、昂る感情のままの叫びが響き渡る。日咲は「これ以上の幸福はなかろうてー!」と、雅盛は「ふぐおおお!」と、日菜乃は「うわー!」と三者三様だ。挙げ句、そのどれもが身悶えている。


 眺める【猫又】たちは驚きに目を丸め、そしてまた笑い声を上げた。ひとしきり笑ったあと、獅子山は「いやはや、ここまで【あやかし】に好かれている人間は初めて見たな」と涙を拭い、小町は「すごいねえ」と感心するばかりだ。「でも、気持ちは解るよー。私も梅森が大好きだからねえ」と続けられた小町の言葉に、「ああ、私も大好きだったよ」と獅子山は空を仰ぐ。欠けた月と星々が浮かぶ夜空を。


「――大好きだから、もう悲しませたくないんだ。ふっ切ることはまだ難しいが、私は生きるよ。出会えることができたこの町でな」


 虎柄の猫の真摯な言葉と垂直なしっぽに感極まった白猫は、「しーちゃん!」と彼女に勢いよく抱きついた。「なにをするか!?」と慌てるその猫の顔は、どこかすっきりとしているようであった。




    ★




 うにゃうにゃ戯れる【猫又】たちに向かって「また後日ということで、おいとましますね」と切りをつけた道すがら、とことこあとをつける【小狐】たちの姿はカルガモを彷彿とさせる。時折振り返る古川に満面の笑みで応えていたが、すずみ屋の裏側にあたる自宅の玄関先で古川がドアに凭れると、すぐに顔を青くさせた。


「どうした、稚児!?」

「かなちゃん!?」


 重ねられた声に「いや、寒かったなーと思ってさ」と返した古川は、【小狐】の頭を撫でて「さあ、手洗いして寝るか」とスニーカーを脱いだ。「かなちゃん!」「稚児!」とあとに続く【あやかし】たちは頬を膨らませる。からかわれたと気がついて。


 順番に手洗いとうがい、そして涙に濡れた顔を洗えば、【あやかし】たちは早くも夢に旅立っていった。寝息が響くベッドの横に敷いた布団のなか、古川は「引きずられかけたな」と呟く。抱き上げた獅子山の深い〈悲しみ〉――虚無感と絶望が流れ込んできたのだ。


 流されまいと言葉を発するのがやっとであり、倒れなかったのは奇跡に近い。だから古川は【小狐】たちをからかったのだ。そうでもしなければ、〈悲しみ〉に飲まれていただろう。このまま目を閉じてしまえば、振り切った〈悲しみ〉がぶり返しそうだ。それはごめんだと思っていても、疲労感が強い躯の方が音を上げた。いつの間にか、古川は眠りに落ちていたのだから。




    ★




『置いていかないでくれ!』


 その【あやかし】は、ありったけの力で叫んだ。繰り返し、棺に向かって。


 ひとつだった棺は徐々に増えていき、【あやかし】は棺に囲まれた。それは愛している、いや、愛していた者たちの最期の姿である。


 何度叫んでも、何度鳴き声を上げようが、何度涙を流そうが、迎えは来なかった。悲しみに暮れた【あやかし】は町から町を彷徨い、【あやかし】賑わう花野町に根を張った。『なぜ』と問われれば、『住みやすいから』と答えるだろう。悲しみは癒えないままであっても。


 土浦と名乗る老夫婦に拾われたのは、春先であったか。ぼんやりと空を眺めていた【あやかし】に『どこの子だい?』と、声がかけられた。『それはこちらの台詞だ』と小さく返せば、老夫婦は驚くこともなく『おいで』と手を伸ばした。


 幾年も前に息子が巣立ち、年老いてようやく家が広すぎると気づいたらしい。温かく迎え入れられた【あやかし】は初めこそ警戒していたが、優しさに触れて警戒心はなくなり、悲しみは小さくなっていった。帰郷ごとに、息子夫婦とも距離を縮めることもできた。


 だが――。老いた夫は先に亡くなり、すぐさまあとを追うようにして妻も旅立っていった。また自分を置いてきぼりにして。『どうか笑って送ってほしい』というのがふたりの遺言であったが、どうにも堪えられなかった。蓄積された〈悲しみ〉が躯の奥から溢れ、声を枯らすまで泣いた。『置いていかないでくれ』と叫び続けた。


 親類から報せを受けた息子夫婦が帰郷し、慌ただしく葬式の手配がされていくのを【あやかし】は焦点の合わない目で他人事だとでもいうように眺めていた。『大丈夫だ』と頭を撫でられたような気もするが、〈悲しみ〉に支配された【あやかし】には解らない。滞りなく葬式が終わってからさえも、涙は止まることを知らなかったようだ。


 自身が生きている限り、先立たれるのは必然だと【あやかし】は〈絶望〉に飲まれていく。引き裂かれそうな痛みと引き換えにして。


 ――置いていかないでくれ!


 ――どうか一緒に連れていってほしい。


 ――もう嫌なんだ、棺を見るのは。


 ――だからどうか、お願いだから、一緒に連れていってくれ……。


 温かかった家が取り壊されるより前に、【あやかし】は〈生きる気力〉を失った。




    ★




 飲まれまいと奮闘していたが、深層心理では蝕まれていたのかもしれない。古川には夢を見ているという自覚があるが、それでもこの悪意ある視線から逃れたかった。


 睨まれている。それも養父母に。自分たちを殺したのはお前だと、喚かれている。


 逃げても逃げても追いかけられ、呪縛の言葉を繰り返された。殺したのはお前だ。償え。殺人犯。聞きたくない言葉はしかし、頭に響いて止まない。


 広がる闇のなか、肩で息をしながらうずくまり、両手で耳を押さえた。罵倒は古川の精神を精神を壊していき、息が荒くなるとともに涙を流していく。『ごめんなさい』と繰り返す彼にはもう、拝み屋の顔などなかった。


『謝る必要がどこにあるんだ?』

『そうよー。謝る必要なんてないの』


 聞こえた声に勢いよく顔を上げたが、誰かがいるわけではない。だが、この声は愛すべき養父母のものだ。


『謝るなら、要一を遺してしまった俺たちの方だろ』

『ようちゃんが殺人犯なんて笑わせてくれるわね―』


 『不快だから消えなさい』と養母が一喝したのち、闇も罵倒も綺麗さっぱり消え去っていく。現れた店の景色に呆ける古川が感じたのは、温かさだ。影も形もないが、たしかにふたりはここにいるんだと解る。


『……母さん、父さん……』

『【あやかし】の感情に飲まれるとは、まだまだ未熟だなあ、要一』

『ようちゃんも頑張ってるのよー。というよりも、なに格好つけてるのよって話よねー。あなたも何度も飲まれてるでしょーに。私たちが何度助けたことか』

『それはいま言わないでください』


 相変わらず養父は養母に勝てないらしい。おかしさに噴き出した古川の顔は、涙に濡れていなかった。


 頭頂部に感じたふたつの温もりに口元が緩んだ矢先、『もう大丈夫だな。あいつらによろしく言っといてくれ』とのひとことが合図となり、悪夢はあっさりと終わりを告げていく。視界が歪み始めたのだ。


 ――ごめん、ありがとう。


 大きなその声は、ちゃんと届いたことだろうか。




    ★




 目を覚ました古川が見たものは、顔をぐちゃぐちゃにした【妖狐】たちであった。「ややくぉおおおお~」「かなちゃ~ん」とおいおい泣いている。


「顔、すごいな」


 伸ばした手でそれぞれの頬を撫で、腕のなかへと導いていく。抱きしめられた【あやかし】たちは、小さな手で寝間着を握り返した。古川は古川で、「温かいなあ」と頬を埋める。


「うなされていたぞ、稚児」

「叩いても起きないから、どうしよって、思ってた」


 日咲と日菜乃の心配そうな声に「悪い悪い。精神削られる夢を見てたんだ」と返した古川は「寝汗がすごいな……」と不快感にたったいま気がついたようだ。汗臭いのは嫌だろうと手を離した瞬間、日咲は「なにっ!?」とキツネミミを立て、日菜乃は「えっ!?」と目を丸めて驚く。そんなふたりとは対照的に、雅盛だけは「飲まれたのか?」と冷静な声で問うた。それはそれは心配そうな顔で。平然としていたのは声だけである。


「少しな。でも、大丈夫だ。父さんと母さんが助けてくれたよ。よろしく言ってた」


 古川の言葉に安堵しながら「そうか」と返す【妖狐】二匹と、「かなちゃんの父様たちはかっこいいね」とにんまりと笑った【妖狐】一匹は、「顔を洗いにいく」と部屋を出ていった。残された古川は汗を吸った寝間着から適当な格好へと着替える。これで大丈夫だと一息吐いたあとに戻ってきた【妖狐】たちは古川を離すことはなく、三度目の爆睡に入った。


 「心配だから」と声を上げた【あやかし】たちに従わざるを得なかった古川はといえば、たしかな温もりに寝てからも笑みを崩さなかった。




    ★




 大学があるからと二日ほど経ってしまったその日、古川は「若いの!」と獅子山に声をかけられた。丁度更地に向かっているときである。


「こんにちは。後日と言いながら遅くなってしまいすみません」

「いいや、二日など遅くはない。気にするな」

「お気遣いありがとうございます」

「今日は【あやかし】はいないのかい?」

「大学帰りですからね」

「そうか、若いのは学生であったのか。勉学と拝み屋の両立とは感心する」

「しかしまだ未熟なもので、完全な両立とはいきませんが」


 隣を歩きながら話をするうちに、獅子山は土浦夫妻のもとで暮らしていると解った。葬式に際してさとへと戻ってきた息子夫妻は、夫の方は転職に成功し、妻は家計を支えようとパートに出ているらしい。


「それで、だ。若いの」

「はい」

「そのな……、クッキー、作りすぎたら私のところに持ってくるといい」

「食べてくれたんですか?」

「もちろんだとも。小町と分けあったが、【あやかし】たちがああいう顔になるのも頷けるほどにうまかったぞ! すごい才能だ!」


 そう興奮気味に話す獅子山に「ありがとうございます」と返した古川は、深呼吸を繰り返す彼女の言葉を待った。


「いやはや、興奮しすぎたな。すまぬ。では、私は小町と散歩をするのでここでおいとまする所存だ」

「そうなんですか、楽しんでくださいね。獅子山さんの状況が解ったので、こちらもおいとましますね」


 走り出したかと思えば振り返った【猫又】は、「――拝み屋に感謝するぞ。ありがとうな!」と元気よく言って、また駆け出していく。見送る先に視界を遣れば、曲がり角の塀の上に小町がしっぽを立てながら待っているようだった。古川に気がついた小町の方はといえば、一度頭を下げて塀から飛び降り、獅子山とゆっくり歩き始めた。




    ★




 すずみ屋の引き戸を開けた古川は飛び付く【あやかし】たちを難なく受け止める。「お帰り」と騒ぐ三匹の【妖狐】は「ただいま」と頭を撫でられて幾分かおとなしくなったが、まだそわそわしているようだ。


「あ、忘れていた……。先ほど梅森と土浦夫婦がお礼を言いに来たぞ。これを置いていった」


 ソファーに運ばれた【あやかし】はそこでようやく気がついたのか、さらりと言ってテーブルに置かれた箱を手渡した。やたいやきとひらがなで印字されたそのクリーム色の箱からは香ばしい匂いが漂ってくる。


「ここのたい焼きはうまいんだよなー」

「しっぽまであんこがぎっしりだしな」


 昔から人気のたい焼き屋さんを担うのは、屋台やたいという名字だ。だからやたいやき。繋がった金型でいっぺんに焼く養殖スタイルであるが、皮はかりっとしていて、なかにはつぶあんがたっぷりと入っていた。他にもチョコやカスタードクリームといった味も選べる。ひとくちかじれば、食べ終わるころには虜になりそうなほどにおいしい。


「稚児、たい焼きに思いを馳せるのはいいが、話はまだ続くぞ」

「ああ、そのまま続けていいぞ、雅盛」

「依頼料を梅森だけに出させるわけにはいかないと、土浦夫婦が折半を持ちかけてきたが了承しておいた。もちろん契約書にサインさせたぞ。明日振り込むそうだから確認を頼む」

「了解、ありがとうな。先に奥で食べてていいぞ。俺は一時休業の看板貼ってくるから」


 「あい、解った」とたい焼きの箱を恭しく受け取る雅盛は「行くぞ」と日咲と日菜乃を従える。しっぽの揺れ方に頬が緩むまま、古川は戸棚の側面に貼り付けてある吸盤のひとつを外した。提げられた〈一時休業〉のプレートを貼るより前に勢いよく引き戸が開かれ、「はい?」と目を丸める。


「要一、どうだいお茶でも一緒にしないか?」

「かなちゃん、たい焼き買ってきたのー! 一緒に食べましょう! 白波さんは退いてくださいねー」

「姉さん、テンションの落差が激しいんだけど」


 白波と藤はそれぞれたい焼きを買ってきたのか、片手にしっかりと箱が携えられていた。ふたりのことであるから、示し合わせたということはないだろう。もしも鉢合わせてしまったら、片方は違うものを買うようにしているようである。今回はたまたま手土産が重なってしまったということだ。古川の好きなたい焼きで。


 白波を押し退けようとする藤の腕を掴む広尾は「坊っちゃん、こんにちは」とどうにか頭を下げるが、獰猛さを現した姉にあっさりと負けてしまう。広尾は「ぐっ」と潰されたような声を上げ、腹を押さえてうずくまった。藤の攻撃が決まったのだ。肘鉄砲が。「あー」と哀れみの目を向ける白波を他所に、藤は黒い髪を靡かせながら、笑いを堪える古川に「ああ、かなちゃん! 私の天使ー!」と勢いよく抱きつく。もう我慢ならんと言いたげに。


「こらあ、藤いいいい! 勝手なことは許さんぞー!」

「抱きつくのはおれたちの特権だー!」

「わたしも抱きつきたいーっ!」


 騒ぎに気づいて居住スペースから顔を出した【妖狐】たちは、ぷりぷり怒りながら古川の足元にしがみついた。ぎゅっと力強く。最後まで堪えきれずに笑い声を上げながらも、古川は「たい焼き、みんなで食べましょうか」と【あやかし】を招き入れた。




    ★




 臨時で開かれたお茶会の翌日、依頼料の入金を確認した古川は梅森と土浦夫妻にメールを送る。入金を確認しましたという簡素なビジネスメールであるが、またのご利用をお待ちしておりますや今後ともよろしくお願いいたしますなどの一文はない。どこを探してもそれらしい文は見当たらず、最後に店名と名前を入れているだけである。それが古川の考えなのだ。またや今後はない方がいいという。


 ノートパソコンの電源を落とし、おやつにと出した残ったたい焼きに手を伸ばす【あやかし】に視線を遣る。今日も今日とて、幸せそうな顔をしながら頬張る【妖狐】たちは、丸皿に一匹のたい焼きを残していた。




 

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